「板橋ハ晴天ナリ。」のブログでは、古い鉄道切符収集のお話が掲載されています。
詳細は記事をご覧いただくとして、ネットオークション普及以前の収集事情が詳しく記されています。文章としてもとても面白いです。
ネットオークションでもびっくりさせられるような現象がよく起こります。楽勝と思って入札したら終了5分前にライバルが現れて、延長また延長で、落札するまで思わぬ緊張を強いられたり(それも日曜の夜に!)、子供の頃に見た鉄道本で紹介されていた、さぞ貴重品と思われる切符が無競争であっさり落札できたり。
当事者でなくとも、数名の入札者がバトルを繰り広げるさまや、1点1万円前後の値段がつけらている出品に何十点と入札される方や、初めからとんでもない価格がつけられているさまなどをじっくり観察させてもらっています。
鹿児島駅(西鹿児島駅ではない)乗車の特別急行「はやぶさ」寝台券が1万数千円で落札された時は、地元に思い入れのある方の手に渡ったらいいねと思う一方で、東海道線寝台急行時代の「月光」1等寝台券について激しいバトルの末、3万円を超えた時は驚かされました。全体的に東海道線関連の1等寝台券は今でも狙っている人が多い様子です。
いろいろ思うところはありますが、それでも昔に比べたら格段に買いやすくなっているはずです。
「いたばし大交通展」では開催当初、「志村駅」(高島平駅)開業日(1968年12月27日)発行の硬券切符が展示されていませんでした。切符展示に協力したブログ作者さんの手元になかったがゆえです。長年探していても巡り会えなかったといいます。
しかし展示を見た、交通博物館の元学芸員の先生から提供していただけることになり、めでたく展示に加えられました。
そのお話を拝見して、どれほど貴重品なのだろうと思いをめぐらせます。
福岡県の筑前芦屋駅(1961年廃止)の入場券や、山陽本線の特急「しおじ」のパーラーカー指定券並みかと想像していました。
この世界では1970年代半ば以前、鉄道旅行ブームが起こる前に無人化で切符が販売されなくなった国鉄駅の古い入場券が人気で、駅によっては5万円を超える値がつけられます。
筑前芦屋駅はもともと進駐軍用に作られ、国鉄が委託営業していた経緯から、とりわけレア度が高いとされています。
パーラーカーは1960年に東海道本線の特別急行列車「つばめ」「はと」が客車から電車に変更された際、それまでの展望車の代わりに提供された1等車クロ151で、国内外の要人も乗車する特別車両でした。
しかし東海道新幹線が開通すると、移転先の山陽本線ではなぜかほとんど人気が出ず、料金を大幅に値下げしてもお客がつかなかったため、2等車→普通車に改造されたといいます。私が自力で旅行先を選べるようになった頃は既にトンネルだらけで耳が痛む山陽新幹線が作られてしまっていたため、海沿いの綺麗な風景が眺められる特急しおじは憧れです。私は車窓鑑賞のために「あさかぜ」のヒルネ(寝台列車の朝・夕方座席利用制度)を幾度か使っているほどで、1980年代まで「しおじ」のパーラーカーが残っていたら真っ先に乗車したことでしょう。
お客さんが少ない→切符の発行数が極めて少ないという理由で、貴重品になっています。
…と身構えていたところ、本当に偶然に志村駅の開業日乗車券を見つけることができました。そう懐を痛めることもなくわが家へ。私は切符でも切手でも貨幣でも、自分の琴線に響くものだけ手元に置いて、ミニ・コレクションを作ればそれで十分満足できるタイプなので、何だか申し訳ない思いがいたします。
券面を見て、改めて振り返ると。
このブログで幾度も繰り返した通り、「志村」は自治体名(北豊島郡志村)でしたが、交通機関の名前としては板橋区発足後の1944年から1955年まで都電の終点停留場に使われた後、延長により「志村坂上」に改称。1968年に地下鉄の終点駅に命名されたものの、わずか7ヶ月で「高島平」に改称されたため、ほぼ幻に近い存在です。コレクターの世界における評価はそう高くなくても、地元に縁のある人にとっては特別な一枚でしょう。
今回苦労せずに買えたことは運もありますが、コレクター界に世代交代の波が迫っていることも実感します。
硬券切符が実際に広く使われていた時代に青春期を過ごした人も、すでに老境にさしかかるほどの時間が経過しています。亡くなられたり、心身が衰弱して所有する意味を喪失されたりする方も現れはじめています。
生命の限界を自覚するようになると、「死んだら棺に入れてほしい」と遺言するコレクターもいるそうです。
気持ちはわからなくはありませんが、それは滅失行為に他なりません。
第一、最近は有害物質発生抑止の観点から、火葬の際には最小限のものしか入れないように指示されます。煙草が好きな故人でも、箱の銀紙がアウトとされるため棺に入れられないそうです。
かくして遺品として残されますが、貴金属や宝石など、誰の眼にも価値があると映るものは黙っていても誰かの手に渡り保存されます。
しかし、その分野に関心のある人しか価値を認めていないものは、周囲の人が気づいてあげないと廃棄されてしまいます。なまじ家族がいると、故人の「ガラクタ癖」に立腹していることも少なくないため、断捨離ブームも手伝い、真っ先に手をかけられてしまいます。故人にとっては「ときめくもの」でも、家族にとっては「全然ときめかない邪魔な物」ですから。
「家族リスク」が最初のハードルでしょう。
自分が好きでなくとも、斯界では価値があるらしいと気づく賢い人は売却の手段を考えます。しかしそのハードルは想像以上に高いです。
鉄道模型がお好きな人が亡くなった際、配偶者さんが「葬儀費用の足しに」と期待して専門店に買い取りを依頼したところ、故人が生前つぎこんだ額はおろか、自分の予想よりも1桁少ない価格を提示されてがっかりしたというお話も聞きました。
コミックやアニメグッズを扱う有名店では、実際に買い取らなくてもおおよその鑑定見積もり価格を示してくれるサービスを始めて好評を博しているといいますが、どこの世界でも「目利き」に恵まれるとは限りません。
もう少し賢い人は、切手のカタログなどを買って自らも勉強して、ネットオークションに出します。この方法で結構な実績を上げている方もいらっしゃいます。
先日ある鉄道グッズ店をのぞいてみたところ、切符を貼付したアルバムがたくさん陳列されていました。1970年代~1980年代に各地で発行された硬券特急・急行券がきれいに整理されています。おそらく持ち主さんが旅行好きで、出かけた思い出としてコレクションを行い、亡くなるまで大切にされていたのでしょう。少し胸に迫るものがありました。
しかし、亡くなった人が持っていた「ストーリー」が消滅すると、コレクターの世界における相場価格にさらされ、コレクションは分解されていきます。それもまたやるせない。
「板橋ハ晴天ナリ。」ブログ作者さんのもとに行った志村駅の乗車券や入場券は由緒が明らかなものですが、私のもとに来た切符は当日同じように並んで買った人が亡くなられたなどの理由で回ってきたのでしょう。感慨深いものがあります。
公共の博物館へのコレクション遺品寄贈を考える人もいますが、昨今は同じことを思い立つ人がたくさんいて、断るか、引き受けても倉庫に積んだままというケースが少なくありません。様々な分野のコレクションが押し寄せてくるのですから、処理能力を超えるのも無理はありませんが、学芸員の知識不足で貴重品がみすみす廃棄されてしまう事例もあるといいます。江戸時代以前のものは一応「貴重なものではないか」と考えても、近代もの、とりわけ昭和のものは「ありふれているはず」という思考のバイアスにより、かえって粗略に扱われてしまいます。
しばらく前に郵便切手や貨幣を扱う業平橋や王子の博物館に行ったことがありますが、失礼ながら状態のあまりよろしくない展示品も少なくありませんでした。海外の稀少品ならばまだしも、神功皇后(実際は明治初期の印刷局職員をモデルとしてエドワルド・キヨッソーネが描いた肖像)の10円切手など、私の手元にある物のほうがずっと綺麗というケースもありました。セキュリティのため、あえて貧弱なものを公開用にしているという考え方もできますが、コレクターの遺族がそこに寄贈したいと思い立つことを考えると、やや心配です。
20世紀半ばすぎ、昭和に生まれ育った世代は鉄道切符や郵便切手など、公共機関が有価証券として発行した物に価値を認めます。しかし若い世代には実感がわかないでしょう。国策で格差を広げられたあおりを受けた世代は、コレクションはおろか、上世代には「生活必需品」とされたものでも「特に必要ない」と考えます。集めるにしてもトレーティングカードとか、道の駅のきっぷとか、神社の御朱印などのほうが身近でしょう。
郵便切手の世界では「年少者コレクターを育てよう」と熱心に活動している方もいらっしゃいます。しかし失礼ですが、旗振りしている人は若くして有名な企業の社長を経験した人とか、テレビにも出演する評論家など、格差社会における「上」の部類に属する皆さんです。また、その世界はしきたりが非常に厳しいと感じています。ストックブックは「一時保管所」で、百科事典のようなハードカバー内のルーズリーフにマウントを貼り付けて挿入する保管方法が「正式」という作法を聞いたときは、本当にびっくりしました。コンテスト制の切手展も多数開かれていて、スポーツ競技と同様国際統一ルールがあります。学会のポスターセッションのように展示を行い、ディスカッションをして、優秀作品には賞状が出るシステムだとか。ただ切手を集めて眺めているだけではもちろんだめで、実際に郵便として利用された封筒やハガキを集めてプレゼンテーションを行います。ルーズリーフはそこで決められている統一規格ということです。そこまでやるのならば、個人の財力と運に大きく依存する「趣味コレクション」ではなく、正式な学問と位置づけ、統一学術団体を結成して関係官庁の認可を取り、大学の専攻のひとつとして学位を出し、研究者がそれで収入を得られるシステムにするほうがよろしいのではないかと、部外者は勝手に思う次第です。
郵趣のサイトでは、「ネットには個人の住所氏名連絡先を安易に載せない」という原則が全くあてはまりません。郵趣振興の旗振り役は住所氏名電話顔写真全て公開です。さすがに40年くらい前以降のもの(斯界では「マテリアル」という言い方をしています)は、当事者や関係者が見る可能性も勘案して宛名などをぼかしていますが、明治から昭和の終戦くらいまでの郵便物は平気で宛名や文面を公表しています。
見るほうとしては、「板橋区東大泉町」(現・練馬区)と宛名書きされている郵便とか、埼玉県北足立郡志木町が1944年の周辺町村合併で「志紀町」と表記を変更した後(注)でも「志木町」で郵便が届いているなどの興味深い発見がありますが、郵趣としての価値は全くわかりません。
注:1948年「志木町」に戻り、一旦消滅を経て1970年の市制施行で再度復活しています。
それに、いくら当時を生きた人が全て亡くなっている時代だとしても、「うちのひいじいさんが財産をだまし取られた奴からの手紙ではないか!」と気づく例がないとは言い切れません。事実、有名切手商がオークションに出した郵便物がもとで、行方不明だった戦友の消息がつかめたというケースもあります。
切手展には一度行きましたが、展示品を見ると明治40~41年(1907~1908年)ごろでも「備後國廣島縣…」と宛名を書く人がいて、とりわけ廃藩置県前の隣国の町が県名になっている地域では旧国名が結構長く使われていたという事実のほうに目が行き、気がついたら切手はそっちのけで観察していたため、ここは私の来る場所ではないと悟りました。
鉄道切符には、そのようなしきたりは幸いありません。ピンセットが必要な切手と違い、硬券は紙も印刷も丈夫にできています。子供の頃のいたずらで隅を切り取ったり、輪ゴムで束ねて暑さで溶けて剥げを出したりする、ズボラな私が力説することではありませんが。
他方、切符の「未使用」は買っても使わずに記念とする、販売終了後残余分を駅で保管していたなどの特殊な事例を除いて存在せず、使用済が原則のため、切手のような詳細カタログを作れません。従って元の持ち主の寿命が尽きると、残された人にはその価値判断が難しく、廃棄されてしまう可能性が高いのかもしれません。