2018年12月27日木曜日

地下鉄開通の頃(2018年12月記)

★ 祝・開業50周年 ★

都営地下鉄三田線は、2018年12月27日に開業50周年を迎えました。
1968年12月27日に都営地下鉄6号線として、巣鴨-志村(現・高島平)間で開通しました。

(注)「6号線」とは、都市交通審議会答申で使われていた地下高速鉄道整備路線番号です。
東京では1号線から13号線まであり、以下の通り対応しています。
(「都営」と冠しない路線は帝都高速度交通営団および東京地下鉄の建設・営業)

1号線:都営浅草線
2号線:日比谷線
3号線:銀座線
4号線:丸ノ内線
5号線:東西線
7号線:南北線
8号線:有楽町線
9号線:千代田線
10号線:都営新宿線
11号線:半蔵門線
12号線:都営大江戸線
13号線:副都心線

当初はこのブログの他記事でも触れた通り、一部区間でルートが異なるものの、事実上の都電志村線代替交通機関でした。

その後、都市交通審議会答申に沿う形で1972年6月に日比谷まで、1973年11月に三田まで開通。
近隣私鉄線との相互乗り入れ計画は諸事情で挫折を繰り返しましたが、板橋区内については高島平西部地域住民からの強い要望に応える形で都交通局が免許の一部を譲り受けて、1976年5月に高島平-西高島平間を延伸しました。

1978年に「三田線」の線路名称がつきました。

※この件については以前他記事で否定的な心境を記しましたが、「いたばし大交通展」図録にて事実誤認があることが明らかになったため、訂正しました。

最初に経営判断上の理由として相互乗り入れを断った東急電鉄は、1985年に運輸政策審議会で答申された、乗り入れ対象路線を目蒲線とする相互乗り入れ計画の提示を受けて、改めて営団および都交通局と合意しました。営団が7号線(南北線)として目黒-清正公前(開業後は白金高輪)間を、交通局が清正公前-三田間を建設し、2000年9月26日に三田-目黒間が開通、地下鉄東京6号線(三田線)は目黒-西高島平間の路線として完成しました。目黒-白金高輪間において、都交通局は第二種鉄道事業者として三田線の運転を行っています。

相互乗り入れ区間は、当初東急目黒線(目蒲線を改称)の目黒-武蔵小杉間で、2008年に日吉まで延長されています。東急は時間をかけても交通局への義理を果たしました。余談ですが、東急はかつて小説の題材にまでなるほどの激しいライバル関係にあった西武鉄道とも強いパートナーシップを結ぶようになりました。東横電鉄開通90周年記念で「T.K.K」と大書した緑色のラッピング電車が練馬や石神井公園に入線する姿には、隔世の感を抱きました。


★ ちかてつは とても あたたかかったです ★

本ブログ筆者は開通日の1968年12月27日に父方の祖母に連れられて、西台から巣鴨まで乗車しています。幼稚園児でした。私事ですが、生まれて間もない頃から両親の生活上の事情により、月に2回ほど下町にある祖父母の家に”お泊り”する習慣がありました。都電はそのお泊りの時に幾度も乗車した縁で好きになりました。この日も”お泊り”に出かける用事でした。真冬のよく晴れた夕方でした。おそらく15時台と思われます。都電志村線の最終運転日も快晴であったことが写真で確かめられます。長らく廃止日に乗車したと思い込んでいましたが、実際はその前日が最終乗車でした。

開通時に使われていた車両は6000形の4両編成。ステンレス製の外装で、やや朱色に近い赤帯がワンポイントでした。6000形といえば都電の最多車両形式ですが、都電後継として期待を背負わせるという意味は特になく、偶然と思われます。「6号線」だから6000形、なのかもしれません。後年開通した都営新宿線は10号線のため「10-000形」という車両が使われていたことから、たぶんその推理で合っているのでしょう。赤帯は都電車両がアイボリーに赤帯だったからと、個人的に想像しています。
内装はペールアイボリーの壁面、えび茶色の座席シートと記憶しています。

西台駅は現在と同じ建物ですが、開通当時の駅周辺に目立った建物はほとんどありませんでした。駅南東側の公団住宅蓮根団地、北東側の山之内製薬と藤倉化成の工場、蓮根小学校が目立つ存在でした。現在のダイエー敷地内を流れていた前谷津川は既に暗渠になっていたと記憶していますが、商業施設は個人商店がまばらにある程度でした。蓮根団地の住民は南側、氷川神社方面に伸びる商店街で買い物していました。団地脇の馬頭観音はもちろん昔からありますが、当時は祠もなく、小さな石柱がかすかに傾きながら淋しげにたたずんでいました。

西台駅南西側の水田は既になくなっていて、地下鉄開通時点では水が抜かれて区画整理が行われ、真新しい直線の道路がいくつかできていました。しかし建物は全くありません。

西台駅前の高架下を通る道路(都道447号線)の幅員は現在の半分で、片側1車線。今の南行き(大東文化大学方面)車線が道幅でした。その道路を、国際興業バスの池袋駅東口行き26系統(現・池袋駅西口行き池20系統)と、浮間公園経由赤羽駅東口行き(現在の赤56系統とはルートが異なる)が頻繁に行きかっていました。

北隣の地下鉄志村検修場はもちろん既にできていましたが、その上の人工地盤と高層都営住宅はまだ着工されていません。新河岸川沿いの工場まで見通しが効いていたはずです。

なお、この時代花火大会は開かれていませんでした。1965年から1972年まで中断されています。
ゆえに私が故郷から花火を見たのは2018年が初めてです。


西台駅を発車した電車は蓮根小学校と団地の間を右にカーブして蓮根駅に到着します。
駅の西側には団地との間に「イースタン観光」のバス車庫がありました。
今はコーシャハイムが建っている場所でしょうか。

駅の北東側には他記事でも紹介した「コビト」(東京渡辺製菓)の工場があり、いつもパンやお菓子の甘い匂いが漂っていました。都道446号長後赤塚線は、西台駅から蓮根駅までの間の幅員がやはり現在の半分で、蓮根団地寄りの南側を使っていましたが、コビトの工場から中山道までは当時から現在の幅員になっていました。

蓮根駅の北側は現在小さい民家や飲食店が建ち並んでいて、団地方向からはまっすぐに駅までたどり着けません。地下鉄工事の際に各自が好きなように土地を購入したからでしょうか。後年自転車置き場を設置したためかなり入口が狭く、やや災害が心配な区域です。

現在の蓮根駅は騒音防止のためホームが壁面で覆われていますが、開通当初は素通しでした。木枯しの季節はさぞ寒かったでしょう。

防音壁設置前の蓮根駅ホーム。(1986年4月)

階段の壁に張られている茶褐色や濃緑色のタイルは現在もそのままです。1階コンコースには開通記念で地元の蓮根東町会から寄贈された大きな鏡がとりつけられていて、こちらも健在です。2012年におよそ40年ぶりに対面した際は感激しました。



地下鉄開通記念として蓮根東町会から蓮根駅に寄贈された姿見。
背後のタイルともども50年後も健在。(2018年12月)

蓮根駅を出ると民家や小さな町工場の建ち並ぶ中を、左へとカーブします。右手前方には志村城山の丘が見えてきます。そこには光学機器メーカー「コパル」の工場があり、「C O P A L」の真紅の大きな電照がとりわけ印象的でした。地下鉄開通の頃には、坂下地域の高層都営住宅は既にいくつかできていたと記憶しています。


志村三丁目駅はホーム屋根が4両編成分しか作られていませんでした。志村(高島平)方向はコンクリートのホームと駅名標があるだけで、開業日は冬の青空がとても大きく見えたことを覚えています。当時から母親に勧められて日記を書いていて、当日は

「ちかてつは とても あたたかかったです。」

と記しています。あの頃の冬は今よりもかなり寒く、幼稚園や小学校の屋外水道蛇口凍結は日常光景でした。今は暖房の部屋にいると頭痛がしてきますが、当時暖房はとても貴重でした。

志村三丁目を出発すると崖が迫ってきて、ようやく地下に入ります。
埼玉県内から遊びに来た母方の祖母は、

「地下鉄は速いけれど、何だか表ばかり走っているね。」

と話していました。


地下区間は都電志村線の代替として建設されています。2停留場を1駅にまとめた格好です。
駅の壁面にはクリームイエロー、モスグリーンの細かいタイルが貼られていました。
駅によりいずれかの色を採用していました。

クリームイエローが志村坂上、新板橋。
モスグリーンが板橋本町、西巣鴨と記憶しています。

2012年に久しぶりに乗車した際、志村坂上や新板橋にはクリームイエローのタイル壁面がまだ残されていました。懐かしい反面、東日本大震災の直後ということもあり老朽化が心配されました。すると翌年には改修工事が始まり、現在の白地に青色ラインの壁面に変わりました。


終点の巣鴨駅は今も同じ構造です。山手線乗り換え口の、中央にエスカレーターを置く階段も開通当初からそのままです。開通から当面の間は山手線乗り換え客がほぼすべてを占めるであろうことを考慮して、思い切り幅を広く取ったのでしょう。

翌1969年のある春の日、”お泊り”帰りに祖母が巣鴨のスーパーでイチゴを買ってくれ、その箱を抱えて地下鉄に乗りました。
巣鴨駅のエスカレーターを見ると、時折イチゴの真っ赤な実を思い出します。

山手線と反対側の出口(地蔵通り商店街側)は都電からバスに替わった巣鴨車庫前に作られました。アーケード街の真ん中に、申し訳なさそうに東京都のマークと「地下鉄」の看板を掲げていました。


地下鉄が開通した頃のヒットチャート1位は「恋の季節」。秋から年末までほぼ独走です。
岩谷時子さんが書いた詞の深い意味など知らずに、格好いい!と帽子を押さえるポーズを真似していました。北島三郎さんがCMソングを歌った「三菱鉛筆のボールペン」(まっくろけ節)が子供に人気でした。歌詞にある通り30円です。

駄菓子屋の粉末ジュースが1袋5円、サイコロキャラメルが1個10円。
穴のない国会議事堂の5円硬貨は身近な存在でした。


★ はじめてのきっぷ ★

「いたばし大交通展」では、板橋区の鉄道に関する昔の乗車券・入場券が多数展示されていました。収集家の方が出展協力されたそうです。当時は地下鉄でも硬券(厚紙に印刷された乗車券)が窓口で販売されていました。その頃から収集家は多数いらしたようで、開業日には各駅の入場券を買って回る人もいたそうです。

一方、私の手元に開業当日の乗車券はありません。
改めて考えてみたら、「幼稚園児は切符を買わなくてよい」ことに気がつきました。
小児運賃は学齢(小学校入学)に達したら必要になります。
祖母は西台駅で自分の切符のみを買い、何も考えずに巣鴨駅で渡したのでしょう。

調べてみたら、1969年の日記に西台駅発行の小児切符が貼付されていました。




ご覧の通り「44.4.7」と印字されています。
この日は月曜日で、小学校の入学式だったはずです。
すなわち、私にとって生まれて初めての「自分の切符」です。
なぜ手元に残っているのか、詳しい事情はもはやわかりませんが、小学校に入学して最初の切符ということで駅員が大目に見てくれたのでしょうか。

一方、糊で貼り付けたため裏面は紙の繊維がこびりついています。
右側が斜めに折れています。
何よりもまずいのは、もともとの日付印字が薄かったため、後で落書きをした跡があること。
当時はコレクションについてまだ理解できていなかったのですね。

この乗車券は地図式で、西台から板橋本町~西巣鴨間の任意の駅まで有効であることを意味しています。
「20円」は小児運賃で、大人は40円でした。
当時の都電には小児運賃制度がなく、誰でも1乗車につき20円でした。
志村橋まで41系統が運転されていた時代は、開通当初(1955年)10円、1956年2月から13円、1961年11月から廃止まで15円でした。都電の小児運賃制度は荒川線のみになってから導入されています。
従って、都電から地下鉄への転換は大人にとって大幅値上げでしたが、子供は都電と同程度の運賃で済んだということになります。

地下鉄開通当初の旅客運賃は3区間制でした。(1号線、後の浅草線にはさらに長距離の運賃が設定されていたかもしれませんが、あいにく存じていません。)
大人運賃は第1区間が30円、第2区間40円、第3区間50円。
当時の子供にとって50円はなかなかの額のお小遣いでしたから、巣鴨まで50円はすごい、と単純に信じていました。まだニッケル製の大きな50円硬貨がたくさん流通していた時代です。

「2等」は当時まだ旅客運賃に等級制があったために記されています。都営交通には昔も今も1等車はありませんが、国鉄にならっていたのでしょうか。それとも法律か何かで、車両の有無にかかわらず1等、2等の運賃を定めるようになっていたのでしょうか。

国鉄では1969年5月10日に等級制を廃止して均一料金に変更、高級車両を「グリーン車」と称するようになりました。交通局など他事業者でもその際に「2等」表記を乗車券から削除したのでしょうか。印刷所に発注する関係上、1969年5月末ごろまで「2等」表記が残されていた可能性はありますが、「2等」表記のある1969年小児切符はそう考えると結構な貴重品なのでしょうか。改めて落書きをした過去の自分の愚行が悔やまれます。


★ 謎の1番線 ★

地下鉄6号線の終着駅は、開業当初「志村駅」と命名されていました。
都市交通審議会答申で用いられていた、都電志村橋終点に替わる駅という意味でつけられた仮称を、よく考えずにそのまま使ったのでしょう。
しかし、地元の人が「志村」と認識する地域からは結構な距離があります。
住居表示実施前の町名が掲載されている地図で調べてみると、旧赤塚村の赤塚本町に建設されていて、志村の駅ではありません。うちの母親も

「あんなところが志村なんて、何か変だね。志村といえば三徳(スーパーマーケット)とか、あっちの坂のほうでしょう。」

と首を傾げていました。我が両親ともその十数年前、新婚で板橋区に来た「外来住民」です。
古くから志村・赤塚村に暮らしていた人々の違和感はさらに強かったことでしょう。

早速交通局に苦情が山ほど寄せられた…かどうかはわかりませんが、旧赤塚水田地域区画整理事業完了に伴い、1969年3月に「高島平」という町名が発足しました。幕末の砲術家、高島秋帆から取られた名前です。高島秋帆は長崎の生まれで、赤塚村徳丸ヶ原で日本初の西洋式砲術演習を行った故事にちなむそうですが、徳川政権時代は鷹狩りの「戸田筋」で、歴代将軍が頻繁に鷹狩りに来ていて、猪を狩ったという記録もあるといいますから、高島秋帆である必然性は絶対的ではなかったと考えることもできます。昭和高度成長当時は「明治維新が近代国家のスタート」という意識がとても強かったゆえでしょう。

この新しい町名を受けて、住宅公団は造成する大規模高層団地を「高島平団地」と名付けることにしました。交通局は開通からわずか7ヶ月後の1969年8月1日に「志村駅」を「高島平駅」に改称しました。

こういったエピソードに、小学生は敏感に反応します。
「志村駅探検」は格好の遊びでした。

行ってみると真新しい道路だけがある草ぼうぼうの広い空地の中に、小学校の体育館を大きくしたがらんどうのような薄暗い建物がありました。とても大きなホームが2つ作られていましたが…なぜか2番線と3番線しかありません。1番線と4番線になるであろうホームには、線路さえ敷かれていません。がらんどうの真ん中だけに縮こまっているようなレールと電車。交通局にとっては不本意な格好だったでしょうが、小学生のわくわく感はさらに広まります。

どうして、1番線はないの?

いつか作るつもりなの?

…その謎を解くことなく、私は数年後に親の都合でこの地域から離れました。

その頃、平日の夕方になるとテレビから以下の歌が流れていました。

 「マイ・ホームタウン」

 作詞・井上ひさし、山元護久
 作曲・宇野誠一郎

 ここはまだ 石ころごろごろ
 ここはまだ 草がぼうぼう
 ここはまだ ヤブ蚊がブンブン だけど

 ここに 街を作ろう
 ぼくたちの街 ふるさと

 オー オー マイホームタウン
 マイホームタウン
 オー マイホームタウン

 (後略)


私は今でも、高島平といえばこの歌を思い出します。
一種の社会実験ともとらえられ、大きな話題を集めた高島平も時を経て、すっかり周囲となじんだのみならず、あちらこちらで”老い”が目立つようになってきました。ここに作られた街を「ふるさと」とする人の中には著名人や人気タレントもいます。しかし私にとっては生涯、”新しい街”のままです。


それから30年近く経過した1998年に、板橋区郷土資料館・新宿区歴史博物館など4館合同企画として「トラムとメトロ」展が開催されました。その図録でようやく、自分でもすっかり忘れていた謎の答えが見つかりました。

志村駅(高島平駅)は埼玉県北足立郡大和町(やまとまち。現・和光市)までの延伸を見越した設計で作られ、開通の暁には1番線・4番線を開いて2面4線とする構想でした。さらに、志村駅から先は東武が営業することになっていたそうです。

あくまで想像ですが、完成後は

1番線:東武鉄道から直通 巣鴨・三田方面
2番線:当駅始発 巣鴨・三田方面
3番線:当駅終着 降車ホーム
4番線:東武鉄道へ直通 大和町・上福岡方面

とするつもりだったのでしょうか。
この計画が実現していれば、高島平西部地域の人は便利になる代わりに割高な運賃を支払うことになり、高島平の東西格差が現在よりも顕著になったかもしれません。

実際は東武にとって採算性が見込めない(池袋を通らない)上、都心へ遠回りになるという理由で、私がこの地域を去った1972年3月に計画は撤回されました。一方、高島平団地の入居が始まると莫大な人口を抱えるようになり、地下鉄は都心方面への唯一の交通機関としてフル稼働、1番線と4番線は増えた電車をさばくためにほどなく開設された模様です。1976年に西高島平まで延伸されると、それまでとは逆に1番線・4番線が本線扱いになり、2番線・3番線は志村検修場出入庫便用とされて、ほとんど使われなくなりました。


★ なつかしい駅名標 ★

三田線開通50周年企画として2018年11月から2019年1月まで、高島平駅1番線に開業当時の駅名標が復元掲示されました。


高島平駅の復刻駅名標(2018年11月)

東武の計画では今の新高島平に相当する駅は予定されていなかったみたいで、当時の計画路線入り地図には掲載されていません。どうせならば「しんたかしまだいら」の代わりに「みそのちょう」(三園町。西高島平駅の仮称)と書いて皮肉を効かせれば話題になる…かも?

開業当時の駅名標は1994年10月ごろまで使われていました。
オリジナルはこちらです。再現ものよりやや字体が太いですね。


1976年に設置された高島平駅のオリジナル駅名標(1994年10月)

毎度余計な私事で恐縮ですが、阪神淡路大震災の3ヶ月前に神戸港第一突堤で釣り人に交じりながら夕暮れの港の風景を撮影して寝台急行で帰京して、翌日フィルムの余りを消費するため久しぶりに三田線に乗車したため、よく覚えています。この時期に高島平や西台で改修工事が行われていて、駅名標も国鉄の「鉄道掲示基準規程」準拠形式からブルーのラインカラー入りに取り換えられました。国鉄があった時代には、私鉄や公営交通でも大部分の事業者が国鉄の掲示にならった駅構内案内表示を採用していました。



高島平駅1・2番ホーム(1994年10月)

当時の都営地下鉄サインは「濃紺色」が使われていました。都電の琺瑯製停留場標の伝統を汲むものです。国鉄駅名標よりも少し力が抜けた感じの字が使われていました。




私が出向いた日には、蓮根と志村三丁目では既にブルーライン入り駅名標に交換されていましたが、西台と志村坂上にはまだ残されていました。西台駅は改装工事中でした。




西台駅ホーム。1番線の南行案内表示がやたら細かい。
(1994年10月)


志村坂上駅のオリジナル駅名標。(1994年10月)

志村坂上では線路の間に建てられていた支柱にとりつけられていました。現在でも剥がした跡を確認できます。





★ 証拠写真は突然に ★

2018年11月末から2019年1月31日まで、三田線の駅構内に開業50周年記念ポスターが掲示されました。




交通局制作の三田線開業50周年ポスター。
(2018年11月)

3枚目で取り上げられている一枚の写真に目が止まりました。「大和町」の幕を表示させている6000形電車が写っています。志村検修場で、おそらく開通日前後に撮影されたものでしょうか。

「トラムとメトロ」の図録には、開業時に運転されていた6000形には将来の相互乗り入れを想定して、川越市・志木・大和町などのコマを入れた幕が取り付けられた、と記されています。しかしそれを裏付ける写真はなぜか図録に掲載されていません。信憑性に疑義が出されかねないところでしたが、突然に証拠が現れました。




「大和町行き」6000形電車。
(三田線開業50周年ポスターより)

この時点で東急池上線との直通運転は既に破談になっていて、南側の計画は確定していませんでしたが、「日比谷」「三田」も既に含まれていたでしょうか。

ネットの時代を迎えて、一部には「1968年に東急と東武から同時に破談を言い渡された」的な書き方をしている記事が載っていますが事実ではありません。先に(着工前)東急が南側の話を蹴り、東武は開通後に北側の直通を断ってきた、が史実です。この写真こそが紛れもない根拠です。

昔は「とえいこうつう」という無料パンフレットが駅に置いてありました。今もあればこの写真も掲載されるところでしょうが、近年はどこもペーパーレス化を進めているようで、「とえいこうつう」は既になく、後継誌「都営交通ふれあいの窓」はあえて鉄分を控えめにして、沿線の名所やおしゃれなお店紹介をメインにしているため、証拠はこのポスターのみです。いささか失礼してポスターを写真に収めました。

なお、開通時の幕は白地に黒文字でしたが、後年紺色地に白文字に取り換えられています。営団丸ノ内線の300形も同じ経過をたどりました。


6000形の帯色はラインカラー制定時に赤から青へ
変更された。(西台駅、1994年10月)


★ そこにはただ風が… ★

地下鉄6号線開通から2週間ほど過ぎた1969年1月10日に、ミュージシャン端田宣彦氏がシューベルツというバンドを組み、「風」という曲(作詞:北山修)を発表しました。(レコード発売日。曲自体は1968年秋にできていて、フォーククルセダーズ解散コンサートで披露されています。)

最初に乗った日は、冷たい北風が吹いていました。
しばらくするとほぼ毎日、西のほうから工事の音が風に乗って響き渡るようになりました。
工事が大きな街として実を結ぶころ、私は街を離れました。

紆余曲折のあった三田線の50年ですが、決して悪くはなかったと思います。
各駅停車しか走れない構造はスピードをあげられず不利に思えますが、通過待ちで被差別感情をあおられずに済みます。踏切で沿線に迷惑をかけることもありません。

開通当初は巣鴨乗り換え必須でしたが、延伸により山手線への乗り換えをせずに都心方面へ行けることはメリットのひとつになりました。
古びてきた施設も少しずつ改修されて、数年後には待望の8両編成化も決まりました。
老いたとはいえ高島平は今でも一大勢力で、時間帯によってはかなり混雑しますから大きな朗報です。
全線開通後は東急の車両も板橋区に姿を現すようになり、少し彩りが増えてきました。


私は「50年後」など存在しないもの、自分自身生きていないものと思っていただけに、感慨もひとしおです。
次の50年はおそらく、気候変動や大規模災害との戦いになるのでしょう。

いつの日にもそこにはただ風が吹いているように、これからも板橋区民の最も身近で安全な鉄道として「いつの日にもそこにあり続ける」ことを願ってやみません。