2016年10月13日木曜日

ああ、踏切固定化(2018年5月記)

改修工事完成間近の某駅舎。(2018年4月)

2017年11月ごろより、板橋区内某所で大がかりな工事が始まりました。それまで営業していたテナントが軒並み閉店して養生シートに覆われると、ついに念願の安全な歩道の建設に着手してもらえるのだろうかと期待しつつも、あの鉄道会社がまさか…と、一抹の不安も胸をよぎりました。

年が明けて、養生シートの合間から真新しい大谷石の建造物と青い瓦が見られるようになり、胸騒ぎはあいにく的中してしまいました。

2018年4月にはシートの大部分がはずされて、上写真の建造物が姿を現してしまいました。

ショックでした。
正直、悔しいです。


鉄道会社がこのような建造物を今の時代にあえて拵えるということは、住民の安全な暮らしのためには必要不可欠な「東22号および東23号踏切道の撤去」、さらには何らかの方法による線路と道路交差の立体化など一切行うつもりはないという明確な意思表示であると受け取れます。地域住民を小馬鹿にするような、河川を挟んですぐの場所にある隣駅における長々とした通過待ち、埼玉県から来る優等列車を破裂しそうなまでに詰め込むダイヤ設定による長大遮断時間も改める気などさらさらないのでしょう。

同時に、死者を出す踏切事故まで経験しながらも何十年と手をこまねき、自称「独立」していった隣区の鉄道路線に大差をつけられても一向に強く言えない板橋区行政の力量レベルをそのまま示すものとみなしています。

夜にはライトアップもあります。

夕暮れの街角、ゆかしき灯りともる背後では冷徹な踏切警報音が永続的に鳴り続ける。(2018年4月)

3灯写っている右側の照明は建物の端まで十数灯並んでいて、その下にはパネル10枚が取り付けられています。現時点ではただの金属板ですが、本ブログの制作でもお世話になったブログ「板橋ハ晴天ナリ。」の情報によれば、今後駅や住宅地の歴史を解説した展示を行うと予定といいます。

まだ広告や看板類で埋め尽くされる前に、見物に出かけました。




外から見える範囲ではこのような感じです。
「板橋ハ晴天ナリ。」の解説によれば、開業当初の駅舎はこの鉄道会社の「南宇都宮駅」の設計図に基づいて建てられたもので、建築家ライト風の意匠を持っていたということです。その後各所でリフォームやマイナーチェンジが行われてきましたが、今回の工事で建て替えを行い、開業当初の設計をなるべく忠実に再現するということです。


このお話もショッキングでした。

失礼ながらほとんど各駅停車のみ、4両編成が20分に1本停車する栃木県の駅と、10両編成の優等電車が次から次から通過していき、構内で先行列車の隣駅停車にあわせるため乱暴に減速して東22号・東23号踏切道をふさぐことが常態化している板橋区内の駅を同列に扱わないでいただきたかったです。板橋区の駅は、クラシカルな建築のキャパシティではもはや到底さばき切れなくなっています。




 
筆者が見た限りでは、改札口を想定していると思われるスペースの上部に設けられている明かり取りの窓などが、神奈川県の東海道本線大磯駅を思い出させました。大磯はクラシカルな駅舎のよく似合う街で、筆者が訪れていた頃は明かり取り窓の下に掲げられた発車時刻表に静岡、浜松、大垣などの駅名が並び、西への憧れをかきたてていました。

大磯駅は正面から見て左側に駅事務室があり、かつてはみどりの窓口が設置されていました。対して今回の駅は左側に大きな窓を取っています。一見おしゃれに見えますが、やがて左隣には商業施設ビルが建設されるそうで、すぐにふさがれて光は届かなくなってしまうのでしょう。

寝台特急・急行列車こそほとんどつぶされたものの、東海道本線には今なおたくさんの列車が行きかいます。大磯には貨物列車線もあり、昼夜問わず長大編成列車が多数通過していきます。

しかし、線路とクロスする周辺の道路は全てオーバーパスかアンダーパスで立体化されていて、踏切は近くにありません。たとえ線路自体を高架や地下に移設しなくても、やる気さえあれば安全な道はできるのです。


 
板橋区の住宅街にある駅と比べるのは失礼かもしれませんが、東京駅も「戦災で焼失した、大正時代のドーム建築を復元させる」という方針のもと、開業100年の2014年に当時の設計図に基づき、忠実に再現されたドーム建築がお目見えしました。しかし実際に出かけてみると、かなり小さげでどこか縮こまっているように見えてしまいます。八重洲側に超高層建築が数棟建てられて上空を塞ぎ、視界を圧迫しているためです。それならば戦後に公社日本国有鉄道が作った、元の台形屋根で十分ではありませんか。大正時代の絵葉書を見てください。駅舎ドームの背後には何もなく、ただ青空のみが大きく広がっています。だからこそ見栄えするということに、鉄道会社の人はあいにく誰一人としてお気づきにならなかったようです。

 
「借景」という言葉がありますが、周辺地域からどのような景観を借りてこられるかによって、建造物の与える印象は異なります。今の時代の基準構造から離れて、歴史的な味わいを匂わせる種類の建物にはとりわけ借景の内容に気を払う必要があります。

今回板橋区内に出現した建築についても、写真の通り古ぼけた雑居ビルが借景になっています。この環境で駅舎だけ昔を忠実に再現してもあまり意味をなしません。地元の人は景観、景観と二言目には騒ぎ立てますが、理想の景観は地域内だけでは作れません。地域に隣接する土地の協力あってこそ成し遂げられるという基本にお気づきになられなかったのは残念なことでした。

隣接地域にはそこなりの生活があり、言い分もあるはずです。いくら古く見えても、そこで暮らしを営む人にとってはかけがえのない物件です。
昔の品よい景観はもう戻らないのならば、それは「風街の記憶」と割り切って、新たな発想のもとで駅舎建築を考えてほしかったです。


筆者の個人的な見方ですが、品川区の東急電鉄武蔵小山駅の改築がよきモデルになるのではないかと考えていました。以前はこの駅付近よりもはるかに狭隘で、線路ぎりぎりまで商店や家屋が迫っていて、立体化など到底できそうにないふんいきでしたが、鉄道会社、行政、地元住民が「安全で暮らしやすい街と交通機関を作り上げる」という目標を共有化して、待避設備つき2面4線ホームを地下に完成させました。板橋区にはなぜできないのでしょうか。



 
筆者は若い頃、北海道から九州まで様々な駅舎を見て参りました。
クラシカルなたたずまいが似合う街に機能優先の橋上駅舎を作っても似合いません。
それとは逆に、シンプルで機能優先の駅舎でも街のニーズをきちんとくみとっていると肌で感じられるところには好感が持てました。

今の板橋区は、あいにくクラシカルはもう似合いません。住民が安全安心に生活できて、いたずらに待たされることなくスムーズに移動できる交通機関施設こそが最も似合うと信じています。板橋区や鉄道会社に過大な期待をかけるほうが野暮なのかもしれませんが、今回の選択はやはり無念でなりません。



<2018年8月・2019年5月追記>

駅舎は2018年5月30日に供用が始まりました。無力感に苛まれました。
この鉄道会社でも、近年坂戸や男衾などで駅舎改築の際に自由通路を建設しました。
立体化ではありませんが、少なくとも歩行者は踏切を通らずに線路を越えることができ、地域住民の安全な交通に大きく寄与します。

なのにどうして、どうして板橋区のこの街は、いつまでも踏切に甘んじなくてはならないのでしょうか。

悔しいやら、情けないやらで、言葉になりません。
泣きたいほどに絶望しています。

この思いは鉄道会社にも、板橋区にも、この駅舎建設を推進するロビー活動を行った地元高級住宅地住民団体にも届くことはないのでしょうか。


2019年4月に行われた区長・区議会議員選挙でも、「区内踏切の早期撤去に全力を挙げる」と公約する候補者は、ただのひとりもいらっしゃいませんでした。その一方で、2019年3月のダイヤ改定では早朝時間帯に回送列車が増やされ、さらに踏切遮断時間が増してしまいました。

この件に関しては、誰ひとり信じられる人がいません。
駅舎落成以降、私は環七のアンダーパスを通り、駅前を避けて歩いています。