2016年10月15日土曜日

街角の都電写真&映像2016



「都内某所に、奇妙な都電写真が掲示されている。」


かねてから耳に入れていた噂を確かめるため、2016年夏のある日出かけてみました。近くには「ポケモンGo」のスポットがあるようで、スマホをかざしている若い人たちにもまれつつ人ごみを抜けてたどりついた先は、私が幼い頃電車の窓から幾度も眺めていた、ある停留場の跡地。おそらくツツジと思われる植栽の脇に、その写真はありました。


某停留場跡にて。よほどの意図を持って画像処理しないと
作れないはずの写真(?)。”真を写して”いない。(2016年8月)


都電に鏡像異性体(光学異性体)があるとは、この年齢になるまで寡聞にして存じ上げませんでした。系統板が向かって左にあり、電車から見れば右側ですから、この電車は右旋性でしょうか?通常の都電車両は左旋性ということになります。

そんな、アホな。
よく見れば、完全な鏡像体ではありません。系統板の「20」をはじめ、江戸川橋や6230などの文字は普通に読めます。背後の店舗の文字も裏返っていません。系統板と「乗降者優先」の表示だけを実際とは逆に配置していることになります。正確にはジアステレオマーに例えられるでしょうか。

有機化学ネタはこれくらいにいたしましょう。(わかりづらいとおっしゃる方はWikipediaなどを参考になさってください。)

おそらくデジタル画像処理の結果なのでしょうが、仮にフィルムを裏返し状態でスキャンしたとしても、左右反転だけ行えば正しい画像が得られるはずです。この写真は改竄の意図を持って、不必要にいじりすぎた結果としか思えません。

近くには、かつて軌道が敷かれていた場所に荒川線から持ってきた7500形が展示されています。柵で覆い、よからぬことをする連中の侵入を防いでいます。中はイベントなどの際に限定で公開している模様です。今のところはきれいな状態ですから、地元自治体は整備に予算をつけていて、丁寧に保存していこうという意思が十分うかがえます。

しかし、私は少なからず違和感を持ちました。7500形がこの路線で実際に使われたことはありません。ワンマン化、冷房搭載、荒川線カラーならばなおのことです。都電と名のつく車両ならば何でも持ってくればよいというものではありません。志村線とは別の意味で、歴史をねじまげる元にもなりかねません。

交通局は都電の廃止に際して、大量の余剰車両をひと目につく場所で解体して無残な姿を平気でさらしていたといいます。それを見かけた当時の女の子が、あまりにもかわいそうと新聞に投稿したというお話も読んだことがあります。(「都電の消えた街 下町編」掲載 田中登さん寄稿記事による)この路線で使われていた車両も同じ運命をたどり、とうの昔に全て姿を消しているはずです。その行為を直視する姿勢こそが求められていると思えてなりません。

鉄道車両の保存には、古代から近世までの文化財保存にも決して劣らないほどの高度な技術が継続的に必要とされます。そのための学会や学術雑誌ができていてもおかしくありません。自治体や企業、個人の思いつきで持ってきても、十数年でぼろぼろになってしまいます。欲しいと望んだ人に悪意がないだけに、よけい哀れでなりません。鏡像異性体もどきジアステレオマー都電の写真を掲示して平気でいる地元の人たちは、失礼ながらその覚悟をお持ちでしょうか。

この近くには、PCCカーの5501が長い間雨ざらしで放置されていました。交通局の都電に対するスタンスがよくうかがえるエピソードです。後年荒川車庫に引き取られ、ようやくきれいに整備されて「都電おもいで広場」に飾られています。中に入ると座席は全て撤去されていて、和田岬線のオハフ64を思い起こします。ジオラマ、高松吉太郎さん撮影の写真、道路渋滞で身動きが取れない状態を撮影したニュース映像、銀座四丁目や築地などの停留場標、雑誌や絵本などが展示されています。

「親が子にできる最後の教育は、老いて衰えた姿を見せること。」

という考え方もあります。都電のみならず、保存鉄道車両は現役時代整備補修に携わった現場の人たちの並々ならぬ努力と苦労を実感することにこそ意義があるのでしょう。

お口直しとして、きちんとデジタル化された都電写真もお目にかけましょう。

「ぽこぺん談話室」掲載の情報で、池袋駅北の東武線路脇フェンスにて、池袋に路線を持つ鉄道会社による写真展が開催されていることを把握して、早速出かけて参りました。



豊島区西池袋一丁目展示写真より。(2016年8月)


ご覧の通り、電車背後の西武百貨店には日本万国博覧会開会日(1970314日)までの残り日数を表示する看板が掲げられています。個人的には臨時20系統の赤い数字系統板と並んでいる場面ならばさらに嬉しいのですが、写真の下には英文も含めた説明が掲載されています。「20」をつけた電車が写っていると説明がややこしくなってしまうのでしょう。

林順信さんの著書では「臨時20系統は日曜祝日運転」と記されていて、私自身も乗せてもらう日はいつも日曜だったためそのまま信じていましたが、あるブログに掲載されている他の写真で、万国博開会日までの残り日数表示から平日にも運転されていたことが確認できます。「ぽこぺん談話室」でも土曜日に乗車したと証言なされている方がおいででした。臨時20系統池袋行きは古くからの歴史を持ち、私でもよく覚えているほど頻繁に運転されていました。その本数は2系統の比ではなかったはずです。それほどの日常的な運用が交通局の「電車案内図」に一度も掲載されなかったことは今なお大きな謎です。他の臨時系統は「電車案内図」に掲載されることも少なくありませんでした。

この写真を見に行った前日、ニュースで渋谷パルコの改築一時閉店が取り上げられました。いつの時代も「とんがった」広告発信をしていたと紹介されていましたが、1号店である池袋パルコは今でも写真の丸物デパートの建物をそのまま使い続けているあたりに、土地柄の差を感じた次第です。

この写真展に最も熱意を持っていた会社は西武鉄道で、沿線の観光地案内に加えて、1960年代の池袋駅ホームも紹介していました。続いて交通局で、この写真のほか荒川線化前の32系統や六又交差点信号塔とトロリーバスの写真も紹介しています。東京地下鉄も、現在の車両中心ではありましたが丸ノ内線500形お別れ運転の写真も忘れずに紹介していました。このわずか20日後にはあの忌まわしい事件が起きて、写真どころではなくなったことをよく覚えています。

残りの2社は残念ながらあの時代についてはあまり思い出したくない様子がうかがえました。池袋駅の片隅で肩身を小さくしていた「池袋赤羽」の旧型72系やCanary Color103系、赤地に白い丸という日の丸の逆デザインに「池袋|川越市」と記した板を掲げて走る、くすんだクリーム色の7800系なども紹介していただければ満点でした。

最後に、高度成長期の都電をはじめ路面交通の実情を取材したドキュメンタリー番組を紹介します。同じく「ぽこぺん談話室」から情報を得ました。

1963年(昭和38年)6月に放送された「現代の記録・停留所」。
2007年にBSプレミアムで「春・瀬戸内海」とともに再放送されています。
「ぽこぺん談話室」ではその際に盛り上がりを見せていました。

この番組はNHK番組公開ライブラリーに登録されていて、埼玉県川口市のNHKアーカイブス、港区愛宕の放送博物館、渋谷区神南の放送センターはじめ各地の放送局で、開館時間内ならばいつでも無料で見ることができます。「春・瀬戸内海」で登録されていますが、「停留所」で検索するとすぐに見つかります。

冒頭で19系統(撮影場所不明)が少し映りますが、前半は岡山県の山間集落を走るバスや、バス停を世間話をする場所として利用している人たち、郵便物のバス輸送、さらに岡山市の岡山電気軌道について紹介されています。

このブログでは路面電車について「停留場」、バスについて「停留所」と表記を分けていますが、番組では「政府の決めた堅苦しい分け方にこだわることなく、全て停留所としたい。」と最初に宣言していました。

「路面電車を持つことが、県庁所在地のステータスとされていた時代もありました。」

にはうならされます。やがて「国体をやるのだからみっともない」などの理由で追い出されるのですが。

後半は都電と、一部東急玉川線の映像ですが今の目で見ると「神がかり」的な取材地選択をしています。登場する場所は

・上野駅前(24系統)
・錦糸町駅前(28系統および旧型国電72系の音)
・指ヶ谷町(2系統のすれ違いおよび18系統神田橋行き)
・三ノ輪橋(27系統と地元住民、子供)
・町屋一丁目(27系統)
・志茂町三丁目(27系統)
・竪川鉄橋(29系統)
・水神森(29系統)
・砂町線大島専用軌道(29系統)
・西荒川終点(25系統)
・鍋屋横丁(14系統。昼間と終電近い深夜)

後年の都電研究の世界において「濃い」とみなされる場所で占められています。
偶然か、制作スタッフに知っていた人がいたかはわかりませんが、王子電気軌道、城東電気軌道、西武鉄道新宿軌道線と、買収路線がほぼひと通り取り上げられています。
(注)ほかに玉川電気軌道から委託を経て買収した天現寺橋線・中目黒線がありますが、この番組では取り上げられていません。

番組の企画・取材時点では全線撤去計画も、三ノ輪橋停留場の路線を後年まで残す方針に改めることも、まだ何も決まっていません。はるか先のお話です。現在でも営業している岡山電軌西大寺停留場を選んでいるあたりにも先見の明が感じられます。

当時のNHKは内幸町(田村町一丁目停留場付近)にあったため、職員の中に「2番は朝しか走らない」と知っていた人がいた可能性はあります。停留場標に「白山曙町行き通過予定時刻」が記されていたとも考えられます。白山方面から通勤している人が、大体指ヶ谷のあたりで2番がすれちがうと経験的に覚えているため、できたらそれを撮りたい、しかしこのごろは自動車が軌道を通るから遅れるかもしれない、うまく撮影できればラッキーという心積もりだったのでしょうか。杉並線廃止方針は、半年前の時点で報道されていたでしょうか。

さらに、平日朝の通勤ラッシュ時間帯に取材カメラを出しています。
指ヶ谷町は雨が強く降る日。
季節感も考えたでしょうが、それよりも「一番悪い通勤条件」を記録しておきたいと企図したのでしょう。不動産下見のポイントでもあります。

白山通りは狭いため安全地帯がなく、路上にすさまじいまでの人の列ができています。その脇を車が水しぶきをあげながら通り過ぎます。「安全地帯は道路を横断する人の休息所としても利用されているが、ここではそれさえもできない。」という旨の説明がなされています。

やってきた18番の電車は他人を押しつぶさないと乗ることができないほどの超満員。動き始めてから係員が扉を完全に閉めます。何ともワイルドな、一日乗車数上位路線の実態でした。後年の「エースナンバー35番」の時代や、代替バスの時代も大差なかったでしょう。

鉄道趣味の分野で当時活躍していた方々はご自身のお仕事に向かっていたはずで、決してカメラを向けることのない時間帯です。従って、現在見られる都電写真にはほとんど実態が反映されていません。

この映像を見れば「路面電車など遅くて邪魔だからどかしてほしい」と主張していた人たちの心境にも及びがつきます。また、軌道内自動車走行許可がどれほど深いダメージを与えたかが具体的に把握できます。

順調に進むからこそ、窒息しそうな超満員の車内でも乗客は何とか辛抱できるのであり、渋滞や信号待ちなどでいつ進めるかわからない状況になると、もう到底耐えられないと怒りを燃やし始めたに違いありません。その感覚は「風街ろまん」まで含めて、当時10代から幼児、もしくは生まれたばかりだった世代の人には実感が及ばないでしょう。

私たちは、すいている時間帯の都電しか知りません。
幼いがゆえの特権でもあります。
電車の写真を撮る大人たちは、休日に余裕を持ってやってきます。
この条件を勘案しないと、「路面電車をなくしたい」という提案がなされた際に雪崩を打つように賛同が広まった心理は理解できないでしょう。

系統番号の都電運転当時幼かった世代で、今でも当時の都電に関心をお持ちの方をはじめ、荒川線しか知りえない世代の方にも「教材」として一度目を通していただくことをお勧めします。

電車が去った後、雨の降りしきる白山通りの軌道の姿には胸打たれるものがありました。

雨はこわれたピアノさ

で始まる、後年の松本隆さんの詞(バチェラー・ガール)を思い出すとともに、遠い日のあやとりの糸やビーズのキラキラ、「点取占い」の古めかしい活字、色ごとに微妙にずれた印刷の子供雑誌カラーページや付録、「暮しの手帖」バックナンバーの表紙絵や文字などが断片的によみがえってきました。幼子が暇そうに過ごしている時間、大人たちは動かない電車に苛立ちを募らせながら勤務先に向かっていたのでしょう。

錦糸町駅前の映像では、8000形のアクリル製系統板を入れる位置に「28」のツボ型を無理に取り付けている様子も認められました。あれは廃止が迫ったころ部品不足を補うための応急措置と見ていましたが、全盛期から行われていたとは初めて知りました。交通局が錦糸堀電車営業所にアクリル板新調の予算をつけてくれなかったからでしょうが、あれでは走行中にワイヤが切れて落下して、電車がスリップするか、通行人や自動車を傷つけかねません。現在の鉄道やエレベーター、回転ドアの類にもいえますが、何か事故が起こらない限り対策を取らない様子を目にするにつけ、人間の叡智の限界を思います。

映像に登場する成人男性は大多数がくわえ煙草。それが当たり前の時代でした。取材側もおそらく同じで、咎められることなど全くなかったでしょう。

三ノ輪橋停留場でゴム飛びやキャッチボールをしている78歳ぐらいの子供は、生きていれば60歳前後?学生服姿で通学する人は60代後半?キャッチボールの相手のお兄さんは70代?既にそこまでの時間が経過しています。自分の姿が公共放送局に保存されているなど気づいていない人も少なくないでしょう。


同時に軌道が生活の場として溶け込み、運転側も歩行や遊びを黙認する慣習が長年続いていたならば、ワンマン化の際「今後、軌道には絶対入らないようにしてください。」と住民に啓蒙する作業には並々ならぬ苦労があっただろうと想像できます。