2016年10月12日水曜日

わが「板橋区の昭和」(2017年3月記)

2017年2月にいき出版から発売された「板橋区の昭和」では、前年に掲載用写真の募集をしていたそうです。私は全く気付きませんでした。

採用写真の提供者には本を謹呈しますとありますが、貴重な本をただでいただくのも恐縮ですし、地方でがんばっている出版社さんですから、1万円を出すことでささやかな応援をしたく存じます。

そこでこの記事では、わが家にある写真のうちから「板橋区の昭和」に載せられそうなものを紹介します。

1971年(昭和46年)撮影の蓮根地域航空写真。
1971年(昭和46年)に撮影された、蓮根・坂下・高島平(旧志村西台町)地域の航空写真です。

左下の黒っぽい空き地が高島平一丁目。高島平の町名は既に発足していましたが、区画整理・団地建設途上の時期にあたります。左側中央付近の細長い建造物は都営地下鉄6号線西台駅。北隣の地下鉄検修場上の都営アパートはまだ建築されていないことがわかります。新河岸川を渡る橋も建設されていません。

中央やや下の長方形群は公団住宅蓮根団地。中央(Bブロック)と東側(Cブロック)を分ける道の南側が蓮根商店街。業務スーパーの場所は空き地だった模様。西側(Aブロック)の北隣が現在のダイエー西台店の位置。川は既に暗渠化されていますが、ダイエーはその気配さえありません。

団地右側(東側)に蓮根駅。拡大すると線路のカーブに高島平行き4両編成の電車が走行していることが認められます。カーブ右側の白い屋根はコビト(東京渡辺製菓)の工場。都道446号長後赤塚線はコビトの前まで現在の幅員が完成していますが、その西側はまだ片側1車線のまま。高島平地域の都道447号赤羽西台線は既に開通しています。

蓮根駅東側、写真右端近くにある円形は城北交通公園入口のクルドサック。

右上に大日本インキ工場が見られます。右上隅の道路が中山道、都電志村橋終点跡地です。




工事中の都営地下鉄6号線西台駅。(1967年4月)
志村西台町(現・高島平丁目)で撮影した、建設工事中の都営地下鉄6号線西台駅の様子。1967年(昭和42年)4月の撮影で、開業まで1年8ヶ月です。2年ほど前までは蛙がのどかに鳴いていた田んぼは、線路や資材置き場に変わりました。


地下鉄西台駅付近 現在の高一第三公園近くの道路にて。(1970年8月)

開業後の地下鉄6号線西台駅の南で撮影された写真です。左奥に現在も使用されている、ホームへ通じる階段がみられます。巣鴨行き6000形4両編成が発車しています。
1970年(昭和45年)夏の撮影で、既に「高島平一丁目」に町名変更されています。
水田を区画整理した土地に、夏草が揺れています。

※以前は「1969年夏」と記していましたが、その後ネガフィルムが見つかり、万国博会場撮影の余りで撮ったものと判明したため、1970年が正当です。また、巣鴨信用金庫高島平支店南側の道路と記していましたが、駅ホームと右側の建物の角度より現在の高一第三公園付近の路上と推定されます。以上訂正いたします。

高架右脇の建物が現在のアーケード付近、凹んでいるあたりが不二家、その右側の白い建物がドラッグストアと飲み屋チェーン店のビル、右端のライトブラウンの建物あたりから右がダイエー西台店の場所です。

そういえば「板橋区の昭和」121ページ下の高島平駅の写真では、「各駅のホームの長さが6両分なので、現在も6両編成は変わらない。」と解説なされていますが、これもまた困りものです。最初に開通した板橋区内の駅でも、8両編成対応可能設計です。これは私が板橋区に直接質問して、回答をいただきました。1972年の日比谷延長時に、当初8両化を計画していたといいます。最終的に6両となった理由についてはおおよそ想像つきますが、推定の域を出ないためここでは言及いたしません。


<2018年8月追記>

2018年7月末、東京都交通局は都営地下鉄三田線の8両編成化を正式に発表しました。ホーム延長工事を必要とする駅は乗り入れ先である東急目黒線の奥沢のみです。「板橋区の昭和」の記述は明確に誤りと断定されます。


志村西台町(現・高島平一丁目)の田畑跡から蓮根団地を望む。(1967年4月)

日本住宅公団が1957年(昭和32年)に建設、供給した蓮根団地です。入居開始時点では現在の高島平地域の開発計画はまだありませんし、都電も当面の間走り続けるものと考えられていました。この写真はそれから10年後の撮影で、既に団地開発と地下鉄建設計画はスタートして、田畑は水を抜かれていました。

写真を拡大してみると、左側から2,3,4,5,6号棟と記されています。現在の新蓮根団地は様々なタイプがありますが、当時はほぼ全棟が均一規格でした。

5号棟前には国際興業バスが停車しています。現在もそのまま「蓮根二丁目」停留所です。
当時は26系統 蓮根町発池袋駅東口行き(現在の池20系統 高島平操車場発池袋駅西口行きの前身)および志村坂下・浮間経由赤羽駅東口行きが運転されていて、いずれも本数はかなり多く設定されていたと思われます。都道446号線の幅員は現在のおよそ半分でした。

写真のあぜ道のつきあたり(右端電柱)が、現在のモスバーガー西台店の位置と推定されます。
背後で煙を吐く高い煙突は、想像ですが現在の地下鉄線路の東側、長後一丁目にあった工場のものかもしれません。

これは本ブログ作者にとっての原風景です。
50年すぎても、この空き地が街並みになっていることがどこかしっくりこない気持ちは心に残されています。


公団住宅蓮根団地。(1982年)

公団住宅蓮根団地。(1982年)

1982年の蓮根団地。上の写真はWikipediaに載せてあるものと同じです。(弊ブログ作者、同一人物がアップロードしています。念のため。)この頃には既に老朽化が目立ちはじめ、建て替えの話がのぼりはじめていました。桜並木は建て替えにより、2列が1列に削減されました。かつては自治会が団地内で花見会をしていましたが、今は坂下の城北公園に出向いているみたいです。


板橋区内最初の公団住宅は1956年完成の小豆沢団地で、蓮根はそれに次ぐものでしたが本格的な造成で、志村の荒川低地側住宅地化の嚆矢的存在と位置づけられるでしょう。

団地では給水塔を使い、各戸に上水道を供給していました。
ほぼ中央に設置されていて、シンボル的存在でした。

「板橋区の昭和」92ページに掲載されている写真では26号棟が写っていて、地下鉄蓮根駅に近いほうのブロックです。説明文で集合住宅歴史館にふれていますが、「八王子市」にあることを記さないとやや親切に欠けるきらいがあります。

団地の中のささやかなひな祭り。(1968年)

1968年(昭和43年)のひな祭り記念撮影です。 「板橋区の昭和」では、昔の子供がのびのびと遊ぶ姿の写真がたくさん掲載されています。しかし団地で育った子供は、いくらか事情が違っていました。

有料で販売される紙の書籍ではなく、無料で誰でも見られるインターネットに掲載されることを鑑み、写っている子供の写真はぼかしてあります。

団地は2DKが標準タイプで狭いため、赤い毛氈の段飾りお雛さまを飾る余裕など、とてもとてもございません。そんなお宅にと考えだされたものが、この写真の「ガラスケース飾り」です。上段の男雛、女雛、官女たちよりも下段の五人囃子のほうが偉そうに見える配置です。背後のテレビは白黒機で、ツマミでチャンネルを回すタイプ、脚つきです。ここには写っていませんが、「暮しの手帖」商品テストで絶賛されたアラジンの石油ストーブが近くにありました。