あまり写真で紹介してしまうと現地での楽しみが減じてしまいかねないため、文章中心としています。
<ご注意>
このガイドは、鉄道路線・交通や街の歴史、地形などに関心のある方を主な対象としています。
それ以外の、おしゃれでおいしいお店とか、粋な居酒屋とか、家族連れで楽しめる場所とか、ペットを散歩させられる施設とか、リラクゼーション施設とか、あるいは安価でお買い物できるお店とか、地域イベントなどの情報をお求めの場合は、恐れ入りますが他をご参照いただければ幸いに存じます。それぞれのジャンルにおいて、書籍でもネットでも多数紹介されています。
☆ 常盤台概説 ☆
板橋区常盤台は一丁目から四丁目まであります。
常盤台住宅地の区画設計は、当初いわゆる「碁盤目」が検討されていましたが、それでは陳腐にすぎるという意見が出て、一旦白紙に戻されました。その後、当時東京帝国大学から内務省に入省したばかりの若手官僚だった小宮賢一が、海外の高級住宅地の例を参考にして立てた設計素案が省の上司により東武鉄道に持ち込まれ、ほぼそのまま採用されました。
この決定に関しては、東武鉄道の初代社長・根津嘉一郎の強い意向が働いていたと言われます。根津は1900年代に米国で提唱された「田園都市」構想に早い段階から関心を寄せ、他鉄道会社の成功事例も参考にしつつ、高い理想のもとで住宅地開発事業を始めたと伝えられています。
小宮は後年、別の仕事で上司とともに常盤台を訪れた際、自分の案通りの街ができていることに大層驚いたといいます。
小宮は駅北側一帯に“おおむね”楕円状のプラタナスロードをメインに据えて、要所に円形の車止め(クルドサック)、細い直線路地(フットパス)、緑地帯(ロードベイ)などを設置する、曲線道路を主にした設計を行いました。このデザインは、他の街には見られない特徴をなしています。その設計図に従って区画整理を行った東武鉄道は「健康住宅地」として分譲宣伝を行いました。
三丁目以西はかつての上板橋町のはずれで、戦後住宅が広がってきた地域です。
東武鉄道は関わっていないため、ごく一般的、小市民的な住宅地です。
☆ 真面目にガイド編 ~住宅地に潜む鉄道・バスの跡~ ☆
(1) 駅前の慰霊碑「誠の碑」
ときわ台駅に来て、まずご覧いただきたい場所は駅前交番に建てられている石碑「誠の碑」です。大きく報道されたためご記憶の方もいらっしゃると存じますが、2007年に列車が接近している際に踏切に入ろうとした人を助けようとして殉職した警察官の慰霊碑です。
駅前ロータリーを一周したら、りそな銀行とモスバーガーの間の道から街に入るアプローチをお勧めします。りそな銀行はかつての埼玉銀行で、古くからの建物をそのまま使っていますが、モスバーガーと隣のコンビニの土地はかつて竹やぶが見事なお屋敷でした。
余談ですが、りそな銀行ができる際常盤台支店が「埼玉りそな銀行」にならなかったことは謎です。
ここから西に向かい、時計周りにプロムナードを歩いてみることをお勧めします。
以前は北風が吹く季節になると、北山修さんの
フランス語のcul de sac(袋小路)という意味です。
原語ではスラングに近い言葉という説もありますが、日本語としては響きがとてもよろしい。…言葉が通じないというのは、ある意味素晴しいことでもあります。
余談ですが、歌謡曲ファンとしては「袋小路」というと、松本隆さんと荒井由実さんが初めてコンビを組んで作詞作曲した作品を思い出します。モデルは松本さんが学生時代を過ごした港区三田の喫茶店だそうですが、イントロのピアノはここにもよく似合います。
一周したら、少し戻る形になりますが常盤台公園北と西のものをご覧ください。西側の駐車場(かつては医院でした)脇のクルドサックの先に作られているフットパスを通るとバス通りに出ます。フットパスはどこか謎めいていて、タイムトンネル気分が味わえる…かもしれません。お薦めです。
右折して外科病院に向かって歩いてすぐ、立派な板張りの塀のある家の角で左折すると、次の交差点が「常盤台二丁目五差路」です。
ここから北西方向、斜めに延びる道に沿って、かつて前野飛行場滑走路が作られていたと伝えられています。当時は軽いくぼ地だったそうで、東武鉄道は宅地分譲にあたり整地したといいますから、滑走路を道路にしたということではないと思われます。
駅に戻ったら、今度はスーパーマーケットとモスバーガーの間のバス通りを眺めてみましょう。西の空に教会の鐘がみられます。
雨上がりの日の夕映えの頃は、あかね雲を従えてかなり美しいシルエットを見せます。
電線がやや煩わしいですが。
ここからは少し歩きますが、上板橋駅に向かってみましょう。
バス通りよりも線路際の道のほうがよろしいでしょう。最近東武では、濃紺色に黄色の帯という国鉄の事業用電車クモヤ143型みたいな車両を1編成走らせていて、運がよければ見られるかもしれません。(注:この車両は2019年春の「川越特急」設置に伴い塗り替えられ、以降見ることができなくなりました。)
☆ 蛇足編 ☆
常盤台の分譲宣伝に使われた「健康住宅」とは、単にイメージアップを狙ったキャッチコピーに留まりません。上下水道完備、衛生上極めて良好な環境の物件であることが最大のセールスポイントでした。とりわけ下水道については、分譲初年度(1936年)に作られたパンフレットで「排水については特に犠牲を払い、完全暗渠にしております。臭気や衛生問題は絶対にございません。」と強調されています。
<ご注意>
このガイドは、鉄道路線・交通や街の歴史、地形などに関心のある方を主な対象としています。
それ以外の、おしゃれでおいしいお店とか、粋な居酒屋とか、家族連れで楽しめる場所とか、ペットを散歩させられる施設とか、リラクゼーション施設とか、あるいは安価でお買い物できるお店とか、地域イベントなどの情報をお求めの場合は、恐れ入りますが他をご参照いただければ幸いに存じます。それぞれのジャンルにおいて、書籍でもネットでも多数紹介されています。
☆ 常盤台概説 ☆
板橋区常盤台は一丁目から四丁目まであります。
板橋区発足前には北豊島郡上板橋町字原(はら)・字向屋敷(むかいやしき)などと称していました。板橋区になってからは(旧)上板橋町二丁目および四・五・六丁目です。
高級住宅地として知られる一丁目・二丁目地域は東武鉄道が1924年(大正13年)に西板線建設・営業免許を受けたことに応じて、本線系統(伊勢崎線など)と東上本線双方の車両基地用地として収得した土地です。
昭和初年には遠藤辰五郎(元陸軍軍曹)に土地を貸し出して、民間の「前野飛行場」が作られていたといいます。前野飛行場は帝都遊覧・荒川上空遊覧などの観光目的で営業されていました。
昭和初年には遠藤辰五郎(元陸軍軍曹)に土地を貸し出して、民間の「前野飛行場」が作られていたといいます。前野飛行場は帝都遊覧・荒川上空遊覧などの観光目的で営業されていました。
しかし、東武鉄道は1932年(昭和7年)に諸事情により西板線の起業廃止を届け出ます。押さえておいた(旧)上板橋町二丁目地域の土地代替利用方法として、その時代他の私鉄会社で成功例のあった“住宅地開発”を発案して、1936年(昭和11年)から1939年にかけて分譲しました。それに先駆けて、住民利用駅として1935年(昭和10年)に「武蔵常盤駅」を開業しています。(1951年=昭和26年「ときわ台」に改称)
【ご注意】
近年(2018年)、ときわ台駅の旧称を”武蔵常盤台駅”と記してある書籍やレビューが散見されます。武蔵常盤台ではなく「武蔵常盤」駅が正当です。また、武蔵常盤駅が貨物駅として開業した事実はありません。
前野飛行場は住宅分譲計画が決まる直前の1933年(昭和8年)ごろに営業を終えて、遠藤は東武に土地を返却したと伝えられています。
【ご注意】
近年(2018年)、ときわ台駅の旧称を”武蔵常盤台駅”と記してある書籍やレビューが散見されます。武蔵常盤台ではなく「武蔵常盤」駅が正当です。また、武蔵常盤駅が貨物駅として開業した事実はありません。
前野飛行場は住宅分譲計画が決まる直前の1933年(昭和8年)ごろに営業を終えて、遠藤は東武に土地を返却したと伝えられています。
常盤台住宅地の区画設計は、当初いわゆる「碁盤目」が検討されていましたが、それでは陳腐にすぎるという意見が出て、一旦白紙に戻されました。その後、当時東京帝国大学から内務省に入省したばかりの若手官僚だった小宮賢一が、海外の高級住宅地の例を参考にして立てた設計素案が省の上司により東武鉄道に持ち込まれ、ほぼそのまま採用されました。
この決定に関しては、東武鉄道の初代社長・根津嘉一郎の強い意向が働いていたと言われます。根津は1900年代に米国で提唱された「田園都市」構想に早い段階から関心を寄せ、他鉄道会社の成功事例も参考にしつつ、高い理想のもとで住宅地開発事業を始めたと伝えられています。
小宮は後年、別の仕事で上司とともに常盤台を訪れた際、自分の案通りの街ができていることに大層驚いたといいます。
小宮は駅北側一帯に“おおむね”楕円状のプラタナスロードをメインに据えて、要所に円形の車止め(クルドサック)、細い直線路地(フットパス)、緑地帯(ロードベイ)などを設置する、曲線道路を主にした設計を行いました。このデザインは、他の街には見られない特徴をなしています。その設計図に従って区画整理を行った東武鉄道は「健康住宅地」として分譲宣伝を行いました。
三丁目以西はかつての上板橋町のはずれで、戦後住宅が広がってきた地域です。
東武鉄道は関わっていないため、ごく一般的、小市民的な住宅地です。
☆ 真面目にガイド編 ~住宅地に潜む鉄道・バスの跡~ ☆
(1) 駅前の慰霊碑「誠の碑」
ときわ台駅に来て、まずご覧いただきたい場所は駅前交番に建てられている石碑「誠の碑」です。大きく報道されたためご記憶の方もいらっしゃると存じますが、2007年に列車が接近している際に踏切に入ろうとした人を助けようとして殉職した警察官の慰霊碑です。
本来ならば、鉄道会社や常盤台住宅地住民にはこの碑が「建ってしまった」意味を重く受け止めてほしいのですが。
景気のよかった時代に線路を地下に移設しておけば、巡査はおそらく無名、寡黙でも誠実な人生を全うできたでしょう。武蔵小山や中村橋など、ときわ台よりもはるかに条件に恵まれない駅も立体化されています。
なぜ、ここの鉄道会社はやろうとしないのか、板橋区を雑に見ているのか。何十年と放置して、練馬区に遅れを取った板橋区の行政とはいかなるものか。手を合わせつつ考えていただければ幸甚に存じます。
(2)住宅地一周
なぜ、ここの鉄道会社はやろうとしないのか、板橋区を雑に見ているのか。何十年と放置して、練馬区に遅れを取った板橋区の行政とはいかなるものか。手を合わせつつ考えていただければ幸甚に存じます。
(2)住宅地一周
駅前ロータリーを一周したら、りそな銀行とモスバーガーの間の道から街に入るアプローチをお勧めします。りそな銀行はかつての埼玉銀行で、古くからの建物をそのまま使っていますが、モスバーガーと隣のコンビニの土地はかつて竹やぶが見事なお屋敷でした。
余談ですが、りそな銀行ができる際常盤台支店が「埼玉りそな銀行」にならなかったことは謎です。
バーミヤンの角から西側の道にも分譲当時からの屋敷が数軒残されていますが、もうひとつ先まで直進すると、プラタナスプロムナードにたどり着きます。
角に建てられている「斯波家住宅」は板橋区の文化財指定を受けていて、塀にはプレートも掲げられていますが、指定以前は現在の2倍ほどの大きさの家でした。
すなわち、半分に切り取られた姿を見ていただくことになります。
すなわち、半分に切り取られた姿を見ていただくことになります。
ここから西に向かい、時計周りにプロムナードを歩いてみることをお勧めします。
以前は北風が吹く季節になると、北山修さんの
プラタナスの枯葉舞う冬の道で
プラタナスの散る音に振り返る
の詞そのままの風情が感じられましたが、掃除が面倒だし雨などで滑ると危険だし、側溝の水はけを阻害するという指摘があったためか、近年は枯葉になる前に板橋区から委託された業者が来て、枝を結構大胆に刈り取ってしまいます。
おかげさまで若葉の頃しか見所がなくなりました。
おかげさまで若葉の頃しか見所がなくなりました。
ロードベイは住宅地北側、常盤台外科病院前の交差点を渡った先にあります。張り出したオープンスペースの緑地帯として設計されましたが、長い間児童遊園として使われています。そのまま時計の針のように歩き続けていくと唐突にプロムナードが途切れて、細い路地に変わります。最初の角を右折すると下り坂で、その先にプロムナードの端が見渡せます。
完全な環状になっていない理由は、おそらく察しがつくことでしょう。
このあたりは東の石神井川に向けて下りはじめる勾配になっています。
石神井川の河川としての変遷が編み出した地形です。
クルドサックはプロムナードの楕円内部に5ヶ所あります。完全な環状になっていない理由は、おそらく察しがつくことでしょう。
ロードベイ。(2013年4月) |
石神井川の河川としての変遷が編み出した地形です。
フランス語のcul de sac(袋小路)という意味です。
原語ではスラングに近い言葉という説もありますが、日本語としては響きがとてもよろしい。…言葉が通じないというのは、ある意味素晴しいことでもあります。
余談ですが、歌謡曲ファンとしては「袋小路」というと、松本隆さんと荒井由実さんが初めてコンビを組んで作詞作曲した作品を思い出します。モデルは松本さんが学生時代を過ごした港区三田の喫茶店だそうですが、イントロのピアノはここにもよく似合います。
一周したら、少し戻る形になりますが常盤台公園北と西のものをご覧ください。西側の駐車場(かつては医院でした)脇のクルドサックの先に作られているフットパスを通るとバス通りに出ます。フットパスはどこか謎めいていて、タイムトンネル気分が味わえる…かもしれません。お薦めです。
フットパス。(2013年4月) |
常盤台二丁目五差路。 左の道路付近に遊覧飛行滑走路があったという。(2016年8月) |
かつては結構スピードを出す車が頻繁に通りやや危険でしたが、最近は静かになっています。
五差路の南側、駅に向かう道沿いには金網を使って薔薇の生垣を作る家があり、遠くから観光に来る人もいましたが、ここも残念ながら家が取り壊され、土地は分割されました。その後、近くで薔薇を栽培する家がまた現れた模様です。
(3)教会前の秘密
(3)教会前の秘密
駅に戻ったら、今度はスーパーマーケットとモスバーガーの間のバス通りを眺めてみましょう。西の空に教会の鐘がみられます。
雨上がりの日の夕映えの頃は、あかね雲を従えてかなり美しいシルエットを見せます。
電線がやや煩わしいですが。
教会前まで歩いてみましょう。バス通りの向かいに「ハート株式会社」の建物があります。
言われないと気づかないかと存じますが、かつては都営バス・国際興業バスの常盤台教会折り返し場でした。この地から東京駅北口までの路線バスが運転されていたのです。
土地は交通局のものだったようで、1977年(昭和52年)に都営バスが撤退した後は国際興業に貸し出して専ら国際興業バスが使っていましたが、20年後の1997年に廃止され、土地は売却されました。
(4) 怪しい弓なり道
常盤台教会。右の白地看板がかつてのバス折り返し場。(2016年10月) |
土地は交通局のものだったようで、1977年(昭和52年)に都営バスが撤退した後は国際興業に貸し出して専ら国際興業バスが使っていましたが、20年後の1997年に廃止され、土地は売却されました。
(4) 怪しい弓なり道
ここからは少し歩きますが、上板橋駅に向かってみましょう。
バス通りよりも線路際の道のほうがよろしいでしょう。最近東武では、濃紺色に黄色の帯という国鉄の事業用電車クモヤ143型みたいな車両を1編成走らせていて、運がよければ見られるかもしれません。(注:この車両は2019年春の「川越特急」設置に伴い塗り替えられ、以降見ることができなくなりました。)
かつては東京電力の送電線が東武の線路の上を使っていて、背の高い架線柱が遠くまで並ぶ姿が見通せて、いかにも郊外電車といった風景でした。
上板橋駅先の踏切を渡ると、ミニストップの向かい(西側)に怪しげな弓なりの道があります。その脇には、いかにも1970年代というか、昭和40年代の匂いがする低層マンションや団地が、細長い土地を使って建てられています。
これは「東武啓志線」の跡地です。
当初は日本軍の要請に従って、上板橋から練馬北町(当時は板橋区内)の第一造兵廠練馬倉庫(現・陸上自衛隊練馬駐屯地)まで敷設された貨物線でした。戦後米軍がさらに西側の練馬高松町・練馬田柄町などに造られていた陸軍の「成増飛行場」を接収して「グラントハイツ」と称する米陸軍家族住宅地して使いはじめると線路が延長され、グラントハイツ内に設置された「啓志駅」へ向かう路線に改造されました。
(この時代、東武は正式な営業免許を取得していなかったといいます。)
当初は日本軍の要請に従って、上板橋から練馬北町(当時は板橋区内)の第一造兵廠練馬倉庫(現・陸上自衛隊練馬駐屯地)まで敷設された貨物線でした。戦後米軍がさらに西側の練馬高松町・練馬田柄町などに造られていた陸軍の「成増飛行場」を接収して「グラントハイツ」と称する米陸軍家族住宅地して使いはじめると線路が延長され、グラントハイツ内に設置された「啓志駅」へ向かう路線に改造されました。
(この時代、東武は正式な営業免許を取得していなかったといいます。)
米軍占領時代を過ぎると、東武は啓志線の免許を取って正式に自社線として、将来のグラントハイツ地区返還に備えて、一般日本人乗客用の路線に再度作り変える構想を持っていたようですが、成増飛行場は土地をほとんど強制で収用して建設されたという経緯から、かつての地主など周辺の思惑が複雑で先行きが見通せないため、しびれを切らすように転用計画を中止して、1965年(昭和40年)ごろに撤去したと伝えられています。東武にとっては西板線に次ぐ挫折で、この件で板橋区を完全に見放したのかもしれません。
余談ですが、東武が交通局に地下鉄の乗り入れ駅を上板橋から大和町(和光市)に変更したいと申し出た時期は啓志線の撤去直前であったことを勘案すると、東武としては日比谷-大手町-神保町-巣鴨-大和町(板橋本町)-上板橋-啓志(光が丘)の運転を一度は考えてみたものの、交通局の地下鉄建設・運営技術に不安が見られたことと、啓志線が使えるかどうか、グラントハイツの跡地に需要ができるかどうか一向にはっきりしないことに業を煮やしたとも考えられます。
後世の人間は、それならば啓志駅から先も作り、練馬春日町を経て豊島園までつなげよう、今の大江戸線よりは駅の階段も少なくてはるかにましと無責任なことを言えますが。
後世の人間は、それならば啓志駅から先も作り、練馬春日町を経て豊島園までつなげよう、今の大江戸線よりは駅の階段も少なくてはるかにましと無責任なことを言えますが。
啓志線跡の弓なりの道が小さな商店街(旧川越街道)につきあたると、そこから先は練馬区です。
実のところ、常盤台を訪れるには7~8年前までがよろしかったです。
分譲当時の住民が寿命を迎える時代になり、相続その他の都合により土地を手放す家が続出して、当時の建物が解体されて細かい分譲住宅になったり、空き地になったり、介護施設ができたり、怪しげなお店が駅近くに増えたりで、近年はかなり歯が抜けたような印象の街に変わりました。
分譲当時の住民が寿命を迎える時代になり、相続その他の都合により土地を手放す家が続出して、当時の建物が解体されて細かい分譲住宅になったり、空き地になったり、介護施設ができたり、怪しげなお店が駅近くに増えたりで、近年はかなり歯が抜けたような印象の街に変わりました。
しかしそれも「2010年代」という時代を示す現象のひとつとして、十分に観光の対象となるでしょう。
☆ 蛇足編 ☆
常盤台の分譲宣伝に使われた「健康住宅」とは、単にイメージアップを狙ったキャッチコピーに留まりません。上下水道完備、衛生上極めて良好な環境の物件であることが最大のセールスポイントでした。とりわけ下水道については、分譲初年度(1936年)に作られたパンフレットで「排水については特に犠牲を払い、完全暗渠にしております。臭気や衛生問題は絶対にございません。」と強調されています。
この時代東京市内の水道網はほぼ完成していましたが、下水道完備はまだ珍しく、旧江戸市街地のお屋敷街でもその面では旧態依然とした家屋が多く、しばしば疫病が流行していたことへの対策の意味も有していました。常盤台は高台にあり、地盤が比較的安定していて、水の通りがよく、じめじめしていないことが下水道路敷設に有利な条件として働きました。
建設する住宅には建蔽率(建物面積は土地の30~35%まで)、屋根の勾配、隣宅との距離、境界線の作り方(必ず生垣にすること)などに細かい内規が設けられていて、設計書を東武鉄道に報告して、建物ができたら東武の担当者による確認を受ける必要があったと伝えられています。東武鉄道は当初「都市で勤務する中産階級」、要するに”小市民”を主な購入層と想定していましたが、分譲が始まると複数区画購入する人が現れるなど、富裕層に人気が出たと伝えられています。当初売れ行きが伸び悩み気味だったため、東武側から複数区画購入を勧められた人もいたとも言われています。当時の富裕層流行を反映して、和室を中心としつつも随所に洋風の部屋を取り入れたタイプの家が主流でした。
東武鉄道では、分譲地を買ってくれた人には池袋までの定期券を3年間無料で配布するという特典をつけたそうです。当時の池袋は、上級学校はあっても有名百貨店もまだなく、ようやく市電が到達する見込みが立つ淋しい街でしたから、この特典は富裕層に果たしてどこまで魅力的に映ったでしょうか。当時は都心から相当遠いというか交通不便な印象で、分譲の話を聞いて見に来た人は、あまりにも遠いため驚いたといいます。有名な写真館のご主人は、最初「板橋」と聞いて「感じが悪い」と思ったとお話されていました。時節柄、上宿の悲惨な事件などを思い浮かべていたのかもしれません。
住宅用地と商業用地を完全分離するというルールもありましたが、医院と写真館は住宅用地内での営業が認められました。現在でもクリニックの目立つ街です。分譲事業開始時点で既に中国(中華民国)と開戦していましたが、やがて対米英戦争が始まり、庭に防空壕を掘ったという家も出ました。現存するお宅もあるそうです。
さらに、この時点では計画中であった環七通り(東京都道318号線)予定地と接続する道路も建設する予定でしたが、諸事情によりいささかややこしいクランク道ができてしまい、環七とは直結しませんでした。歩道の信号機もかなり迂回させられる位置にできています。
常盤台住宅地には、プラタナスプロムナードが完全な形にならなかったこと、環七と直結できなかったこと、富士見街道側のロータリーが作れなかったことなど、見込み違いもいくつかありました。
しかし周囲の幹線道路へのアプローチがクランク状になったがゆえに、住民の自動車運転にはいささか不便でも、地域の外から来て高速で通過していく自動車の進入を抑えられて、「健康住宅地」のセールスポイントである静謐を後年まで保ち続けられました。それは街にとって、かえって幸運だったでしょう。
その一方で「不都合な真実」を指摘しておく必要もあります。
常盤台住宅地は根津嘉一郎の晩年の理想を官民一体の事業として形にしたものですが、根津の没後(1940年)戦争が激化して、戦後の食うや食わずやの時代を経ていくうちにその理想はいつしか消え去り、いささかやさぐれた、それでいて気位だけは高い街や駅になっていた時期が長く続いたことは記しておかなければなりません。分譲当初から戦後10年くらいまでは武蔵常盤駅長も地元に住み、地域のリーダーになっていたといいますが、その習慣もいつしか潰えました。
板橋区教育委員会が編纂した「常盤台住宅物語」には、分譲当時区画整理部署の責任者だった東武鉄道の元社員のインタビュー(1992年実施)が掲載されていますが、「西板線で西新井と上板橋をつないでも、どうにもならなかっただろう。路面電車のように採算が取れず、早晩撤去の運命になっただろう。」などと、鉄道会社にいた人でありながら、鉄道に対して驚くほどさめた見方をなされておいでです。失礼ながら背後には、社内での複雑な事情が隠されているように見受けられました。この方が若かりし時代、鉄道会社に籍を置きながら不動産管理の部署に回されることが何を意味していたかまで読み取る必要がある資料です。根津の死去に伴い、社内方針の転換がなされた節も見受けられます。
<引用>
「地盤が軟弱な東京には、地下鉄しかないのですよ。」
<引用終了>
…えっ???
横浜や大阪の地下鉄工事がいかに難渋を極めたか、営団(→東京地下鉄)や交通局が軟弱地盤対策にいかに腐心して、建設中も開通後も多額の経費をかけているか、ご存じなかったのでしょうか。
東京は地盤が軟弱だからこそ、路面電車や一般の鉄道を大切に扱う姿勢が求められるのではありませんか?
道を自動車であふれさせ、街中地下鉄や高速道路で埋め尽くすことなど「分不相応」とわきまえるほうが理にかなっていませんか?
この方は、常盤台住宅を分譲する業務には間違いなく熱心に取り組まれていたのでしょう。完成した物件が、分譲条件に合致するかどうか判定できるように、建築についての勉強も怠らなかったと存じます。住民からの信頼も厚く、それゆえに住民には「東武は、常盤台の街づくりに熱心に取り組んでいる」と映ったことでしょう。しかしその発言の奥には、「汽車屋」のお偉方に対する複雑な感情を抱いたまま晩年を迎えた心境がうかがえました。
鉄道には最短距離が求められていて、まわりくどい経路をたどるものは客がつかない。昔、青山から押上までバスよりも犬のほうが速いなどと言われていたが、それではどうしようもない…などともお話されていますが、上板橋-西新井間のどこが迂回になるのでしょうか。ほぼ一直線の計画ですよ。迂回というのならば、あなたが所属していた鉄道会社の狭小なターミナル、無理に隅田川へと曲がる線形のほうがはるかに問題ではありませんか。あの駅が実質観光目的にしか使えなくなったからこそ、営団の乗り入れに頼らざるを得なくなったという歴史を直視しましょう。
第一、環七など道路が整備されるまで荒川の渡し船に頼っていたという、足立区の鹿浜や新田地域の人たちの前で、同じせりふを言う度胸はお持ちですか?
この方の論理に従えば、北千住から南や、亀戸のほうに線路があってもどうにもならないかもしれない、柏と船橋をつなげてみてもどうにもならなかったかもしれない、早晩廃止の運命になる、ということですよね?
スカイツリーをご覧になることはできましたか?
東京都心連絡のことしか眼中にないようですが、なぜ武蔵野線が混雑するか、京葉線とつなげようとしたか、ご理解が及んでいらっしゃいますか。
全部東京を向いていて、横への移動がとても不便という埼玉県民の嘆きはご存じですか。
バスよりも犬のほうが…のくだりは、インタビュアーのウケを狙ったようですが、聞くほうもそこでツッコミをかませなくてどうします。
常盤台に関するお話から逸脱する、読んでいる人に不快感を与えかねない箇所は遠慮なくカットする勇気を、板橋区教育委員会の方には備えていただきたかったです。
1992年というインタビュー時期にも留意が必要でしょう。バブル崩壊間もない頃ですが、結局はお金と経済効率が最優先という考え方が支配していて、鉄道に関してはとりあえず国鉄のやり方を何でも叩いておけばよいという態度が正義とされていた時代です。
常盤台住宅地分譲で真に評価されるべきは、根津嘉一郎と小宮賢一および当時の内務省上司、官僚たちのほうでしょう。皇国教育で国民を育て、人の命や、より快適に暮らしたいという望みよりも国体護持のほうがはるかに大切とされ、一億一心で戦争に突き進もうとしていた時代に、海外の優れた事例を謙虚に取り込みつつ、国民に衛生的でゆとりある暮らしを提供したいというみずみずしい志を持っていた若者が政府にいたということこそが特筆に値します。自由闊達なプランに文句をつけず裁可した上司もさすがです。戦後、とりわけバブル期以降はこの志とは最もかけ離れた人材ばかりになってしまったことに、諸問題がなかなか解決できない原因があると思われます。
東急では田園調布開発について社史で多くのページを割いているが、東武の社史では常盤台住宅分譲にほとんど言及されていないと「常盤台住宅物語」の編者さんは不思議がっています。その社史は1964年に出版された「東武鉄道六十五年史」のことでしょう。1960年代には既に、常盤台など過去の遺物に過ぎないとみなす人のほうが社内の多数派で、ときわ台駅に勤務する職員たちの士気も上がっていなかったと推測されます。
一方、1998年に発行された「東武鉄道百年史」では常盤台住宅地分譲事業にページを割き、根津嘉一郎と小宮賢一の掲げた理想についても触れられているといいます。やはり「衣食足りて礼節を知る」なのでしょう。
<2018年7月追記>
この記事は、2018年6月に電子書籍で発表された、中湖康太氏の著作「常盤台住宅地物語」を新たな参考資料として、一部加筆修正を行いました。
さらに、この時点では計画中であった環七通り(東京都道318号線)予定地と接続する道路も建設する予定でしたが、諸事情によりいささかややこしいクランク道ができてしまい、環七とは直結しませんでした。歩道の信号機もかなり迂回させられる位置にできています。
常盤台住宅地には、プラタナスプロムナードが完全な形にならなかったこと、環七と直結できなかったこと、富士見街道側のロータリーが作れなかったことなど、見込み違いもいくつかありました。
しかし周囲の幹線道路へのアプローチがクランク状になったがゆえに、住民の自動車運転にはいささか不便でも、地域の外から来て高速で通過していく自動車の進入を抑えられて、「健康住宅地」のセールスポイントである静謐を後年まで保ち続けられました。それは街にとって、かえって幸運だったでしょう。
その一方で「不都合な真実」を指摘しておく必要もあります。
常盤台住宅地は根津嘉一郎の晩年の理想を官民一体の事業として形にしたものですが、根津の没後(1940年)戦争が激化して、戦後の食うや食わずやの時代を経ていくうちにその理想はいつしか消え去り、いささかやさぐれた、それでいて気位だけは高い街や駅になっていた時期が長く続いたことは記しておかなければなりません。分譲当初から戦後10年くらいまでは武蔵常盤駅長も地元に住み、地域のリーダーになっていたといいますが、その習慣もいつしか潰えました。
板橋区教育委員会が編纂した「常盤台住宅物語」には、分譲当時区画整理部署の責任者だった東武鉄道の元社員のインタビュー(1992年実施)が掲載されていますが、「西板線で西新井と上板橋をつないでも、どうにもならなかっただろう。路面電車のように採算が取れず、早晩撤去の運命になっただろう。」などと、鉄道会社にいた人でありながら、鉄道に対して驚くほどさめた見方をなされておいでです。失礼ながら背後には、社内での複雑な事情が隠されているように見受けられました。この方が若かりし時代、鉄道会社に籍を置きながら不動産管理の部署に回されることが何を意味していたかまで読み取る必要がある資料です。根津の死去に伴い、社内方針の転換がなされた節も見受けられます。
<引用>
「地盤が軟弱な東京には、地下鉄しかないのですよ。」
<引用終了>
…えっ???
横浜や大阪の地下鉄工事がいかに難渋を極めたか、営団(→東京地下鉄)や交通局が軟弱地盤対策にいかに腐心して、建設中も開通後も多額の経費をかけているか、ご存じなかったのでしょうか。
東京は地盤が軟弱だからこそ、路面電車や一般の鉄道を大切に扱う姿勢が求められるのではありませんか?
道を自動車であふれさせ、街中地下鉄や高速道路で埋め尽くすことなど「分不相応」とわきまえるほうが理にかなっていませんか?
この方は、常盤台住宅を分譲する業務には間違いなく熱心に取り組まれていたのでしょう。完成した物件が、分譲条件に合致するかどうか判定できるように、建築についての勉強も怠らなかったと存じます。住民からの信頼も厚く、それゆえに住民には「東武は、常盤台の街づくりに熱心に取り組んでいる」と映ったことでしょう。しかしその発言の奥には、「汽車屋」のお偉方に対する複雑な感情を抱いたまま晩年を迎えた心境がうかがえました。
鉄道には最短距離が求められていて、まわりくどい経路をたどるものは客がつかない。昔、青山から押上までバスよりも犬のほうが速いなどと言われていたが、それではどうしようもない…などともお話されていますが、上板橋-西新井間のどこが迂回になるのでしょうか。ほぼ一直線の計画ですよ。迂回というのならば、あなたが所属していた鉄道会社の狭小なターミナル、無理に隅田川へと曲がる線形のほうがはるかに問題ではありませんか。あの駅が実質観光目的にしか使えなくなったからこそ、営団の乗り入れに頼らざるを得なくなったという歴史を直視しましょう。
第一、環七など道路が整備されるまで荒川の渡し船に頼っていたという、足立区の鹿浜や新田地域の人たちの前で、同じせりふを言う度胸はお持ちですか?
この方の論理に従えば、北千住から南や、亀戸のほうに線路があってもどうにもならないかもしれない、柏と船橋をつなげてみてもどうにもならなかったかもしれない、早晩廃止の運命になる、ということですよね?
スカイツリーをご覧になることはできましたか?
東京都心連絡のことしか眼中にないようですが、なぜ武蔵野線が混雑するか、京葉線とつなげようとしたか、ご理解が及んでいらっしゃいますか。
全部東京を向いていて、横への移動がとても不便という埼玉県民の嘆きはご存じですか。
バスよりも犬のほうが…のくだりは、インタビュアーのウケを狙ったようですが、聞くほうもそこでツッコミをかませなくてどうします。
常盤台に関するお話から逸脱する、読んでいる人に不快感を与えかねない箇所は遠慮なくカットする勇気を、板橋区教育委員会の方には備えていただきたかったです。
1992年というインタビュー時期にも留意が必要でしょう。バブル崩壊間もない頃ですが、結局はお金と経済効率が最優先という考え方が支配していて、鉄道に関してはとりあえず国鉄のやり方を何でも叩いておけばよいという態度が正義とされていた時代です。
常盤台住宅地分譲で真に評価されるべきは、根津嘉一郎と小宮賢一および当時の内務省上司、官僚たちのほうでしょう。皇国教育で国民を育て、人の命や、より快適に暮らしたいという望みよりも国体護持のほうがはるかに大切とされ、一億一心で戦争に突き進もうとしていた時代に、海外の優れた事例を謙虚に取り込みつつ、国民に衛生的でゆとりある暮らしを提供したいというみずみずしい志を持っていた若者が政府にいたということこそが特筆に値します。自由闊達なプランに文句をつけず裁可した上司もさすがです。戦後、とりわけバブル期以降はこの志とは最もかけ離れた人材ばかりになってしまったことに、諸問題がなかなか解決できない原因があると思われます。
東急では田園調布開発について社史で多くのページを割いているが、東武の社史では常盤台住宅分譲にほとんど言及されていないと「常盤台住宅物語」の編者さんは不思議がっています。その社史は1964年に出版された「東武鉄道六十五年史」のことでしょう。1960年代には既に、常盤台など過去の遺物に過ぎないとみなす人のほうが社内の多数派で、ときわ台駅に勤務する職員たちの士気も上がっていなかったと推測されます。
一方、1998年に発行された「東武鉄道百年史」では常盤台住宅地分譲事業にページを割き、根津嘉一郎と小宮賢一の掲げた理想についても触れられているといいます。やはり「衣食足りて礼節を知る」なのでしょう。
<2018年7月追記>
この記事は、2018年6月に電子書籍で発表された、中湖康太氏の著作「常盤台住宅地物語」を新たな参考資料として、一部加筆修正を行いました。