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2016年11月13日日曜日

都電本ガイド(1)都電春秋 ●



(野尻泰彦・著、伸光社、1969年)

この章では、私が現在までに購入した都電関連書籍について、畏れながらもささやかな評論を試みたく存じます。

・ 原則として、志村線について言及する記事もしくは写真が掲載されている本を対象にします。荒川線のみについて取り上げている本はもちろん、系統番号時代の都電を扱っていても、志村線についての言及がないものは対象外とします。

・ 一般販売の商用書籍のほか、交通局発行のオフィシャル写真集、展示会図録も対象とします。

・ 都電が書籍のメインテーマでなくとも、板橋区の郷土写真集など、都電志村線の写真が多数掲載されて、解説がつけられている本は対象とします。

☆「都電本」の起源をさぐる

「都電春秋」は、都電撤去計画進行中の1969年(昭和44年)に発行された、都電を軸として語る形式の東京歴史・名所案内本です。1998年に開かれた「トラムとメトロ」展の頃に古書で購入したと記憶しています。

私が20169月までに調べたうちでは、最も古い「都電の本」です。カバーの折り返しを参照すると、著者の野尻泰彦さんはそれ以前にも都電に関する書籍を執筆していたようですが、いつ頃出版され、どのような内容かは皆目見当がつきません。

「都電春秋」や、それに先んじた野尻さんの本を「都電本」の起源とすることは妥当でしょうか。

車両の形状や構造などメカニックな面、運転形態、営業の歴史、写真撮影などいわゆる「鉄道趣味」に関する事項については、それこそ高松吉太郎さん、吉川文夫さんなどをはじめ、鉄道友の会系の「神様」のような方々が戦後まもない頃から随時雑誌に掲載していて、撤去計画実施時代には相当の数にのぼっていたことでしょう。しかしその資料を単行本書籍にまとめて買ってもらう試みは「都電春秋」以前、すなわち廃止が具体化される前には、果たして行われていたでしょうか。その時代の「鉄道趣味本」はほとんどが国鉄関係だったのではないかと想像されます。都電に関しては動力機械として電車をみなす解説本か、あるいは実際に就職しようとする人向けの本が専門書の分野で作られていた程度かもしれません。古書でもほとんどが国鉄関係の本ですから、立証は難しそうです。

他方、鉄道に対して「旅する」面からアプローチする試みは1970年(昭和45年)ごろから見られるようになりました。雑誌「旅と鉄道」の創刊は1971年(昭和46年)で、SLブームが起こり、ようやくそれまでのスピード、効率一辺倒の考え方を見直そうとする流れが始まりました。しかし都電はじめ路面電車の“復権”には、まだかなりの時間を要しました。

その時代背景を考えると、「都電春秋」には先見の明があったことになります。都電が最も悪者扱いされていた頃に、その時点から十数年前のまだのどかな表情を見せていた都電や東京の街の写真とエッセイで構成される本発行するという決定は、出版社の人が「この世には採算性や経済効率よりも大切なものがある」という信念を持っていた証でしょう。


☆鋭くえぐる「春秋メモ」

本書は章立ての面でも先見性に優れています。江戸名所図会方式を取りながら完全地域別ではなく、緑陰、水辺(今でいえばウォーターフロントですね)、坂道、雨の日、都大路、江戸以来の歴史ある街並み、橋梁、ゼロメートル地帯(この言葉も古びてきましたが、工業地帯とみなしてよろしいでしょう)、終点風景といったテーマ選定をしています。この工夫により、本書は都電書籍というよりもむしろその時代における「古きよき東京の記録」的な側面を強めています。

まだそうきれいな本が作れない時代で、グラビアなど大変高価でしたから、今の目で写真や手書きの図を評してはお気の毒でしょう。都電を街風景の一部とする写真を多く選定しつつも、8000形があまり運転されない系統における同形式の姿や、2系統、550165017500形など都電ファンの「レア感」にもしっかり応えているあたりがさすがです。

私の目には、旧日大講堂(戦前の両国国技館)を背景にして両国橋を渡る12系統や、九段の灯台(高燈篭)、青山墓地下の7系統専用軌道などが印象的でした。不忍池周辺も、私の知っている時代よりさらに「郊外鉄道的」です。
林順信さんや諸河久さんの写真よりも街並みがどこかすっきりしていて、1960年代前半(昭和30年代後半)のわずか5年の重さが胸に迫ります。

文章には、昭和の学校の社会科で日本史を学んだ人ならばおなじみのはずの人名が数多登場します。太田道潅の千代田築城、徳川の江戸開府から始まり、進駐軍占領時代まで様々なエピソードが披露されています。

教科書に載せられる歴史のみならず、当時は言及さえはばかられる空気が残っていたであろう、歓楽街の脇に作られていた「投げ込み寺」についても取り上げ、文字通り「清濁併せ呑む」歴史観を説いています。野尻さんは高校などで日本史の教師をなされていたそうで、「学校の授業では教えられない、東京の社会科」をこの本で目指したのかもしれません。

各記事の隅には「春秋メモ」という、撮影地点付近にまつわるコメントが掲載されています。最初のほうは単に周囲の事物の存在を列記する文章が多いものの、読み進めていくにつれて次第に鋭い視点があらわになっていきます。

増上寺の僧侶が将軍家墓所の威光をかさに着て高輪付近で遊びまくっていたというお話など、いかにもありそうですが、それならば寛永寺に近いあの街やあの街も、当時の高輪と同じように見られていたのかと思い浮かべて、想像を広げることもできます。他にも田安門内に旧近衛師団の建物が「おばけ屋敷のように」残されているお話(その後1977年=昭和52年に「東京国立近代美術館工芸館」として改修)や、大村益次郎に対する評価など、改めて考えさせられるコメントも多く、読んでいて飽きません。

「日本橋白木屋の名水井戸」のお話は、そういえば東急日本橋店が閉店する際の記念展示会で読んだ覚えがありました。あの建物の解体とともに井戸も閉鎖されたといいます。

須田町から神田駅にかけて続く「地下鉄ストア」もいつのまにかなくなってしまいましたが、1980年代半ばごろ、すなわち昭和の終わり近くまで、映画のセットでしか見られないような「戦前のお店」のふんいきを漂わせていました。

1984年(昭和59年)ごろまでは、石丸電気で購入したナイアガラのLPレコードや雑誌などを持って銀座線に乗ると地下鉄開通の時からのリベットむき出しの車両に当たることがあり、時空を超えるような不思議な感覚がして、渋谷駅の手前で急に明るくなり街を高々とまたぐと再び現代に戻ってきた心地がしたことを懐かしく思い出しますが、その前の1960年代には、地下鉄ストアのビル壁面に針を直接取り付ける形式の大きな時計が設置されていたことを初めて知りました。

最後の一文は、当時の最新鋭車7500形を取り上げています。野尻さんは8000形についてどこか思うところもあったようですが、7500形については前面ライト2灯式のスマートな形状や加速性能を評価しつつ、これが多くの非難を浴びた都電最後を飾るもの(新車)になるであろう、その行く末は暖かい思いやりと感謝の念をもって見守ってやりたいと締めくくり、都電ファンの多くをうなずかせたことでしょう。須田町の交差点で折り返す10系統渋谷駅行き7506をしっかりと撮影しています。


他方、この本には難点もあります。
旧西武鉄道新宿軌道線の14系統や、旧王子電気軌道の32系統に対する「都電のまま子(継子)」という表現は、当時の人の感覚からいえばごく普通なのかもしれませんが、学校の先生が書く文章としてはいかがなものかしら?と感じました。その一方で旧城東電気軌道の路線については、西荒川終点の項目で「まま子」の表現を使っているものの「零米地帯」の章に含めていて、水神森-洲崎間の砂町線に対しては全く言及されていません。

野尻さんは1924年(大正13年)豊多摩郡淀橋町(→淀橋区を経て新宿区)生まれで、中野に暮らしていたため14系統沿線には思いが深いようで、愛情あふれる文章を数編載せています。王子電車についても、戦前の有名観光地の様子を懐かしみ、戦後の運転再開を喜んでおいでです。「まま子」と題してはいても、“実子”と同じように見ている姿勢に好感が持てます。

野尻さんが本当に「まま子」扱いした路線は、他にあります。
交通局で建設、開業した「実子」であるにもかかわらず。
別項で詳しく検証したとおり、巻末の路線廃止表において、その後何十年にもおよぶ禍根の種が蒔かれました。

昨今は「実子」であるがゆえに虐待され、時には取り返しのつかない悲劇もしばしば起きてしまう時代です。情況によっては子供を育てる意志と能力のある里親の「まま子」になるほうが、はるかに本人の福祉向上に資する時代でもあります。

まさか、そこまで予見した本ではないでしょうが。

2016年11月12日土曜日

都電本ガイド(2)都電60年の生涯

(東京都交通局・編、1971年)

東京市電気局発足60周年と、間近に迫った都電全路線撤去(この時点では、現在の荒川線に相当する区間も廃止対象に含まれていました)を記念して交通局が制作した、初の大型写真集です。

私はごく最近ネットオークションで自分のものにしましたが、10代の頃は図書館で何度も見ていました。182ページ掲載の「都電廃止への道のり」の冒頭、

<引用>
「人間はいろいろのものを創造してきた。そして新しいものが創造されるたびに、ふるいものは滅びていった。この意味からすれば、都電もつくられたときに撤去という宿命をもっていたといえる。」

<引用終了>

は、当時の私の心に深く刻まれる言葉でした。私事ですが、この本を図書館で読んでいた当時は家では毎日怒鳴られ殴られ、学校では陰湿ないじめに遭い嘲笑され、という境遇だったことに加えて「ノストラダムスの大予言」が生きていましたから、30代半ばまでの人生設計をしておけばそれで十分と考えていました。
この書き出しもまた、その考え方を後押しするものでした。
今になって読み返すと、この文章の「都電」を「新幹線」や「リニア」に置き換えて、某鉄道会社に謹んで捧げたくなってきます。
ただし、この文章でも志村線に関する記述には誤りがみられました。


アド・クリエーツという、おそらくは交通局と契約していると思われる出版企画会社がデザインを担当していますが、今の目で見ると写真のコントラストが全体的に強すぎて、黒い部分がどぎつい感じです。

サトウハチローさん、高田敏子さんなど詩人からの寄稿や、早朝から深夜までの乗務員たちの姿の記録は、後年の写真集ではみられません。現役当時ならではの表現でしょう。

その一方で後年の「棄景」を思わせる解体現場、まだ劣化していない頃の保存車両の姿、他都市へ譲渡される車両移動の現場、五稜郭駅前発どっく前行きの10系統など、都電としての走行場面以外の写真のほうがむしろ存在感を見せています。

(注)五稜郭駅前発どっく前行きは本来「4系統」で、1978年(昭和53年)1031日まで運転されていました。10系統は途中経路を変える臨時便だったそうです。


一般の人からも募ったとおぼしき「市電・都電の思い出」寄稿掲載コーナーもあります。交通局は最近(2016年)も同種の企画を立てているようですが、入選作品と読み比べることも一興かもしれません。

図書館の蔵書では外されていましたが、現在手元にある本には電車唱歌を収録したソノシートがついています。もちろん再生できる装置を持ち合わせておりません。
横浜市電廃止記念写真集引換券(未使用)もなぜかついていました。

2016年11月11日金曜日

都電本ガイド(3)続・都電百景百話 ●




(雪廼舎閑人・著、大正出版、1982年)


☆撤去10年、“衝撃の写真集”

都電撤去計画完了からちょうど10年すぎた1982年(昭和57年)春、書店に横長の厚い写真集が並びました。

その本には数多の都電の写真。
かなりの反響を呼び、新聞などでも取り上げられたといいます。
都電はじめ路面電車再評価ブームの嚆矢となった「都電百景百話」です。

著者名の「雪廼舎閑人」(ゆきのやかんじん)は、林順信さんが用いていた雅号です。林さんは有名出版社の編集者で、当時よく知られていた児童向け雑誌などに携わっていましたが、退職して著述業の道に入りました。「雪の降り積もる家に暮らす暇な隠居」という意味合いと思われます。林さんは雪景色の東京の街を好んでいました。都電の他、駅弁・江戸神輿・ジャズなどに関する著作もあります。

本の形状を横長にした目的は、都電の写真を1ページ使って大きく載せるため。
見開きで隣のページに撮影場所についてのエッセイを記し、それを100編まとめて「百話」としています。

林さんによれば、都電写真の撮影は1966年(昭和41年)秋ごろから始めたそうです。志村線の廃止に次いで、今後5年程度で全廃の方針が報道されると(その時点では、まだ正式決定ではありませんでした)、自分の親しんできた東京の街がなくなってしまいそうだと危機感を抱き、せめて写真に記録しておこうと、カメラを持って都電全路線を撮影するべく歩いて回ったといいます。3年ほどかけて膨大な量の写真を残しました。

林さんのお好みは雪景色の他、火の見櫓・昔ながらの構えの商店・煉瓦造りの西洋建築・祭礼など。江戸・明治期以来の文化をこよなく愛していました。

他方、高層ビルや高速道路、歩道橋など「人の匂いが感じられない、人よりもコンクリートを優先させる」イメージが強いものに対してはあからさまな拒絶感を示していました。住居表示による地名・町名改変にも強い憤りを感じています。

地下鉄については、結果的に都電を駆逐しましたし、形態そのものは面白くなかったようですが、稲荷町、末広町、仲御徒町など古くからの町名に由来する駅名をそのまま残していることは偉いと、営団を高く評価していました。一方で交通局に対しては「話にならない」。

文明の発展には「程よい頃合い」がある。風呂のように、冷たすぎてはいけないが、かといって熱くなりすぎてもいけない。コンクリートの建造物で何でもできるという考え方は、程よい頃合いを逸脱した“発展”なのではないか。そのようなことを続けていると、やがて取り返しのつかない事態を招くであろう。

私はそのように解釈しています。
林さんにとって、都電を中心とした交通体系や江戸・明治以来の街並みの姿は「東京の街にとって程よい湯加減」だったのでしょう。

前述の経緯より、林さんは当然志村線の写真お持ちではありません。本が話題になると、版元の大正出版には志村線と、それに先んじて1963年(昭和38年)に廃止された14系統(杉並線)もぜひ取り上げてほしいという要望が多く寄せられたそうです。

ご本人もまだまだ書き足りなかった様子で、上記両路線の写真を諸河久さんから提供してもらい、都心方面の写真もさらに充実させた第2集「続・都電百景百話」を半年足らずで仕上げて、1982年秋に上梓しました。

表紙は一ツ橋を走る17系統 数寄屋橋発池袋駅行きと35系統 巣鴨車庫発西新橋一丁目行き。
この場所は、軌道が道なりにカーブしています。
背景には雪を載せている「如水会館」の西洋風建物。
北国の都市のような光景です。

後年、「あまり雪景色を賛美していると、豪雪地帯に暮らしている人が見たらいい気がしないかも。」と心配になりましたが、林さんのもとにもそのような意見が届いたようで、「都電が走った街今昔」では配慮する一文を載せています。


☆自負と自虐の間で

林さんの経歴を見ていると、よく似た道を歩んだ人がもうひとりいたことに気づかされます。

鉄道好きの人はよくご存じの、宮脇俊三さんです。

しかし林さんの文章の書き方は、ある意味宮脇さんと対照的です。
宮脇さんは、ご自身の道中での失敗談を平気で書きます。

「時刻表2万キロ」評判も、唐津(佐賀県)でサザエの壷焼きの誘惑に負けて列車を降りたため、乗り残した区間ができてしまい、もう一度来る羽目になったとか、猪谷(岐阜県)で乗り間違えたため、富山港線の終点岩瀬浜駅までたどりつけず、後日徳島県および能登の帰り、米原経由ならばその夜の一番良い時間帯に帰宅できることを承知の上、岩瀬浜に行くためだけに富山経由にして寝台特急「北陸」を使ったとか、青函連絡船の寝台で飲んだくれて、翌朝奥羽本線の列車で寝過ごしてしまい、予定していた花輪線の急行に間に合わなくなり、タクシーで追いかけて所持金がほとんどなくなった…などの「トホホ話」が読者のカタルシスを呼び、同時に自分自身も他のことで同じようなアホをしていると気づかせる効果があったがゆえでしょう。

余談ですがこの本に親しんできたら、「富山ライトレール」にはいささか認め難い感情を抱くことでしょう。全くの新線LRTならば評価できるのですが。

宮脇さんはおそらくご自身で全く気づかないままに、お笑いの基本を身につけていらしたのでしょう。それゆえに亡くなってもなお、多くの人の記憶に残っていると思われます。内心のプライドの高さは、おそらく林さんを上回るものがあったと見受けられますが、それは隠しておくくらいがちょうどよい、というお考えだったと推察します。

対して林さんは、この種のお話を一切明かしません。
後年の著作ではいくらか丸くなってきましたが、「都電百景百話」では強烈なエリート意識が結構むき出しに記されています。著名人との交流や、招待されて出かけたという一流の映画・演劇鑑賞のお話もしばしば出てきます。

<引用>
「東向島三丁目なんて、いやな名前だ。以前の寺島二丁目のほうがずっとよい。」

<引用終了>

と、ストレートな物言いをします。読む人によっては、ずいぶん威張っている、エリートコースを自慢気にひけらかせていると受け取るかもしれません。現在よりも学歴信奉が強かった時代ならばなおさらでしょう。それだけに後年の取材で三田の薬局を訪れた際、「都電百景百話」を置いていて、お客さんに見せると喜んでくれるというお話を聞いたときの嬉しさはひとしおだったと思われます。

このタイプの人に普段接する人たちの好悪ははっきり分かれると思われます。インターネット上に公開されるブログですから、詮索めいたことはこれ以上申しませんが、自負心はその表し方により、周囲に与える印象がかなり異なる事例とも考えられます。

林さんは撮影した写真を、自分の意図しない形で取り上げられたくなかったようで、外部の機関に協力することはほとんどありませんでした。その一方で、2系統の神田橋交差点や池袋駅前発大塚車庫入庫便の16系統など、林さんの写真でしか見ることのできない貴重な記録も少なくありません。アーカイブ化・データベース化の難しさもまた浮き彫りにされています。

エッセイページの左下には「都電ミニヒストリー」というコラムがあり、撮影地を通る系統の歴史について解説していますが、残念ながら現在では信憑性に欠けるという評価とせざるを得ません。

基本的な事実関係の誤りについては、私の知らないものも少なくないとは思われますが、とりあえず臨時20系統について、池袋駅前-八重洲通り(通三丁目)直通運転はなく、池袋駅前-上野広小路(神明町車庫入庫便もあり)および神明町車庫-通三丁目の2種類制だったこと、および他の方の撮影写真から、日曜祝日に限らず運転されていた形跡が認められることのみここで記しておきます。後年の著書でも、あいにくこの事項の訂正には至りませんでした。

それ以上に、ほとんどの項目で「昭和5年までX番の△△~□□が運転され、昭和6年からY番の▼▼~※※間になる。」的な書き方をしているほうが気になりました。これでは1931年(昭和6年)の元日に系統が変わったことになります。実際は193141改定ですから、昭和6年の初めはまだX番の運転という事実が伝わりません。

「都電百景百話」シリーズは、鉄道友の会を中心として活動していた、路面電車愛好のお偉方の皆さん結構驚かせたかもしれません。鉄道写真としての技術を有していて、その上に街並みの変遷にも詳しい林さんの”出現”は、その信条に共鳴するかどうかはまた別の問題として、それまでの活動を見直す契機となったものとも考えられます。