2019年5月14日火曜日

松本隆さんの証言と都電の歴史(2019年5月記)

松本隆さんは近年、神戸市中央区のタワーマンションで暮らしていて、京都まで頻繁に往復する日々を送っています。

いわゆる「昭和歌謡」や「元祖日本のロック」再評価ブームも手伝い、近年はインタビューで生い立ちのお話をされることも多く、ご本人もtwitterで頻繁にふれています。

しかし、都電の歴史を勘案すると謎めいた発言も少なくありません。
本稿ではどこが「謎」とされるかを整理して、ささやかな考察を試みます。


★青山の都電は残った

松本隆さんは1949年(昭和24年)7月に、現在の南青山で生まれました。
実家は高台にあり、空気の澄んだ日には富士山がよく見通せたといいます。
しかし東京オリンピック(1964年)開催準備のため立ち退くことになり、中学生時代(慶応義塾中等部。1963年ごろ)麻布霞町に転居しました。この経験が「風街」の原風景です。

実家の場所はキラー通りの道路に変わってしまったといいます。
キラー通りとは外苑西通り(東京都道418号北品川四谷線)の青山霊園付近から渋谷区神宮前二丁目の仙寿院交差点までの区間に対する愛称で、コシノジュンコさんが1970年ごろ、墓地および「ピンキーとキラーズ」にちなんで命名したとされています。従って松本さんの転居時代、および学生時代にこの名称はできていません。

青山通りとの交差点(南青山三丁目)付近が”谷地頭”に相当する地形で、南側は麻布に向けて下り坂、北側は丘陵地帯を開削して作られたといいます。


外苑西通り 南青山三丁目交差点から南側。
現地の案内板では麻布側に「キラー通り」の名称がつけられている。
左側(麻布方面)に向けて下り坂。(2019年5月)

先日twitterで、あるフォロワーが「青山の都電はオリンピック開催に伴う道路整備により、1963年に廃止された。」という趣旨の発言を書いていました。

この書き方は、都電史と照らし合わせると正確ではありません。△です。
オリンピック開催準備として計画された青山通り幅員拡張工事のため、1963年9月30日限りで青山線一部区間(三宅坂-赤坂見附-青山一丁目間)が撤去されることになり、同区間内の平河町二丁目、赤坂表町、豊川稲荷の3停留場が廃止されました。

しかしこの時点では、青山地区の完全廃止ではありません。
この区間を経由していた9系統(渋谷駅-水天宮・浜町中ノ橋)・10系統(渋谷駅-九段下-須田町)は迂回措置が取られています。

9系統は六本木線を使い、青山一丁目から赤坂御用地・皇居方面に直進していたものを外苑東通り(東京都道319号環状3号線)への右折に変更、すぐに左折というクランク状のルートを通過して、六本木・溜池経由で桜田門に向かいました。2019年現在でもそのクランクに「外苑東通り」の標識がつけられています。

10系統は青山一丁目から左折して外苑東通りに入り、信濃町・四谷三丁目経由で九段下に向かいました。

両系統の廃止は5年後の1968年9月29日(28日最終運転)で、それまでは青山に都電の姿は引き続き見られました。松本さん生家跡近くの外苑西通りと青山通りの交差点(南青山三丁目、停留場名は青山三丁目)では、松本さんが大学に進学する頃まで9系統・10系統が運転されていました。


☆「風をあつめて」のモデルは”33番”あるいは”34番”?


はっぴいえんど時代の代表作「風をあつめて」(1971年)のモデルについて、麻布霞町付近の路地および渋谷駅近くの珈琲屋と、長らく思い込んでいました。「風街ろまん」LPジャケットの見開きに、霞町停留所付近を走行する6系統のイラストが描かれていたゆえです。その見解に基づく記事も以前掲載しました。

ところが近年、松本さんは「今の貿易センタービル近くにあった古い家並みの路地が印象に残っていて、それを詞に書いた。」とtwitterやインタビューでお話されています。
これは再検証しなければなりません。

世界貿易センタービルは浜松町二丁目にあり、浜松町駅に隣接しています。
そこと第一京浜の間に残されていた古い街並みを指すでしょうか。
もしくは、第一京浜(国道15号)西側の増上寺に近い、大門や芝の街並みでしょうか。



 
最寄りの都電停留場のひとつは、33系統の終点「浜松町一丁目」です。
貿易センタービルと浜松町駅から300mほど北にありました。
この系統は四谷三丁目から外苑東通りを六本木まで南下して、飯倉片町・神谷町・御成門を経由して浜松町に至っていました。1969年10月26日廃止(25日最終運転)です。


   
この時期松本さんは慶應義塾大学に在籍していましたが、大学紛争で授業もろくに開かれなかったため、音楽活動に没頭していました。1969年2月に細野晴臣さんとともに「ザ・フローラル」に加入して、4月1日細野さんの提案した「エイプリル・フール」に改名。同名のアルバムを発表します。当時松本さんは六本木や飯倉まで頻繁に出かけていたでしょう。「エイプリル・フール」のレコーディングスタジオは虎ノ門で、普段の活動もその界隈を拠点としていたようですから、33系統を使っていたかもしれません。

この時代、浜松町駅の北東側には新幹線の線路と首都高速道路の高架が既にできています。その向こうは浜離宮庭園です。高いビルこそあまりなかったでしょうが、1967年12月の金杉線(1・4系統)廃止以降、浜松町一丁目で途切れている六本木線の軌道の先が海に向かって浮かぶような詞想が可能だったかどうかは微妙なところです。

停留場の脇には日本赤十字社があります。都電の時代はクラシカルな西洋建築でした。そこと第一京浜の間に小さな商店街が今もありますが、背伸びした路地のモデルとしては少し整いすぎている印象でした。バスの停留場は「新橋六丁目」に改称されています。浜松町一丁目からは横断歩道をはさんで距離があるためでしょうか。

林順信さんは33系統について「小粋な、つなぎの系統」と評しています。都大路のメインルートを走る主要系統でないからこそ、若者に終点の先の海を渡らせてみたいと思わせるふんいきが漂っていたのでしょうか。


もうひとつの最寄り停留場は、34系統の終点「金杉橋」です。
地下鉄大門駅をはさんで浜松町一丁目とは反対の南側にありました。
現在の交差点名は「金杉橋南」になっています。
貿易センタービルからは300mほど南です。

34系統は渋谷駅から古川沿いに広尾一丁目・天現寺橋・古川橋などを経由して芝の海岸を目指す系統です。経由する16停留場(起点・終点の渋谷駅・金杉橋を含む)のうち12停留場に「橋」がつけられています。六本木や虎ノ門からは離れていますが、松本さんや細野さんの家からそう遠くない地域を走っていました。33系統と同じく、1969年10月25日最終運転(翌日付廃止)です。

終点の金杉橋停留場では、左側(北方面)に首都高速道路都心環状線の高架があります。
1967年までに全線開通しています。

正面(東方面)は現在高いビルでふさがれていますが、東海道本線(京浜東北線・山手線を含む)、新幹線に加えて東京モノレールの高架軌道が作られています。その一方で、古川の河口には東京湾で魚釣りをするための船や屋形船を管理するお店がいくつかあります。



金杉橋停留場(東京湾方面)。右高層ビルの奥に鉄道の高架線がある。(2019年5月)


金杉橋停留場(古川橋方面)。道路は右奥がクランク状になっている。手前中央部に停留場があった。(2019年5月)   


金杉線の営業時代は4系統と34系統がありました。
34系統は終点で渋谷方面に折り返し、4系統は金杉橋停留場から国道15号の新橋方面に曲がり、そのまま銀座方面に北上していました。4系統は1967年12月9日限りで廃止されています。

松本さんがバンドを始めた頃、都電の軌道は34系統のみになり、大通り(第一京浜)の手前で途切れていて、その向こうは高速道路や国電、新幹線、モノレールの高架線に取り囲まれるような風景だったと推定されます。33系統の浜松町一丁目よりも、「しみだらけの靄ごしに起きぬけの路面電車が海をわたる」詞想、自分も風をあつめて大空を飛んでみたいという発想が思い浮かびやすいかもしれません。

「ひと気のない朝の珈琲屋」は34系統の渋谷駅乗り場から山手線のガードをくぐって西側の、渋谷区桜丘町にあったお店です。松本さんは当時そこの常連だったといいます。

現在の浜松町地区には古い家屋も辛うじて残されていますが、屋形船オフィスとして改装された建物があり、路地もきれいに舗装されています。何よりも目の前に浜松町駅のホームが見えます。 都電よりも国電の印象が強い街だったでしょう。

以上より「風をあつめて」のモデルは大門もしくは芝にあった路地で、都電33系統の浜松町一丁目付近または34系統の金杉橋付近が詞想のもとになったと推定し、後者の可能性がわずかに高いという見解とします。

34系統の運転区間は都営バスがそのまま引き継ぎ、現在は4系統区間も一部カバーして、「都06」渋谷駅-天現寺橋-金杉橋-新橋駅間として、結構頻繁に運転されています。


★細野晴臣さんとは、もっと早く出会っていた?

松本さんは「はいからはくち」について、近年以下のお話をなさっています。

「白金に住んでいた細野さんの家に行く際、清正公前で都電を乗り換える時、ふっとこの言葉が頭に浮かんだ。当時は都電がまだ残っていた。」

都電史に照らし合わせると、これは大変重要な証言です。
日本のロック黎明期の歴史を一部訂正する必要が生じるかもしれません。

現在のロック雑誌やWebサイトでは

「松本隆は、高校を卒業した1968年春に、国電原宿駅近くの喫茶店”コンコルド”で初めて細野晴臣に会った。」

が定説になっています。ご本人も2015年に開催されたコンサート「風街レジェンド」で、「高校を卒業した時に、細野さんに会ったことが(作詞の道に進む)全ての始まりでした。」とお話されています。

しかし!

清正公前を通る都電4系統・5系統は1967年12月10日(9日最終運転)に廃止されています。

有名な、銀座地区廃止と同じ日です。清正公前の都電停留場は即時に撤去されて、都営バスの停留所に変更されています。

都電の廃止日は記録に残されている事実で、動かせません。
当時はかなり大きなニュースとして報道されていて、写真もたくさん残されています。
しかし、松本さんの記憶違いという気配も感じられません。

「せいしょうこうまえ」と音読みする、少し変わった名前の停留場名は文学青年ならば鋭敏に気づくでしょう。さらに松本さんの証言は、その場面の絵が容易に想像できます。代替バスではおそらく何十年も記憶に残らないでしょう。路面電車だからこそ、降りる時に「はいからはくち」と思い浮かべた記憶が定着して、「風街ろまん」のモチーフにつながったとみなすほうが自然です。

以下の2つの可能性が考えられます。

(仮説1)

松本さんと細野さんの初対面は定説より半年ほど前の1967年10月~11月ごろだった。当時、松本さんは高校3年生。

松本さんが高校生時代から所属していたバンド「バーンズ」(青山のディスコでライブを重ねていた)でベース担当が突然辞めたため、代役として立教大学で天才ベーシストと呼ばれていた細野さんに白羽の矢を立てた。メンバーで話し合った結果、松本さんが細野さんに電話して、翌日原宿で面会。細野さんは松本さんのあまりの高飛車ぶりに面食らったものの、”よいバイトになるから”が決め手となり、参加を決断。このエピソードは従来語られている1968年春より半年ほど遡る。その後12月9日の清正公前都電運転最終日まで数回、松本さんはライブの打ち合わせなどで細野さん宅を訪れるため、4系統を使っていた。

文学青年で、天才的な才能の持ち主ならば高校3年で「はいからはくち」を思いついても決して不思議ではありません。

(仮説2)

細野さんとの初対面は1968年春、高校卒業時で間違いないとすれば、松本さんは1968年4月ごろから1969年10月までおよそ1年半のうちのいずれかの日、渋谷で他の用事を済ませるか、喫茶店で珈琲を飲んだ後で34系統金杉橋行きに乗り、清正公前の細野宅を目指した。古川橋でバスに乗り換えるため、34番の都電から降りる際に「はいからはくち」を思いついた。従って松本さんの証言の「清正公前」は「古川橋」が正しい。

34系統古川橋説をとれば、エイプリルフール結成前後の各種打ち合わせや練習の際、日常的に都電を使っていたとしても矛盾は起きません。麻布の自宅(霞町)から直接行く場合は7系統で同じく古川橋下車、バスに乗り換えです。

いずれが正しいかは松本さんと細野さんしかわかりません。
この記事がtwitterフォロワーさんたちの目に止まれば、ちょっとした騒ぎが起こるでしょうか。


細野さんの経歴を詳細に記録しているWebサイト「hosono archaeology」によれば、1967年9月24日に開催された「第1回ヤマハ・ライト・ミュージックコンテスト関東甲信越大会」で審査員を務め、そのコンテストにバーンズが出場して、初めて松本さんを見かけたと記録されています。「シャドウズのコピーで、すごくうまいバンドだった」と、細野さんの印象に残ったものの、その時は松本さんと直接話をするまでは至らなかったようです。

その頃細野さんは、立教大学の同級生・中田佳彦さん(作曲家・中田喜直の甥)と仲良くなってバンドを組み、清正公前の都電が撤去された1967年暮れに中田さんの紹介で大瀧栄一(詠一)さん、布谷文夫さん(「ナイアガラ音頭」「Let's Ondo Again」で知られているが、もともとはブルース系のロックシンガー)と知り合ったと記録されています。

この資料を勘案すると、4系統・5系統運転時に松本さんが細野さん宅を訪ねるまでに親しくなっていた可能性は薄まり、仮説2の「古川橋乗り換え時にひらめいた説」のほうが有力とみなせます。清正公前はバス停として覚えていたのでしょう。


エイプリル・フールは1969年6月ごろ、細野さんと柳田ヒロさんの音楽性の対立が大きくなり、残務整理の後解散することになります。その頃、新宿のライブに中田さんの紹介で大瀧さんが来て、終演後細野さんと二人で松本さんの家に初めて泊まります。

細野さんは小坂忠さんと新しいバンドを作る構想を持っていましたが、小坂さんがミュージカルのオーディションに合格したため一旦白紙に戻し、9月ごろ大瀧さんをメンバーに迎えて「バレンタイン・ブルー」というバンドを作ることを決めます。1969年夏から秋にかけて、松本さんは大瀧さんと一緒に、細野さん宅を頻繁に訪れています。松本さんはこの時期に7系統か、渋谷の用事の後で34系統を使っていたのでしょう。「はいからはくち」はその過程で思いついた言葉と推定できます。

7系統・33系統・34系統廃止の1969年10月には、「1969年のドラッグレース」の詞にも登場する東北・信州旅行に出かけます。最終運転翌日(廃止日)の10月26日には東京に戻り、エイプリル・フールとしての最後のライブに出演したと記録されています。

「はいからはくち」のカラオケレコーディングはその1年後、1970年11月12日に行われたと記録されています。(歌入れは1971年2月)楽曲としてまとめたのは1970年10月ごろと推定されます。その時既に麻布・渋谷地区の都電は完全に消滅していましたが、松本さんは細野さんから新たに詞を書くように言われた際、都電があった頃細野さん宅に行く途中、古川橋で電車を降りた時に思いついた「はいからはくち」という、自分でも謎めいた言葉を詞に仕上げようと思い立ったと推定すれば、矛盾が生じません。

当時はフジカラーフィルムの CM「フジカラー・イズ・ビューティフル」が流行っていました。「はいからはくち」はそれをもじって「ハイカラー・イズ・ビューティフル」というセリフから演奏を始めています。ついでに「はいから・びゅーちふる」というコーラスナンバーまで作っています。このCMコピーが都電現役当時の1969年の時点で既に作られていたかどうかについては、まだ情報が得られていません。