この本は板橋区立中央図書館に所蔵されているものを閲覧しました。
☆名門出版社の威信
タイトルだけ見ると、東京都政施行前の戦前期にしぼって紹介しているような印象になりますが、戦後の都電についても多く言及されています。「都電百景百話」の出現にさまざまな意味で驚愕させられた名門出版社が、その威信をかける形で企画を立てたであろうことが、手に取るだけで伝わってきます。
ハードカバーの大判本。
今の目では活字ともどもいかにも古ぼけて見えますが、当時としてはおそらく最高級の印刷と装丁が施されています。林さんもずいぶん勉強を重ねられたようで、「都電百景百話」シリーズでは詰めが不足していた歴史・データ面の粗をできる限り改めようと努力された跡がうかがえます。タイトルにされている大正・昭和初期の東京市営時代のみならず、明治の民営時代や戦後の都電についても紹介されています。
その代わり、林さんの主義主張はあまり文面に反映させていません。「都電の消えた街」を出版してすぐの企画でもあり、こちらでは一般向けに、長く保存できる本にしたいと考えたものと思われます。
☆「和魂洋才」は額絵から
前半は明治・大正時代に多く描かれた石版画(額絵)の紹介。
市内電車と東京名所を題材にした大判の石版画は当時人気の東京みやげで、額に入れて飾られることが多かったため「額絵」といわれていました。新橋周辺など、同時期に撮影された写真とほぼ同じように細かく描写している絵がある一方、富士山だけはほとんどの絵で実際よりもはるかに大きく描かれている点が特徴です。
江戸時代の浮世絵や錦絵とは一線を画しつつも、完全に洋画の技法にしてしまうとかえって親しみがわきづらくなると考えたのでしょう、和洋折衷のような仕上がりです。このあたり私の世代が親しんだ後年の歌謡ポップスとも一脈通じるところがあり、「和魂洋才」は日本人を最も特徴づける伝統であると、改めて実感できました。
万世橋駅ができると、日露戦争で有名になった広瀬武夫中佐と杉野兵曹長の大きな銅像がひときわ目立つ駅前広場を題材にした額絵が描かれます。やがて震災にみまわれ、銅像の周囲が炎に包まれる姿も記録されています。震災については上野、浅草、銀座などの大火の様子も描かれていて、額絵は報道写真の先駆けともいえる役割も担っていました。
額絵の流行は昭和初期までで、その頃から写真が普及してきたため作られなくなったといいます。
☆城東電車からの視点
明治・大正時代の市電備品・グッズコレクションにも多くのページを割いています。
大正時代の市電は乗り換え制度があったため、車庫ごとに地図式の乗車券を用意していました。乗車日はあらかじめ印刷してあり、国鉄などの硬券みたいに発売時に刻印するタイプではありません。市内電車では狭い車内で多くの乗客に切符を売るため、現場刻印は不可能です。
その中に「16.1.8」と印刷された乗車券があります。
「大正16年1月8日乗車用」のことです。
もちろんこの日付は実在しません。昭和2年(1927年)です。
当時の電気局では、前月半ばごろに1日から月末までに使う乗車券を一括して印刷所に発注していたといいます。昭和改元は1926年12月25日だったため、12月中旬に発注した時点では当然大正はまだ続くという暗黙の了解があったはずです。
電気局にとっては、事実上1927年1月31日まで「大正16年」でした。2月1日から「昭和2年」に改元されたともいえます。
都電の定期乗車券は荒川線になって数年たつまでの長い間、月ごとに1日~末日単位で発売されていたといいます。今の人ならば「2月割引を作ってほしい」と文句をつけるところでしょうが。この慣習は、おそらく市営化当初に契約した乗車券類印刷所において、作業が煩雑になりすぎないよう、1日から末日までの版組をあらかじめ用意していたことによるものだろうと、「大正16年の乗車券」エピソードから推定されます。
王子電軌や城東電軌では、当時流行の鳥瞰図式路線案内パンフレットを作っていました。
城東電軌は北側を手前、南の東京湾側を奥に描くデザインです。
都電の本ではほとんどにおいて、隅のほうのページに古ぼけた小さな電車の冴えない写真が掲載されていて、かげろうのような印象の刷り込みに加えて、「名前は城東でも乗り心地は上等とはいいがたい」などの経験者コメントまで紹介されることが常の一之江線(戦後の26系統)が中央に堂々と記されていて、右側に砂町線などを従える構図です。このレイアウトには胸のすくものがありました。野尻さんのおっしゃる「まま子」ゆえに、独自の視点によるパンフレット制作も可能だったのでしょう。
電車双六、電車唱歌、明治末ごろの一般女性による乗車記など、子供向け書籍に長年の実績と自負を持つ出版社ならではの資料も充実させています。
☆後年の都電本にもたらした影響
戦後篇では、主に林さんが撮影した写真を各系統1枚にしぼって選び、簡単な解説を載せています。「続・都電百景百話」と同じく、14・18・41系統は諸河さんの写真を使っています。
18系統の写真は、ひと目みるだけで平尾交番の近くから板橋駅前停留場に向けて撮影したことがわかりますが、「滝野川五丁目」と大きな文字で記されています。
この本には、地下鉄が渋谷駅に到着する直前に車内から渋谷駅前の都電ターミナルを俯瞰撮影した写真が大きく掲載されています。後年「都電が走った街今昔」執筆の際、林さんはこの写真と勘違いして、東急文化会館に連絡する通路から撮影したより低いアングルの写真を対比撮影担当のカメラマンに渡して、地下鉄車内で首をひねらせた模様です。
後半は資料篇で、まず林さんによる東京の路面電車慨史がかなりの紙数を取って載せられています。この文章でも、東上鉄道の「池袋-田面沢」を「池袋-飯能」と取り違えて記されていました。
系統番号の変遷は井口悦男さんによる整理研究に基づいて、1914年(大正3年)に初めて車庫別系統番号が採用された際の路線を軸として、同一もしくは類似ルートを使う系統における後年の番号変遷を一覧表にする形式をとっています。これは林さんにとって、当時最大限の工夫だったものと思われます。志村線は巣鴨車庫路線の延長とみなして、巣鴨の欄の一番下におさめている一方、後年既存の軌道を使い新たに設定された系統は担当車庫にかかわらず左のほうにまとめて載せられていました。
戦後の系統単位で、軌道開通日一覧を示した表も掲載されています。
1962年(昭和37年)に交通局広報室が作った資料に基づくと注記がありますが…。
18系統については、西巣鴨から板橋十丁目までが「昭和4年5月27日」と記されていて、十数年続いた下板橋終点時代がまるで無視されています。その十数年が沿線にどれほど重くのしかかっていたかは、本ブログ別項で既に詳しく述べました。
実子であるにもかかわらず「まま子扱い」は何も野尻さんに始まったものではありません。”親”の交通局公認だったのです。
この表の右下に、問題の「42.8.31 18 志村坂上-神田橋 廃止」と記された廃止一覧表が掲載されています。もちろん上記の広報室制作資料とは別に作られたはずの表です。
ますます気が滅入って参ります。
「東京・市電と街並み」が後の都電書籍に与えた影響は、林さんの他の著作の比ではありません。「おもいでの都電」は、写真こそ入れ替えているものの、この本のダイジェスト版とみなして差し支えないでしょう。それゆえにあの表もそのまま掲載されたとみられます。
多くの額絵や乗車券コレクションは「わが街 わが都電」に応用されています。版形もハードカバーもあきらかに「東京・市電と街並み」の影響が感じ取れます。交通局公式記録の「わが街 わが都電」は、林さんの本ではほとんど取り上げられていない、戦中戦後の様子を記録した写真を加えることで、東京の路面電車の歴史紹介を完成させたといえるでしょう。
21世紀に入り、新たに書き下ろされたイカロス出版の都電本でも、歴史概説の原稿は林さんの文章が根底にあり、その上に新たな知見を加えた構成であると見抜けます。
それだけの強い影響力を持つ本にして、志村線はあの程度の扱いです。
やはりその地域に暮らした経験のある人でないと、納得の行くものは作れないと改めて感じられた一冊でした。