健康状態に問題ない成人ならば、ゆっくり歩いても20分弱あれば十分です。
しかしこの中間に駅を増設する計画が存在したという、かげろうのようなうわさがあります。
駅名は「新常盤」。
現在の常盤台三丁目・四丁目地区(板橋区発足以前は上板橋村)一帯の地主だった家の古老Nさんが十数年前に編集発行された地元町会記念誌の取材に応じて、インタビュー記事が掲載されました。
引用します。
「今の出張所のあたりに、昭和23年(1948年)に一応新常盤駅というのができたんです。それで女事務員二人を用意してくれという話もあったし、切符もできて売ったんですよ。駅前広場に建物がないとまずいというので、うちがわざわざ二階建ての家を四軒ばかり建てたんですよ。」
ときわ台駅の旧称「武蔵常盤」の「武蔵」とは、旧国名というよりも「武蔵野台地」を意識したものといいます。
1935年開設当時の国鉄(鉄道省線)に「常盤」という駅はありませんでした。
(後年山口県の宇部線にできています。)
青森県の奥羽本線に「北常盤」がありますが、そこでも「常盤」という駅は作られていません。
その時代は私鉄でも、国鉄を意識して旧国名を冠する駅の命名例がいくつかみられます。
武蔵関(西武鉄道)、武蔵藤沢(武蔵野鉄道)、武州松山(東武鉄道、現・東松山)など。
それらの駅と武蔵常盤とは一線を画しているのでしょう。
その武蔵常盤に対して新しい駅だから「新常盤」という命名とみられます。
しかしこの証言はかなり怪しいもので、信頼性が担保されていません。
東武鉄道の社史や保管文書における記録は一切ありません。
東武博物館の元館長で、東武の生き字引ともいえる花上さんも「聞いたことがない」。
ブログ「板橋ハ晴天ナリ。」では、単に地元が東武鉄道に陳情したという話の取り違えではないかと記されていました。
ところが同ブログ筆者さんが2011年に、「新常盤駅」設置の件を記した東武鉄道公式文書を発見しました。一度は実際に認可されたのです。
東武鉄道から秩父鉄道、西武鉄道、青梅電気鉄道(後の国鉄青梅線)、越生鉄道(後の東武越生線)宛に、新常盤駅を開設するので、貴社の連絡運輸対象駅に追加してほしいという内容の通知です。文書は青梅市で保管されていたということです。
ただし通達日は昭和23年ではなく、昭和18年(1943年)1月26日です。
この5年の差は大きいです。
現代における5年の比ではありません。
青梅電気鉄道の国有化は1944年(昭和19年)に行われています。
しかし東武鉄道はおよそ2ヶ月後、1943年3月19日付で「新常盤駅の新設は都合により見合わせる」という通達を各社に対して告知しました。その間に駅設置は取り消されたことになります。
いいかげんな内容のインタビューを記念誌に載せないでほしいわね、と思いかけたところでNさんの証言をもう一度よく読んでみると、先の引用に続いて
「駅前通り商店街になるところで立ち消えになってしまった。戦争でね。間隔の近い駅は撤去しろという命令なんだ。」
と語っていました。すなわちNさんは「昭和18年」と言うべきところを間違えて話したのでしょう。
インタビュアー兼編集担当者がよく確かめずに録音をそのまま文字に起こして掲載したことが誤記の原因です。
この編集者は懲りずに、10年後の町会記念誌にも同インタビューを再掲載して、ご丁寧にも年表の1948年の項目に
「新常盤駅完成(武蔵常盤-上板橋間)駅間が短く撤去」
と記しています。戦争リアルタイム世代なのに、とほほほ。
Nさんは、現在赤53系統のバスが通る中央通りの商店街について
「駅ができるというので集まってきた」
とお話されています。
東武の文書とあわせて考えると、
1943年1月正月明けごろ:東武鉄道から地元に、新常盤駅開設の告知がなされる。
(東武鉄道による正式な開設決定通達文書は未発見ですが、当然近隣私鉄への連絡よりも前です。)
その話を聞いた地主N家で受け入れ準備を始める。
(責任者は当時10代だった古老のお父上と考えられます。)
周辺住民が、駅前道路に商店街を作る計画を立案する。
1月26日:東武鉄道が近隣私鉄宛てに連絡運輸対応の依頼文書を送る。
3月上旬まで:何らかの理由により、新常盤駅の建設中止が社内で決定する。地元にも告知される。
3月19日:近隣私鉄に駅新設見合わせの文書を送る。
という流れです。
駅舎やホームの着工は実際にあったのでしょうか。Nさんのお話からは「建設途中で中止」の可能性が最も高そうですが、竣工間近まで行っていた可能性も否定できません。一方、用地確保だけで終わってしまった可能性もあります。
もっともNさんは同じインタビューで
「大正3年5月に下板橋駅と成増駅ができ、翌6月に上板橋駅ができた。現在の池袋駅までつながるのはずっと後で、下板橋駅まで行き、歩いて国鉄の板橋駅まで行って都心に出た。」
と、またも怪しげなことをお話されています。
東上鉄道は最初から池袋まで敷設されていました。
Nさんが若い頃の池袋は豊島師範、立教など上級学校がいくつかある程度の小さい街で、東武や武蔵野鉄道と省線が集まるターミナルではありましたが、都心へ向かう乗り継ぎ駅という認識はまだ定着していませんでした。東武下板橋駅-市電下板橋停留場を介する連絡運輸と同様、東武下板橋駅-省線板橋駅を介する連絡運輸も行われていて、Nさんはそれを利用していたのでしょう。いつも下板橋で下車していたため、池袋の記憶は残っていないものと推定されます。
お話が逸れましたが、Nさんのお話は始終この調子のため、客観的な証拠が新たに見つからない限り実態の解明は難しそうです。
東武の文書において新常盤駅の位置は池袋から5.4km、坂戸町から34.7km、寄居から68.9kmと記されています。武蔵常盤駅から700m、上板橋駅からは600mの位置に相当します。(ブログ「板橋ハ晴天ナリ。」による)
その位置は中央通りの踏切近く。
上板橋駅にあまりにも近すぎますが、当時は列車の編成が短かったため、駅の新設という発想も可能だったのでしょう。
しかし、なぜ東武が細かい駅設置を認めたかは謎です。
ひとつ考えられることは、当時の経営方針として駅をこまめに作り、地域短距離移動の利便を図ろうとした可能性です。
東武は1931年に金井窪駅、1933年に中板橋駅を開業しました。
金井窪は下板橋、大山両駅と至近で、中板橋は石神井川の水を使った天然プール「遊泉園」行楽客用臨時乗降場を駅に昇格させたものです。その2年後には常盤台住宅地開発のため、武蔵常盤駅を至近距離に作りました。東武としては市内電車に近い感覚で使ってほしかったのでしょうか。現在の東急池上線のような形を構想していたかもしれません。
戦後板橋区議会では、池袋-成増間の無軌条電車(トロリーバス)建設を東京都に請願したといいます。(板橋区広報 1955年6月25日号より)川越街道沿いのこまめな駅設置について、潜在的な需要が存在していたとみられます。
1943年は戦局が急速に悪化した頃で、物資不足が深刻になりはじめ、一部配給制も実施されました。エネルギー関係は特に厳しかったはずですが、東武も地元もまだ何とかなりそう、むしろ戦意高揚に協力したいという甘い見通しを持っていたということでしょうか。
現代の人は戦争の結果を知っていて、実態もある程度解明されているため、「戦局が悪化した段階で細かい駅設置なんて?」と首を傾げることができます。しかし当時の人は大本営発表しか知らされませんでした。多少の犠牲はあっても連戦連勝と信じ込まされていました。東武の人も戦争の実態をよく知らなかったとは考えられないでしょうか。
あるいは、上板橋から陸軍第一造兵廠までの貨物線建設が決まったため”客貨分離”を行い、上板橋駅を貨物専用にしようと考えたのでしょうか?
「新常盤駅」設置予定とみられる場所。東京教育大学宿舎前で 曲がるブロック塀から右手前方向に、線路敷地がふくらんでいる ことが確認できる。(2000年撮影) |
常盤台区民事務所脇の線路沿いの道は、上板橋側の東京教育大学職員宿舎(団地)前まで微妙に曲がっています。東武の線路との間には東武鉄道の変電所が設置されています。おそらく東武は自社変電所の土地を新常盤駅建設に充てようとしていたのでしょう。
あるいは土地の割譲もあったのでしょうか、N家にはいち早く東武から連絡が来ていたとみられます。