2016年10月22日土曜日

都電本ガイド(24)板橋区の昭和 <2019年5月記事改訂>

(いき出版・2017年)


本ブログの志村線関連記事掲載後の2017年21日に

「板橋区の昭和」

と題する写真集が発行されました。

出版元は新潟県長岡市の”いき出版”で、全国各地域について昭和時代の街や村里の姿、人々が暮らす光景を撮影した写真を提供してもらい、該当地域限定で少部数出版する事業を行っています。
個人の記念写真集と大手流通向けの写真集との間隙を埋める格好で、ビジネスモデルとしても優れています。

お値段は税込み9,990円、実質1万円です。
予約していた書店で手に取ると、ずっしりとした感触が伝わりました。
ハードカバー、本文280ページは全てつや消し上質写真用紙。
立派な装丁が施されています。

ざっと眺めてみたところ、地域により写真数にかなり差がある点(高島平は別格としても、大山、仲宿、中板橋、下赤塚などが多く、常盤台、上板橋、蓮根および熊野町や中丸町などの南東部地域は少ない) 、既に亡くなられた方や、成長もしくは加齢により容貌が大きく異なっているであろうお方も少なくないとはいえ、個人の顔がはっきり写っている写真がかなり多い点はやや気がかりですが、たいへん貴重な、文化財級の資料であることは間違いありません。
出版社のサイトに記されている「心意気」は、確かに伝わりました。

さらに、

・荒川低地側に戦前から造られていた大規模工場(特殊鋼管工場→新日本製鉄など)は、舟運による輸送を前提としてこの地域を選び、はしけによる貨物輸送は最近まで続けられていた。新日鉄では専用船が用意されていて、新河岸川から荒川を経て東京湾に出て、千葉県君津製鉄所との往復を行っていた。

・高島平(赤塚水田)再開発立案前の徳丸原北部には、荒川水害の際、下流の隅田川方面に被害が及ばないように水を逃がす意図も含まれていた。すなわち、秋葉原に作られた火除地の「防水版」とも解釈できる。それゆえに堤防建設はかなり時代が下がってから行われた。

というエピソードを初めて知ることができました。また、志村一里塚北の交差点に歩道橋が架けられていた時期(1977年ごろ)があったこと(75ページ掲載写真)も新たな発見でした。周辺の他歩道橋と同じく、都電廃止翌年の1967年(昭和42年)に設置されたと考えられます。しかし景観を損ねる上、歩行者と自動車の交通量調査の結果、横断歩道はそう危険でもないという理由で後に撤去されたのでしょう。

個人的には、常盤台住宅地や東武ストアときわ台店、よしやの1970年代、開店当初のイトーヨーカドー上板橋店、蓮根団地や蓮根二丁目バス停、志村のコパル工場などの写真を見つけてもらいたかったです。

それに、路線バスの写真があまりにも少なすぎます。
都電なき後、板橋区にとって最も身近な公共交通機関は、昔も今も国際興業バスであるはずです。営団有楽町線や浮間舟渡駅ができるまで、バスが必要不可欠だった地域は区内に少なくありません。

常盤台教会向かいの折り返し場(現在のハート株式会社)の様子や、東京駅北口行き都営東50系統の出庫風景を記録した写真は見つけられませんか。都営バス乗り入れ時代は難しいにしても、平成に入り、国際興業バス王54系統のみになった時代の写真でも載せて構わないと思います。私自身、記録しておけばよかったですね。当時は板橋区から一度は出て、他所の暮らしを経験してみたい一心でしたから…。

常盤台教会の折り返し場写真も見つからないほどですから、国際興業バスで高島平操車場ができる前に使われていた蓮根町折り返し場の写真はおそらく記録されていないでしょう。

東武鉄道の大山付近から埼玉県の朝霞付近まで、電力会社の送電線と鉄道用の架線が併存しているために設置されていた背の高い電柱が写っている写真は数点掲載されていますが、そのことに関する説明もひと言ほしいところでした。 あれも昭和の板橋区を象徴する景観のひとつです。


さて。

「板橋区の昭和」では、都電志村線について124ページから130ページまで7ページを割いて一節を設けています。 他に150~152ページでも軌道や車両が写っている写真が掲載されています。電車が来ていない状態の志村坂上停留場写真(53ページ)、現在の大原町付近から凸版印刷工場方面を撮影した航空写真(175ページ)、1964年(昭和39年)10月7日の五輪聖火リレーの模様(204ページ)、石神井川決壊時に仲宿付近から新板橋橋梁を望む写真(218ページ)など、鉄道雑誌では取り上げられない電車軌道の貴重な記録もあります。175ページの航空写真に写っている都電車両は旧塗色ですね。

いずれの写真もデジタル処理したのでしょうか、車両や周辺の街並みの姿が極めて鮮明に表現されています。

弊ブログ構想前から長い間探していた、小豆沢町停留場で撮影された写真もようやく見つかりました。これだけで1万円出す価値は十分あります。本書の発行により、板橋区内の写真未発見都電停留場は長後町二丁目と清水町のみになりました。

貴重な写真を提供していただいた方々、およびいき出版の関係者の皆さまに、当ブログからも心より御礼申し上げます。


しかし残念なことに、写真に添えられている解説文は、その多くが明確な誤りが認められるか、あやふやで誤解を招きやすい記述でした。
以下、具体的にあげていきます。


☆ 124ページのイントロダクション

× 「中山道の都電が巣鴨から下板橋まで延長されたのは昭和四年(一九二九年)五月のことである。」

  「中山道の都電が西巣鴨から下板橋まで延長されたのは市電時代の昭和四年(一九二九年)五月のことである。」

その時点ではまだ「東京市電気局」の経営で「市電」です。
また、下板橋とだけ記すと今の人は東武の下板橋駅近くと誤認するでしょう。
位置を具体的に記す必要があります。
 
× 「昭和一九年一二月には志村坂上、昭和三〇年六月には志村橋まで全通した。」

 「昭和一九年一〇月には志村(後に志村坂上)、 昭和三〇年六月には志村橋まで全通した。」

出典は東京都公報。
路線の開通日と、軌道敷石設置など地元勤労奉仕の協力を仰いだ改修工事完成日を混同なされています。


× 「廃線当時、一日七万二〇〇〇人の利用客があったという。」

○ 昭和三九年の調査によれば、一日七万一〇〇〇人あまりの利用客があった。」
(正確には71,358人)

廃線時点(1966年=昭和41年)の乗客数調査は行われていません。出典は東京都交通局70年史などの年表、および国立公文書館所蔵 都電志村線営業廃止申請文書添付資料。解説文担当者さんは板橋区ホームページの都電項目制作者が混同なされているものを、そのまま引用したのでしょう。


???「地下鉄ルートと重ならない志村坂上-志村橋間だけを残すというわけにもいかなかったのだろう。…(中略)…昼間一時間三本のバスでこと足りる程度の輸送需要では、都電の存続は無理だっただろう。」


大変失礼ですが、地域の実情をご存じない書き方と見做さざるを得ません。
都電営業時代には埼玉県の蕨・浦和方面から戸田橋を渡り東京駅まで直通する路線、笹目方面・浮間方面から舟渡町交差点を経て中山道に入る路線など、志村橋-志村坂上間を経由する系統が複数あり、それぞれ頻繁に運転されていました。都電廃止直後はそれに都電代替バスが加わります。

都電代替バスは1968年12月の地下鉄開通で役目を終えましたが、翌1969年(昭和44年)には18系統運転区間をほぼ踏襲する、都営志村車庫-一ツ橋線(105乙系統)が新設されています。

この地域におけるバス需要の減少傾向は、1972年(昭和47年)に地下鉄が日比谷まで延長された頃から現れはじめました。都営バスは交通局財政再建計画により、ナタをふるう基準をかなりシビアに設定した事情も加わり、1978年(昭和53年)に中山道から撤退しています。しかしこの時点ではまだ需要もかなり残されていて、実質的に国際興業バスへ移管されたとみなせます。

1970年代・1980年代の国際興業バスの路線変遷に関しては記録があいにく見つからないため、現在の池21系統のみ、昼間1時間3本体制がいつごろから行われているかについては把握していませんが、バス需要の決定的な減少は埼京線の開通・浮間舟渡駅の開業(1985年)と、環八整備工事の完成、さらに昭和末期から平成初期(1990年代前半)に立て続けに行われた大規模工場の転出・マンション化(その住民の多くは埼京線、地下鉄の駅まで自転車か、もしくは鉄道を使わず自家用車利用)による昼間人口減少が主な原因です。


<私ならばこう書く> ※もとの文章をなるべく生かしています。

都電志村線

中山道の都電が現在の板橋区内まで延長されたのは、市電時代の昭和4年(1929年)5月のことである。当初は現在の板橋四丁目 東光寺付近の下板橋停留場が終点であった。その後中山道沿線の工場通勤者を中心に延長の要望が出され、昭和19年10月には志村(後に志村坂上)まで開通、戦後の昭和30年6月には志村橋まで全通した。志村線とよばれて区民に親しまれ、昭和39年には一日およそ71,000人の利用者があった。しかし、同じ道路の下に都営地下鉄6号線(現・三田線)が建設されることになったため、区民に惜しまれながらも昭和41年5月28日限りで廃止された。昭和42年以降各所で都電の廃止が相次いだが、それよりひと足早い廃止であった。

都電廃止後、志村坂上から南は昭和43年12月に地下鉄が開通したものの、地下鉄ルートと重ならない志村坂上-志村橋間は現在まで路線バスが輸送を担っている。

※注 中山道の志村坂上から巣鴨方面は、蓮沼町付近まで南東方向、その先はほぼ南方向です。「志村坂上から東」と称するのはかなり無理があるでしょう。


☆ 124ページ上の写真(最終運転日装飾電車)

特に問題ありません。


☆ 124ページ下の写真(式典)

<引用>

道路の中央に線路を敷くだけで、駅や車庫などの建造物はなにもつくられないはずだから、地鎮祭というよりは起工式だろう。(中略)沿道の人口密度からみて橋を渡らずに橋の南詰まで路線を延長するのが精一杯だったと思われる。

<引用終了>


明らかに事実誤認です。
この写真は紛れもなく、1955年(昭和30年)6月10日に挙行された志村坂上-志村橋間開通記念祝賀会の模様です。

 都電志村橋線開通」

と、アーチにはっきりと記されているではありませんか。

「板橋区広報」昭和30年6月25日発行 第106号に同じ写真が掲載されています。同紙面には

「区民待望の都電志村線延長工事は、去る三月から着工されたが…」

と報じられています。すなわち1955年(昭和30年)3月着工で、昭和29年ではありません。

東京都立図書館に縮刷版が所蔵されています。

「板橋区広報 第106号 昭和30年(1955年)6月25日発行」より。
(注釈は筆者による)
「板橋区の昭和」 124ページ掲載写真と同一の開通記念式典写真が認められる。

弊ブログでも幾度か指摘していますが、都電写真の撮影年代については板橋区公文書館の記録自体が間違っているものが数点みられます。
板橋区役所前とみられる電停に停車する41系統電車(1955年6月10日の志村橋開業時に新規設定された系統)の脇を走るオートバイの写真など、あきらかに昭和30年以降に撮影された写真が「昭和29年」とされています。

この写真は、開通記念祝賀会の模様を「板橋区広報」に載せることを目的として撮影されたものと考えられます。すなわち当時の区職員がカメラを構えて、最初から板橋区が著作権を有していたものでしょう。

板橋区公文書館ホームページ内の資料一覧表を調べていくと、「展示用パネル資料一覧」PDFファイル中に

「都電から地下鉄へ 31・32 都電志村線延長工事の地鎮祭 昭和29年」

と記されていました。

この展示会は2008年1月に区役所本庁舎地下1階ロビーで行われています。
その準備の際に、当時の担当者が板橋区広報(広報いたばし縮刷版)をきちんと参照せず、自らの思い込みで「昭和29年」と記入したことに原因が求められるでしょう。


また、志村橋までの工事とした理由は、電車が橋にかかる勾配で折り返し待ちをしていると自然にずり落ちるように動いてしまう危険性があるためで、人口密度には関係ありません。大正時代の市電路線延長期には、大きな橋の手前まで軌道を作り、後から橋を渡る工事が行われた事例が多数みられます。(出典:国立公文書館保存文書および「都電の100年 Since 1911 都電路線変遷図・車庫別系統ガイド」イカロス出版、2011年)

住民基本台帳に基づいて算出される人口密度の数値には現れませんが、当時の舟渡町には大規模な工場が多く、そこで働く従業員の通勤の足確保は急務でした。貨物は船で輸送できても人は船を使えないため、電車路線の延長は強く望まれていました。

<私ならばこう書く> ※もとの文章は根本が間違っているため、添削不能です。

昭和30年6月に、志村橋停留場付近で挙行された都電志村橋開通祝賀式典の模様。この写真が掲載された「板橋区広報」(現・広報いたばし)106号(昭和30年6月25日)の記事によれば、安井誠一郎東京都知事も臨席して盛大に催されたという。志村地区への都電延長は戦前より強い要望があった。区と住民が一体となり、十数年にわたり陳情が重ねられた末に結実した、区民待望の新線であった。

一方、都電の本格的な新規路線建設事業としてはこの区間が最後となった。昭和35年頃からは交通局の急速な財政悪化、自動車の急増による渋滞の頻発などを理由として、都電を路上から撤去して地下鉄に置き換える動きが本格化していく。


指摘していて、ふと疑問がわいてきました。
この式典はどこで行われたのでしょうか。

まさか中山道の路上ではないでしょう。
道路は国(建設省)の管轄ですから、いくら東京都とはいえ交通を止めることはできません。
志村橋停留場の西は大日本インキの工場、東は外科病院と化学系工場に囲まれています。

推定ですが、路線延長にあわせて交通局が購入した、後に都営バス志村車庫となる旧日本マグネシウム工場跡地を使ったものと思われます。開通当初はこの土地を基点として、志村地区における都電路線充実を図ったという説も、あながち荒唐無稽とは思えません。


☆125ページ上の写真

板橋区ホームページにも掲載されている有名な写真です。
これは昭和29年撮影で間違いないとみられます。(1955年3月まで使用されていた菱形の系統番号板が装着されています。)

× 「志村坂上-小豆沢間」

 「志村(終点)-小豆沢町間


× 「都電は戦後昭和35年ごろまで、グリーンの車体に窓まわりがクリームというツートーンカラーだった。」

○ 「都電は戦後昭和34年まで、グリーンの車体に窓まわりがクリームというツートーンカラーだった。」 

絵の具の”ビリジアン”に近いグリーンと白に近いクリーム色から、キャピタルクリームとよばれる、かすかにオレンジの色合いを得たクリーム色に赤帯の塗色への変更は、1959年(昭和34年)4月に行われました。「わが街わが都電」など交通局資料の年表、および多くの鉄道雑誌・書籍の記述が出典です。

PCCカーとよばれた5500形については、1954年~1955年の製造時からキャピタルクリーム塗装でしたが、それを一般車両にも広げていったものです。

昭和34年4月には明仁皇太子殿下(本稿執筆時今上陛下、2019年5月より上皇陛下)のご成婚が国民的話題となりました。塗色変更はその記念とも言われています。

<私ならばこう書く>

志村一里塚付近(志村-小豆沢町間)を走る。志村橋延長開業以前、終点だった志村坂上停留場は「志村」と名乗っていた。戦後、都電の車両はグリーンの車体に窓まわりがクリーム色のツートーンカラーであったが、昭和34年からキャピタルクリームとよばれるクリーム色に赤い帯の塗色に変更された。


☆ 125ページ中央の写真

△ 「6000形は300両近く製造され、戦後の都電の主力だった。巣鴨車庫には56両在籍していた。」(正確には290両)

都電の形式や車両数に関する記述は、江本廣一さんの著書を参考にしているでしょうか。「都電の消えた街 山手編」(大正出版、1983年)の江本さん執筆の記事によれば、交通局では毎月車両配置表を制作していたといいます。巣鴨車庫は昭和30年以降廃止まで比較的変動の少ないほうでしたが、具体的な数値は時期により差異がみられます。

同書掲載分で、6000形56両の記録は昭和35年3月31日現在の表が該当します。
志村橋開通直前の昭和30年3月31日現在の表では52両、晩年の昭和40年3月31日現在の表では66両と記録されています。

担当者さんが参照された表はいつのものかわかりませんし、江本さんの著書も全てはチェックしておりませんが、ここでは昭和35年3月時点の状況とします。

<私ならばこう書く>

巣鴨方面に向かう都電の車内から、板橋駅前停留場を発車した18系統志村坂上行き6010を撮影。6000形は300両近く製造され、戦後の都電の主力だった。昭和35年3月の記録によれば、志村線を管轄する巣鴨車庫には56両が在籍していた。

正面に見える円筒形の建造物は区境を越えた先、北区滝野川五丁目に建てられていた東京ガスの有水式ガスホルダー。志村線沿線のランドマークとして親しまれていた。



☆ 125ページ下の写真


× 「滝野川五丁目-板橋駅前間の撮影」

 「板橋五丁目-板橋駅前間の撮影」

× 「三菱東京UFJ銀行板橋支店」

 「三菱東京UFJ銀行新板橋支店」

北区滝野川五丁目には、昔も今も三菱銀行(三菱東京UFJ銀行)の支店はありません。
それに、右の18系統巣鴨行き6113には、お客さんが乗ろうとする様子が写っていませんか。安全地帯が設置されていない、板橋駅前停留場の模様を写した可能性があります。

さらにこの写真は昭和41年よりも前、昭和30年代に撮影された可能性はありませんか。
左の41系統志村橋行き6111の背後に、板橋消防署の火の見櫓が写っています。
この火の見櫓は「よみがえる東京 都電が走った昭和の街角」103ページ掲載の、荻原二郎さん撮影写真にはっきりと映し出されています。

板橋消防署から三菱銀行までの間の中山道沿いには、都電の時代に埼玉銀行(現・りそな銀行)板橋支店ビルが建設されています。「昭和30年・40年代の板橋区」49ページには、埼玉銀行の大きな看板を背景にした都電8000形夜景写真が掲載されています。

公文書館電子展示室のページ に掲載されている最終日装飾電車のカラー写真からも、埼玉銀行のビルは5階建て程度で、看板はさらに高い位置に掲げられていることがわかります。三菱銀行は公文書館サイト掲載写真の右手側にあり、3階建て程度で埼玉銀行よりも背の低いビルですから、昭和41年の運行最終期に板橋駅前停留場から板橋五丁目方面にカメラを向けて、三菱銀行ビルが手前に来る構図を取ると、日本生命ビルの左奥に埼玉銀行の看板が入り、火の見櫓が隠れてしまわないでしょうか。
 
ゆえに埼玉銀行ビル建設以前の撮影と考えるのですが、今からでは検証は難しいでしょう。

一方、「私の撮った鉄道写真」ホームページに掲載されている、日本生命ビル前で撮影した写真では、埼玉銀行ビルはかなり遠くに写っているため、今回の写真は日本生命ビルの裏に埼玉銀行が隠れる構図で、昭和41年撮影で合っている可能性もあります。

<私ならばこう書く>

板橋駅前停留場の撮影で、安全地帯のない停留場で電車に乗ろうとする乗客の姿が写っている。向かって左が41系統志村橋行き6111、右が18系統巣鴨行き6113。6111の背後には板橋消防署の火の見櫓が見られる。三菱銀行は、現在の三菱東京UFJ銀行新板橋支店。
(撮影年削除、もしくは1960年代として表現をぼかす。)

☆ 126ページ上の写真


この説明でも誤りではありませんが、車内には細いネクタイを締めた運転士の姿が写っています。従って電車は撮影者側に向かって進んでいます。山手通り分岐点近くのカーブで間違いないでしょう。

<私ならばこう書く>

仲宿-板橋区役所前間を走行する41系統巣鴨行き6116。


☆ 126ページ下の写真


蓮沼町-小豆沢町間ということですが、電車のアップ写真で、撮影地点の手がかりになるものがほとんどないため、そのまま信用せざるを得ません。


☆ 127ページ上の写真

△ 「4000形はもともと古い木造車だったが、6000形と同じ車体に更新された形式である。」

「同じ車体」と言い切るにはやや無理があります。
「鉄道ピクトリアル」誌1995年12月号に掲載されている江本廣一さんの記事によれば、1949年(昭和24年)に鋼鉄車に改造されていて、4045~4049は6000形の見込み生産車とみられるそうです。4000形の改造事業が6000形のプロトタイプを兼ねていたことは間違いありませんが、ここに写っている4072については、もう少しぼかした書き方のほうがより賢明な言葉の選択ではないかと思われます。

なお、昭和35年3月31日時点における巣鴨車庫配備4000形は「27両」ですが、28両在籍した時期もあった可能性は否定できないため、ここでは指摘から外します。江本さんの記事によれば、4000形は巣鴨・大久保・柳島専用配備で、この3車庫内で必要に応じて回していたそうです。

それよりもこの写真でまずチェックするべきは、電車手前にある渡り線のポイントと、背後の環七大和町陸橋です。他の記事で言及しましたが、都電営業時代の板橋区内中山道において、道路の上に架けられた建造物は環七大和町陸橋のみです。従って渡り線は大和町から坂を下った先、愛染通り交差点北の板橋本町停留場付近にあったと断定できます。

ゆえに「鉄道ピクトリアル」1995年12月号、および荻原二郎さんの「都電が走った昭和の東京」(2006年)で紹介されている、1958年(昭和33年)6月現在の都電路線図において、「蓮沼町」は「板橋本町」の誤りであることが証明できました。
極めて貴重な証拠写真です。

<私ならばこう書く>

大和町-板橋本町間を走行する41系統巣鴨行き4072。背後に環七通りの大和町陸橋が見られる。電車手前には、板橋本町止まりで神田橋方面に折り返す18系統区間運用便が使う渡り線のポイントがある。4000形はもともと古い木造車だったが、昭和24年に鋼鉄車に更新された。その設計は6000形に受け継がれている。


☆ 127ページ中央および下の写真(板橋本町停留場)

特に問題ありませんが、「愛染通」の副名称も写っていますから言及するのもよろしいかもしれません。NHKの「消えゆく路面電車 志村線」の映像にはっきりと映っています。

<私ならばこう書く>

板橋本町を発車した18系統志村坂上行き6146。歩道に取り付けられている停留場標識には、下部に副名称として「愛染通」と記されている。都電停留場では改称前の名称や近隣の観光名所などを副名称として記すことがあり、志村線では他に滝野川五丁目に旧名称の「御代ノ台」、大和町に「富士見通」と記されていた。


☆ 128ページ上の写真

× 「大和町-蓮沼間の18系統神田橋行き6006号車。」

 「清水町-大和町間の18系統神田橋行き6006。」

これも明らかに事実誤認です。
大和町交差点付近の写真解析では、1963年に竣工した平和相互銀行板橋出張所ビル(現在の本町37 田村ビル)が一番の目印です。交差点の南東側にあります。

この写真では左側の巣鴨方面に乗り場安全地帯がなく、右側の志村橋方面乗り場安全地帯では停留場標が既に撤去されているため、廃止直前の撮影と推定できます。


???「環七は埼玉方面に東京オリンピックの会場ができるため、両側部分が優先的に建設された。」

意味がよくわかりません。日本語としても不十分です。
戦前に発行された地図や、goo古地図サイトの「昭和初期の航空写真 昭和22年」をご覧になれば、環七の大和町以東は戦前に既に開通していたことが見て取れます。志村地区の工場で生産された製品輸送道路、および稲荷台地区軍用地の車両が使う道路でした。

西側の常盤台方面は1964年の開通ですが、オリンピック道路というお話は寡聞にして存じ上げません。その工事とあわせて、東側道路の改修工事が行われた可能性はあります。

<私ならばこう書く>

清水町-大和町間の18系統神田橋行き6006。電車右側の台は志村橋方面乗り場安全地帯。停留場標が既に撤去されているため、廃止目前の撮影とみられる。環七通り大和町陸橋背後の平和相互銀行ビルの位置に、後年地下鉄板橋本町駅A1出口が設置された。


☆ 128ページ下の写真

???「大和町電停前のカーブを曲がる」

大和町には曲がるカーブなどありません。
この写真は大和町交差点の南西側(富士見病院方)から北東側(富士銀行方)にカメラを向けたものです。大和町の停留場標は、2011年に交通局から発行された「都営交通100周年 都電写真集」49ページに掲載されている写真のものと同じで、大和町交差点の北西側横断歩道近く、現在のYUMEパーク大和町の角に取り付けられていました。その向かい側、すなわち交差点の南西角が、撮影者さんが立っていた位置です。
当時ズームレンズはまだありませんが、おそらく望遠レンズを使って撮影したのでしょう。カーブを曲がるのは電車ではなく、環七常盤台方面から中山道志村方面に左折する自動車です。志村橋行きの電車は画面右から左に向けて直進します。

陸橋完成後ならば自動車に影が落ちるはずの位置ですが、車のガラスには陽の光が反射しているため、陸橋の建設が本格化する前の撮影ではないでしょうか。すると昭和41年は誤りで、昭和39年ごろになります。

…と一旦は書きましたが。

この写真をさらによく見ると、電車左側(進行方向)の扉が開きかけていて、前方から3列目の窓の下に、眼鏡をかけた人の顔が写っています。すなわち、トラックらしき自動車に隠れていますが、停留場の安全地帯が電車の横にあり、電車は大和町停留場に停車中ということになります。

沿線の多くの写真を丁寧に検証した結果、安全地帯上の停留場標識は廃止の数日前に先行撤去されていた節がうかがえると弊ブログで述べましたが、通常ならば電車手前に写っているトラック荷台の右端あたりに、停留場標の時計があるはずです。それが見当たりませんから、昭和41年の廃止直前の時期で合っていることになります。

128ページ上の写真では、安全地帯の後ろを走行中のタクシーのボンネットと電車の屋根に陽の光が当たっています。すなわち晴れていても、停留場付近に陸橋の影はかかっていません。この2枚は同じ日に撮影された可能性も考えられます。

以上より、撮影者さんは交差点の南西角から望遠レンズを使い、陸橋の影がフレームに入らないように留意しながら、大和町電停に停車している志村橋行きの電車を写した。撮影日は昭和41年5月の廃止直前期で間違っていない、と結論づけます。


<私ならばこう書く>

大和町停留場に停車中の41系統志村橋行き6009。大和町交差点を環七通りから中山道に左折する自動車に囲まれるようにして発車する。


☆ 129ページ上の写真

待望の小豆沢町停留場の写真です。
左上隅に、東京信用金庫志村支店の看板が見られます。
その手前の白いビルは志村警察署の建物でしょう。

早速現地を見に行ったところ、小豆沢町の停留場標は現在のネパール料理店前、小豆沢バス停(池袋方面)の北隣に相当するみたいです。志村警察署の隣にはパナソニックの電器屋さんがありますが、屋号がこの写真のナショナルのお店とは異なっています。さらによく見ると、ナショナルの看板は警察署に隣接する建物ではありません。ゆえに別のお店でしょう。その手前、電車の真上に写る日立の看板は、現在のクリーニング店に相当すると思われます。

<私ならばこう書く>

小豆沢町停留場を発車する神田橋行き4061。


☆ 129ページ下の写真

東京信用金庫との位置関係および電車右側の信号機から見て、現在の大原町10番地 バス小豆沢停留所(高島平操車場方面)付近からの撮影とみられます。小豆沢町を発車して、新井薬師道の石標が残る道路との交差点で信号待ちをしているのでしょうか。すると「蓮沼町-小豆沢町間」ではなく「小豆沢町-志村坂上間」になります。

左の国際興業バスには「池袋駅東口-赤羽駅西口」と表示されています。現在の赤51系統の前身、32系統とみられますが、都電の時代は蓮沼町の交差点で右折せずに直進して、現在赤53系統が通る凸版印刷前の交差点を右折していたことになります。稲付台(西が丘)地区の米軍施設返還前だったのでしょう。

赤羽駅西口は1998年の再開発完成まで、駅の改札近くまで小さな商店や民家が密集していました。赤53系統のときわ台駅行きは、駅から4分ほど北に歩かされた場所に乗り場がありました。当時の32系統も同じ位置で乗車させていたのでしょうか。現在の赤51系統も、そのあたりに乗り場があります。

<私ならばこう書く>

小豆沢町を発車して、交差点で信号待ちをする41系統志村橋行き6129。並走する国際興業バスの池袋駅東口-赤羽駅西口間の路線は現在蓮沼町交差点を右折するルートを取っていて、この場所は通過しない。


☆ 130ページ上の写真

18系統の折り返しで車掌が身を乗り出して安全確認を行い、運転士はマスコンハンドルに手をかけようとしている、当時の日常、今となっては貴重なひとコマです。志村坂上停留場の北、現在の城山通り交差点付近にあった渡り線で間違いないでしょうか。背後の大きな樹木の存在からみても、板橋本町の可能性は低そうです。この写真もやはり望遠レンズで撮影されたと考えられます。左上の信号機は城山通り交差点のもので、電車とアイスクリーム輸送車の背後に交番があるはずです。右端の、道路を横断している人近辺から下り勾配になっていることが確認できます。

「ぽこぺん都電館」などで調べたところ、ここに写っている7087は1956年(昭和31年)9月に巣鴨営業所に納車。以後青山、大塚、神明町、柳島を経て1972年(昭和47年)10月に荒川車庫に移り、1977年のワンマン化対応車体更新で新たに「7030」となり、2015年時点でなお荒川線で使われていた模様です。2016年には運用制限がかけられ、そのまま廃車されました。

さらに「都電の中では新しい車両」だけでは、「荒川線には近年新しい車両がたくさん入っている」と切り返されかねません。文章を補強して、より正確を期してみましょう。

<私ならばこう書く>

志村坂上停留場の北、現在の城山通り交差点付近で18系統折り返し作業を行う。幕を”神田橋”に改め、運転士は車内でハンドル操作を確認、車掌は身を乗り出して周囲の安全確認を行っている。

7000形は昭和29年から製造が始まった、荒川線化以前の都電の中では新しい車両で、巣鴨車庫には昭和35年3月時点で9両配置されていた。写真の7087は昭和31年製造。志村線廃止後に幾度か転属を重ねて、昭和47年には荒川車庫に移籍。昭和52年にワンマン化対応車両更新が行われ、7030に改番され、平成28年まで荒川線にて運転されていた。


☆ 130ページ下の写真

特に問題ありません。


☆ 150ページ上の写真

ガスホルダーの説明は特に問題ありませんが、高さの変化は有水式の特徴であることは記しておいてよいかもしれません。


☆ 150ページ下の写真

この写真が撮影された時点では野尻泰彦さん撮影写真(1963年)や、廃止直前に撮影された写真にある緑地帯がまだありません。中央分離帯の植樹については建設省の管轄ですが、時期を証明する資料は現在の国土交通省にも国立公文書館にも残されていないものと思われます。

<私ならばこう書く>

国道17号の中央分離帯から滝野川のガスホルダーを望む。ガスホルダーは2基とも昭和51年に廃止、解体された。中央分離帯は後に植樹が行われ、都電廃止の頃には緑地帯となっていたが、地下鉄工事に伴い中央分離帯ごと撤去された。


☆ 151ページ上の写真

板橋区役所前電停の写真ですが、ここは巣鴨方面と志村橋方面の乗り場がやや離れていたため、「巣鴨方面」と記すほうがよいと思われます。


☆ 153ページ上の写真

× 「仲宿から板橋区役所方面を望む。」

 「氷川町の氷川神社付近から都電板橋本町停留場(現・上宿バス停)方面を望む。」

右上のステンレス工場の看板は、本書127ページ下の写真(板橋本町停留場)の右端にも写っています。国会図書館にて当時の住宅地図を参照したところ、このステンレス工場は石神井川の北に面して建てられていました。写真をよく見ていけば、ステンレス工場建物下の樹木脇に、現在も使われている新板橋橋梁欄干の石柱が確認できます。

<私ならばこう書く>

混雑する国道17号、石神井川新板橋橋梁付近。氷川神社付近から北、板橋本町方面を望む。ステンレス工場の下には、現在も使われている新板橋欄干の石柱がみられる。左端の都電板橋本町停留場では、多くの乗客が電車の到着を待っている。


☆ 150ページ下の写真

× 「国道17号の仲宿から板橋区役所方向を望む。」

 「国道17号の愛染通り交差点から大和町方向を望む。」

正反対の方角が記されています。
<私ならばこう書く>

国道17号の板橋本町、愛染通り交差点(現在の上宿バス停付近)から大和町交差点方向を望む。都営地下鉄6号線の建設が決まり、昭和41年に都電は廃止された。


私が気づいた誤りは以上です。
写真に記録されている情報をもう少し丁寧にご覧になり、現代の視点にとらわれず、当時の世相や生活状況を振り返る姿勢をお持ちいただきたいところでした。


(2019年5月追記)

この記事では説明文担当者の人格攻撃とも受け取られかねない表現を随所で取っていましたが、資料としての公共性を鑑み、品性に欠ける描写を削除しました。ご不快の念をお持ちになった方にはおわび申し上げます。

また、「三菱東京UFJ銀行」は「三菱UFJ銀行」に名称が変更されましたが、出版時点の記述としては正しいため、そのままにしています。