2018年10月14日日曜日

板橋駅と赤羽線の記憶(2018年10月記)

2018年10月13日より12月9日まで、赤塚の板橋区立郷土資料館にて

「都営三田線開業50周年記念 いたばし大交通展」

が開催されました。

1998年に新宿区・豊島区・北区と合同で「トラムとメトロ」が開催されて以来20年ぶりの交通機関関連展示で、板橋区単独では初の企画と聞き及んでいます。
江戸時代初期の中山道整備から現代に至るまで400年以上にわたる歴史資料が多数展示されています。

残念なことに、展示や図録の説明には誤りが少なくありません。
「トラムとメトロ」図録における誤記がそのまま受け継がれているケースもみられました。
誤りとはいえないまでも、撮影もしくは制作年代をより絞り込めるはずの資料もありました。


都営三田線の資料が中心と銘打っていますが、他の交通機関の資料もたくさん展示されました。
拝見した中では、国際興業バスの案内テープが最も嬉しかったです。
2018年現在使われているものの二代前のバージョンで、1998年ごろに使用されていたものといいます。最初が上板橋駅発桜台駅行きの「上板01」系統で、いきなり「七軒家公園入口」ですから懐かしさもひとしおです。桜台駅の停留所も最近なくなってしまいました。

池20系統は「板橋本町経由、高島平操車場行き」と案内されています。
都電の板橋本町停留場を受け継ぐ由緒ある名前ですが、地下鉄の板橋本町駅は大和町のほうが近いのではないかという問い合わせが日常的にあったのでしょう、2007年に「上宿」と改称されてしまいました。

木村牧角病院とか、篠遠医院入口とか、今でも広告を出している医療機関がある一方で、既になくなっている飲食店の広告や、バス共通カードの案内など時代を感じさせるものも聞かれました。傘の車内販売も2018年6月限りで終了しています。

他方、志村一里塚停留所がまだなかったり、大東文化大学が広告を出していなかったりなど、今の感覚ではびっくりさせられる事実にも気づかされました。

欲をいえば、ときわ台駅-赤羽駅西口の赤53系統が収録されていればなおよかったところですが、聴けるだけでも貴重なのですからぜいたくは言えません。


東武鉄道百年史に掲載されている、「東上鉄道開通一周年記念」広告(1915年)の現物が見られたこともお得感がありました。5月7日から11日まで記念として”全線汽車半ちん”とPRされています。
スーパーマーケットみたい。

「東京川越間一番近道」と朱書されていて、省線中央線・川越鉄道(現・西武国分寺線および新宿線)の国分寺回りよりも大幅に距離が短いことが強調されています。中央線の国有化前は、甲武鉄道と川越鉄道の相互乗り入れの形で、飯田町-国分寺-所沢-川越(現・本川越駅)直通列車が運転されていました。東上鉄道への免許許諾は、その不便を解消できると政府が認めたこともおそらく効いているのでしょう。


1階の近代化以前の街道についての展示解説によれば、川越街道に関する資料はあまり残されていないということです。上板橋村(現在の弥生町付近)では本陣などの設置はなく、宿泊には名主屋敷を充てていたと説明されています。

行楽や遊興の場としても機能していた板橋宿とは大差があったようで、沿道案内本の中には記載漏れがあるものも残されています。
その本の記述では、「江戸-大ツカ-スカモ-練馬-白子(和光市)-膝折(朝霞)…」

あれれ?

旧川越街道は板橋宿平尾で中山道から分岐して、現在の遊座大山商店街・ハッピーロード大山を経て新道(国道254号)に合流して、仲町で北へ分かれて旧上板橋村中心街を経て下頭橋に至るルートで、大塚や巣鴨はもちろん通りません。
作者が中山道の本線と勘違いしていたか、もしくは王子飛鳥山方面へ向かう道と混同していた可能性が考えられるでしょう。


さて、展示では板橋駅と埼京線についても言及されました。
区の片隅しか通らないとはいえ、現在の板橋区地域で初めての鉄道路線と駅ですから尊重しなければなりません。
かつては「赤羽線」と案内されていて、正式名称は今でも赤羽線であることを知らない人もいらっしゃると存じますゆえ、改めて歴史をおさらいしましょう。

板橋駅は日本鉄道株式会社の品川-赤羽間路線建設・開通に伴い、1885年(明治18年)3月1日に開業しました。
「品川線」と呼ばれていたとされていますが、開業当初は路線に名前をつける発想はまだ定着していなかったとも考えられます。

1903年に池袋-田端間の豊島線が開業した際、日本鉄道は両路線の総称として「山手線」を使い始めました。1906年に国有化、1909年10月の線路名称制定により正式に「山手線」となりました。
同年12月に電化が完成して電車の運転が始まりますが、この時に運転系統が烏森(現・新橋駅)-品川-新宿-池袋-田端-上野および池袋-赤羽となり、後者区間は路線上の”幹”でも実態は”枝”という状態になりました。

そのまま長い時間が経過しましたが、両方とも山手線では何かと不便ということより、現場では早くから「赤羽線」と呼びならわしていました。国鉄は1972年(昭和47年)に「赤羽線」を正式名称としました。当時の旅客営業路線では、徳島の小松島線、大阪の桜島線などに次ぐ短距離路線でした。


東北新幹線の建設が決まると、並行して通勤新線を作ってほしいという要望が沿線の戸田市、浦和市から強く寄せられました。国鉄でも京浜東北線の輸送量が限界に達していたという事情もあり、赤羽-大宮間で東北本線の別線として建設を決めました。

1985年3月14日の東北新幹線大宮-上野間開業からおよそ半年後の9月30日に開通。
同時に川越線の電化も完成しました。
電車は赤羽線と直通運転されるため、正規の赤羽線とは別に「埼京線」という通称が制定されました。


赤羽線の電車は東京北鉄道管理局池袋電車区(北イケ)の所属ですが、山手線(環状)の中古が充当される慣行が長く続いていました。都電志村線運転時代は旧型国電の葡萄色72系です。
志村線廃止翌年の1967年に、カナリアイエローの101系が投入されました。
この時に路線カラーが黄色とされています。
101系では行先幕が「池袋←→赤羽」という表示に固定されていて、いかにも格下感が漂っていました。

103系の投入は1978年で、おそらくこの時期から冷房車が入ったとみられます。
赤羽-大宮間通勤新線が着工されるとウグイス色(黄緑色)の編成が目立つようになり、1984年ごろには3分の2くらいがウグイス色だったと記憶しています。103系では「赤羽線」「池袋」「赤羽」の幕が使われていました。「池袋」は山手線入庫運用と共用です。

1982年ごろ、赤羽線ラインカラーの黄色枠つき琺瑯製駅名板が各駅のホーム柱に取り付けられました。板橋駅のものはいたばし大交通展で展示されていましたが、わが家にもあります。ウグイス色の電車のみになってからも黄色枠のまま赤羽線の名残りを示していましたが、1993年ごろ撤去されました。



1980年代に首都圏の鉄道管理局駅に取り付けられた琺瑯製
駅名板。各駅を通る代表的な列車の色にちなんだカラー枠
がデザインされている、下部にはリコー社の広告板があった。
(本ブログ作者コレクション)

埼京線は山手貨物線の旅客解放第一陣として、1986年3月に新宿まで運転が延長されました。民営化をはさみ、1996年に恵比寿まで、2002年に大崎まで運転区間が延長され、りんかい線との相互直通も始まり現在に至ります。

1989年には205系が投入されました。山手線よりも4年遅れていますが、同線のお古ではなく、濃緑色のラインの車両が充てられています。この時に事実上山手線からの独立が達成されたと言ってよろしいでしょう。翌1990年には早くも103系が引退してしまいました。これは「新幹線の騒音を受忍する代わりに通勤新線を作ってほしい」という地元の要望で開通させたものの、いざ運転が始まると新幹線よりも在来線のほうがうるさいという現象が発生したため、その対応と言われています。

板橋駅はその流れの中、歴史の中に閉じこもるかのようにいつでもひっそりとしたたたずまいを見せていました。日本鉄道以来貨物扱いも行われてきましたが、1999年に廃止されています。
しかし2017年ごろから再開発が始まり、駅舎のバリアフリー化に伴うリニューアル工事が行われていると聞き及んでいます。周辺地域にはタワーマンション(!)建設計画もあるそうです。


本ブログ筆者は、若い頃「板橋区から出てみたい」一心だったため、赤羽線の写真はほとんど撮影していません。カナリアイエローの103系も気がついたらチャンスを逸してしまいました。
しかしタワーマンションで激変と聞けば、粗末な写真でも紹介する価値があるかもしれません。
埼京線開通前後の板橋駅・浮間舟渡駅近辺の様子を撮影した写真です。
鉄道写真が得意な人からはお話にならない腕前ですがご容赦ください。
フィルムスキャナから起こしているため、ネガの傷がそのまま反映されています。


国鉄の駅名標。
駅構内は板橋区・北区・豊島区にまたがるが、
駅本屋所在位置を取って板橋区の駅とされている。
(1984年10月)


西口(板橋区側)改札。
民営化後だが、ほぼ国鉄の様式である。
右側の精算所下には小さな池が作られていた。
(1990年)

板橋駅舎。右端のシャッターは荷物扱い所跡。
後年ハンバーガーショップがテナントとして入った。
(1990年)

駅前ロータリーに設置されている「板橋駅の碑」。
開業100年の1985年設置だが、漢文読み下し調の文章である。
(1990年)



板橋駅ホーム。セメント輸送の無蓋車の姿がみられる。
右上には「こんどの電車は じゅうじょう を出ました」の電光案内表示。
左奥遠くにサンシャインシティを望む。
(1993年ごろ)


旧中山道の踏切。国鉄は「仲仙道」と記していた。
現在も赤羽線表示のある踏切名標が使われている。
(1993年ごろ)


旧中山道踏切 赤羽方を望む。
奥の陸橋が新中山道(国道17号)。
1977年まで、この踏切を通る路線バスが運転されていた。
(1993年ごろ)


板橋区加賀・北区滝野川の境界を走る103系電車。
国道17号陸橋上から撮影。
(1990年10月)


開業当初は、池袋・赤羽・大宮および新規開業駅に
反転フリップ式の案内表示機が設置された。
テレビ音楽番組「ザ・ベストテン」で使われていたアレと
いえばわかりやすいだろうか。
(当時の国鉄の財政事情からか、板橋駅は無視された。)
右側には次に到着する列車の現在位置が表示されていて、
北赤羽、赤羽、十条、板橋…とパタパタ動くさまは
見ものだった。(池袋駅、1985年10月)

「いたばし大交通展」で展示された電化記念ヘッドマーク
(戸田市郷土博物館所蔵)をつけた103系電車。
(池袋駅、1985年10月)


浮間舟渡駅。舟渡一丁目の土地をかなり使っているが、
駅本屋の所在位置が北区浮間のため、北区の駅とされている。
(1990年3月)


埼京線の新規開業駅では、路線カラーの緑色とは別に
駅ごとのカラーが定められていた。(1990年3月)


浮間舟渡駅北 舟渡一丁目を走行する103系と
東北新幹線200系。(1990年3月)