というお話は、系統番号時代の都電に詳しい人のほうが「都市伝説」と感じるかもしれません。その頃“中央”では、利用率の低い都電の路線をトロリーバスに置き換えようという提案もなされていましたし、将来の路線縮小を見越して、耐用年数を短めに想定して、コストを抑えた8000形電車を大量に製造したというエピソードはよく知られています。その時代に路線延長などありえないと考えるほうが自然でしょう。
しかし“辺境”では事情が違ってきます。
1957~1958年(昭和32~33年)ごろならば、まだ地下鉄は海のものとも山のものともわからず、いずれ都区内全域に路線網を張り巡らせて、完全に都電に取って代わるようになると想像できた人は、まだ多数を占めていなかったとも考えられます。
自動車があふれそうになってきている都心や、狭い道路が多い地域ではまもなく都電は走れなくなってしまうだろうし、遠からず軌道を撤去して地下鉄に置き換えることも当然考えなくてはいけない。
一方都区内のはずれに近い地域では、まだまだ都電の活用方法があるのではないか。地下鉄は莫大な建設費と工期がかかり、そうたくさんは作れないだろう。都電にせよ地下鉄にせよ、都区内全域をひとつの交通機関でまかなうのではなく、地域の特性に応じて都電と地下鉄を有効に配して、さらには国電・私鉄路線も含めた効率よいネットワークを作るほうが合理的ではないか。トロリーバスは他路線との交差が問題になるため、長距離を走らせるよりもむしろ都心の狭小道路のほうが特長を活かせるのではないか。
都電の役割を「都市基幹交通」から「都市補助交通」に切り替えて、志村地区をテストケースとして、うまく行けば練馬区や足立区西部など、これまで都電に縁のなかった地域に応用できるかもしれない、城東地区など、地下鉄建設は厳しいと見込まれる地域の都電輸送改善モデルになれるかもしれない、という考え方があってもおかしくはなかったでしょう。交通局の事業収支赤字化と軌道内自動車乗り入れ解禁により都電邪魔者論が急拡大した1959年(昭和34年)以前ならば、まだ辺境の都電について自由な発想も可能だったものとみられます。
では、1958年(昭和33年)に長後町二丁目停留場脇に「東京都交通局巣鴨電車営業所 志村派出所」が開設されていたら、どのような路線延長が考えられたでしょうか。
ここでは敷設が容易と思われる順にシミュレーションを試みたく存じます。
(1)志村橋-舟渡町-戸田橋(中山道直進コース)
誰でもまず思いつくルートです。現実にも戦前の板橋区議会による「市電板橋町六丁目~戸田橋間の延長即時実施」の陳情に始まり、戦後の交通局によるトロリーバスの免許申請も「巣鴨-戸田橋」としています。実際に志村橋延長工事を行う際、新河岸川に接する地点まで軌道を作ろうとしたことも、当然再延長を視野に入れていたものと考えられます。
志村橋まで開通したことにより、舟渡・新河岸地区および埼玉県方面からのバス利用客が都電に乗り換える流れもできたといいます。舟渡一丁目・二丁目の住民やこの地域への通勤者は、なぜ都電を志村橋で止めてしまうのかと不思議に思ったことでしょう。
志村橋停留場からさらに北進して新河岸川を渡り、現在の舟渡町バス停付近に「舟渡町」停留場を設置するところまではすぐに想像がつきます。
舟渡町交差点と、戸田橋に続く道路。 この付近に「舟渡町」停留場が設置されたかも?(2016年9月) |
そこから先、現在は戸田橋に向けて上り勾配になる取り付け道路ができていて、交差点のすぐ北から始まります。荒川の堤防がかさあげされたためでしょう。
しかし1950年代は、舟渡町の交差点から戸田橋まではほぼ平坦な道路だった模様です。私もそれで覚えています。調べてみたところ、現在の橋と取り付け道路は1978年(昭和53年)に開通したということです。
それならば橋の近くに「戸田橋」停留場を置くことも可能だったでしょう。西荒川のような堤防下ではなく、志村橋と同じような形式になったものと思われます。
埼玉県への進入は難しかったでしょう。1960年(昭和35年)ごろの都営バス路線図では、川口市・蕨市・浦和市・戸田町の他、浦安町、市川市(千葉県)、川崎市(神奈川県)にも乗り入れていたことがわかります。現在でも都営地下鉄新宿線が千葉県に入りますが、路上の軌道は県で制定する条例なども関係してくるため、需要があってもおそらく無理だったものとみられます。
従ってこのルートは戸田橋が終点で、遅くとも橋の架け替え工事開始までの運命で、埼京線(通勤新線)建設は史実通りに実行されたと考えます。
(2)長後町一丁目-蓮根三丁目-志村西台町(都道446号線コース)
中山道以外の可能性を探るとすれば、長後町一丁目から左折して蓮根・西台方面に向かうコースがまずあげられます。
都道446号長後赤塚線は周辺の工場の物資輸送道路として、戦前から広い幅員で計画されていました。Gooサイトの1947年(昭和22年)の航空写真では、既に御成塚通りまでの区間が完成していたことが確認できます。
1963年(昭和38年)の航空写真ではもう少し西側の東京渡辺製菓(コビト)工場まで幅員が拡張されていますが、その先の蓮根団地北側は2車線の一般道路でした。私もそれで覚えています。拡張は地下鉄開通後の1970年(昭和45年)のことでした。
この地域は1950年代後半に、工場や住宅が次々に建てられて人口が急増しました。対して、支える交通機関は国際興業バスの池袋駅行きと赤羽行きのみで、都電の長後町一丁目からは徒歩圏内の限界に近く、利用するにはやや不便な状態でした。
都電の志村車庫ができれば、蓮根方面への延長は当然考えられたでしょう。長後町一丁目の交差点から西へ進み、現在の地下鉄蓮根駅北の交差点、東京渡辺製菓門前付近に「蓮根三丁目」停留場を設置。さらに西進して蓮根団地の北を通り、現在のダイエーの南側、馬頭観音前に「志村西台町」終点を置きます。
地下鉄蓮根駅北交差点。”43系統”蓮根三丁目停留場候補地? (2016年9月) |
1950~1960年代は緑地帯の左側のみが道路だった。 拡幅工事とあわせて軌道を敷設すればセンターリザベーション 方式も可能だったかも?(2016年9月) |
”43系統”終点 志村西台町停留場候補地? 現実のバス停留所は深夜急行バスのみ。 1960年代はじめまで、右のビルから奥は水田だった。(2016年9月) |
馬頭観音庚申塔。(2016年9月) |
その先は「一面の水田」です。
広大な土地を将来どうするか、この時点ではまだ何も決まっていません。
建設にあたっては、「蓮根三丁目」までは路上を通り、その先は道路の拡幅工事とあわせて行うか、もしくは道路の北側に専用軌道を敷設して、将来の拡幅の際にはセンターリザベーション化するか、でしょう。志村西台町の終点で夕陽に赤く照らされて、巣鴨方面に折り返していく「43系統」の電車の姿を見てみたかったですね。私事ですが、ドヴォルザーク「新世界より」を耳にするたび、当時の団地脇の通りと、水田を整地した空き地を照らす夕陽を思い出します。
長後町一丁目停留場の志村橋(戸田橋)方面乗り場は既存安全地帯がそのまま使えるものの、巣鴨方面乗り場は志村線に合流する手前に別途置かなければなりません。現在のシトロエン販売店前に巣鴨方面乗り場を増設して、本線は南方向にカーブして合流。加えて、北側の長後町二丁目に向けて入庫用の単線が敷かれたと想像します。
41系統と”43系統”の分岐が妄想される長後町一丁目停留場付近。 黄色トラック停車位置あたりに”43系統”巣鴨方面乗り場、左の植え込みに 向けて複線軌道がカーブ、自動車販売店の前に回送用単線を想定。 (2016年9月) |
この路線ができればそこで暮らす人と工場通勤者の双方が使い、かなりの利便性向上が期待できたことでしょう。その代わり18系統は板橋本町までで打ち切られて、朝通勤時間帯以外は西巣鴨で折り返す運用が組まれていたかもしれません。
現在、都道446号線には回送バスと深夜急行バスしか通りません。国際興業バスはこの区間の営業免許を取っていない模様です。地下鉄は志村三丁目を迂回しますし、意外と盲点になっている地域です。その現状に接すると、一度都電が来ていたら、たとえ十数年で廃止になったとしても、もう少しましなバス路線網ができていたのではないかと思わざるを得ません。
想定されていた「志村車庫」の規模でまかなえる案は以上でしょう。次からは難易度があがり、更なる設備を必要とするコースです。
(3)志村環状ルート
志村西台町まで延びれば、次は中山道の路線とつなげて環状にしたいという要望が現れるでしょうか。その場合は南回り(現在の環八高速下→志村坂下コース)と北回り(現在の地下鉄検車場停留所→舟渡町コース)が考えられます。
しかし、いずれも相当厳しそうです。
現在は高速道路の下に広い幅員の道路を持ち、それでも平日の朝の渋滞はすさまじく、バスが混雑を回避するための系統変更まで行うほどの南回りルートですが、1963年(昭和38年)時点では農道あがりの細い道しかできていませんでした。この付近にある学校の志村高校、大東文化大学の関係者は東武沿線からのバス輸送で対応していますし、都心のターミナル駅に直結しない電車が来てもかえって使いづらいでしょう。環八もこの時点ではまだ整備されていない道でしたから、志村坂下の左折合流も厳しい状態でした。
北回りは、どこかで新河岸川を渡らなければなりません。現在の道路は、地下鉄志村車両検修場の北に相当な急勾配を持つ橋を作り、川を渡っています。この橋は1960年代にはありませんでした。当時この地域の新河岸川にかかっていた橋は、西側の「西台橋」と東側工場地帯真ん中の「蓮根橋」のみでした。
それならば竪川のような専用橋を架けようということになりますが、戦前とは異なり、そこまで投資する価値があるかという意見が大勢を占めかねません。第一、新日鉄の敷地にぶつかります。だからこそ現在、あの急勾配の橋が新日鉄にかぶらないよう、無理な角度で架かっているのです。舟渡町内に入れたとしても、現在の佐川急便前の道は細く、バスも結構窮屈そうに走っている状態です。道路沿いの土地は1960年代以前から、既にかなりの区画が工場などに使われていたと推定されます。
需要は南回りよりも見込めそうですが、やはり敷設は困難だったと考えざるを得ません。
(4)赤羽への道
最後は、何とかして27系統が使っていた王子電軌由来の赤羽終点につなげられないだろうかというお話です。
浮間舟渡駅ができる前はあの場所に「浮間公園」というバス停があり、実際の都電廃止後の1969年(昭和44年)から1978年(昭和53年)にかけて、都営志村車庫から赤羽・東十条・飛鳥山を経由して池袋駅まで行く都営バス・国際興業バス140系統(→王53系統)が運転されていました。現在の地下鉄赤羽岩淵駅付近に「都電赤羽終点」という停留所もあったそうです。この地域には他に、蓮根町(後に高島平操車場に変更)-赤羽駅東口の国際興業バス単独路線(赤04系統)も1950年代から埼京線開通の1985年(昭和60年)まで運転されていました。
これらの路線は浮間の街を抜けると「放水路」という停留所に出て、荒川放水路土手の脇を進み、岩槻街道新荒川大橋前の交差点を右折して、都電赤羽終点前の交差点に達していました。放水路停留所は1960~1970年代には頻繁にバスの往来がありましたが、先日久しぶりに訪ねてみたら1日に6便しかない状態でびっくりしました。
放水路停留所。中央の緑色トラス橋は京浜東北線の線路。(2016年9月) |
しかし、都電の軌道は荒川放水路にたどりつくまでが容易ではないでしょう。環八ルートを取らざるを得ません。その環八もこの地域では既に整備されていましたが、志村坂下付近は未整備のため、全線で使うことはできません。現在の北赤羽駅南側の交差点を右折して新河岸川を渡り、浮間舟渡駅(浮間公園)へ続く道を通り、舟渡町で(1)の路線に合流するルートしか使えなかったと考えます。
北本通りの都電赤羽線(27系統使用)赤羽停留場跡地。 史実では横断歩道付近で止まっていた軌道が手前側に延長されて、 志村橋行き”42系統”が運転されていたら…。(2016年9月) |
このルートもかなり厳しいとは見られますが、27系統の路線とつながれば保線工事や車両の融通が利かせられたかもしれません。実際にも、志村線の軌道管理は王子の事業所が担当していたそうです。
荒川車庫はさすがに遠すぎますから、赤羽地区にもうひとつ車庫(派出所)を作る必要が生じたでしょう。現在の赤羽岩淵駅も、赤羽駅からかなり距離があることで知られていますから、国電への乗り換えを確保するならば王子駅までの運転が必要になったかもしれません。
(1)(2)(4)の案を採用して、志村地区都電整備計画を以下まとめます。
志村線(延長):志村橋-舟渡町-戸田橋
蓮根線:長後町一丁目-蓮根三丁目-志村西台町
浮間線:舟渡町-浮間公園-浮間二丁目-浮間一丁目-浮間橋-赤羽北二丁目-赤羽北一丁目-赤羽(都電赤羽線と接続)
運転系統は以下になるでしょうか。
18系統:神田橋-板橋本町(朝通勤時間帯以外は西巣鴨折り返し)
27系統:三ノ輪橋-王子駅前-神谷三丁目(荒川営業所担当)
41系統:巣鴨車庫-志村橋-戸田橋
42系統:王子駅前-赤羽-浮間公園-志村橋(約8kmと想定。巣鴨・荒川共同管轄の可能性もあります。)
43系統:巣鴨車庫-長後町一丁目-志村西台町
この計画が実現していても、1970年代半ば過ぎまでには全てなくなっていたでしょう。1960年代に入るとこの地域でも自動車の数が飛躍的に増加していき、環八の完成を急がないと深刻な交通マヒを引き起こしかねません。
埼京線と営団南北線の建設は史実通りと思われますが、三田線は現在とはかなり違った形になっていたかもしれません。建設の優先権も与えられず、千代田線あたりより後にされた可能性もあります。
もともとの計画では「下板橋(新板橋)」が終点でしたし、志村西台町・徳丸町再開発計画が、史実通りに「区画整理→高層団地建設」と進んでいたかどうかも微妙です。グラントハイツ(光が丘団地)返還時期ともリンクしてきますが、大型団地は赤塚から練馬高松・田柄の台地、および江東区の臨海地域に建設する、徳丸水田については、東側に蓮根との間の緩衝地帯を作り親水公園として、西側を物流ターミナル団地とする計画が立てられたかもしれません。その場合、地下鉄の需要見込みが大きく違ってきます。
その代わり東武との乗り入れは最初から計画せずに済みますし、東急との乗り入れも交通局側から破談にして標準軌で作り、1号線の検修場を利用することも可能だったかもしれません。泉岳寺駅は両線が合流して京浜急行へつながる配線となり、阪急・阪神・山陽が合流する新開地駅と同じような位置づけになったでしょうか。
6号線は泉岳寺-地下鉄下板橋(新板橋)でまず開通、同区間の都電撤去。残存区間は荒川電車営業所赤羽派出所に移管。
次いで蓮根まで延長、地下鉄検修場を蓮根駅北の長後二丁目に開設して馬込検修場から独立、志村地区の都電撤去。
という流れを想像します。
という流れを想像します。
埼京線の建設が決まると戸田公園まで路線を延伸して、乗り入れは軌間が異なるため無理ですが、国鉄のホームの隣に地下鉄の終点が置かれる形となったかもしれません。