板橋区役所前停留所。 池袋駅行き乗り場は山手通り沿いにあり、 都電停留場や地下鉄駅からは離れている。 (2016年5月) |
仲宿を発車すると、正面に区役所庁舎のビルが迫ってくる。それをかわすかのように電車は左にカーブする。広い道が右へと分かれ、バスやトラックがひっきりなしに往来する。電車は板橋区役所前停留場に到着する。
☆山手通りとの“新追分”
板橋区役所前停留場で撮影された都電写真は多く残されていて、「昭和30年・40年代の板橋区」や、区立公文書館ホームページで見ることができる。当時の通勤風景もよく表現されている。巣鴨方面乗り場は山手通り仲宿終点をバックにしていて、中山道の車や都電乗客からよく見える位置に大きな広告看板を掲げている家屋が認められる。1965年ごろは滋養強壮ドリンクと思われる商品であったが、1966年の廃止直前にはコカ・コーラに代わっていた。戦中戦後の新聞広告は医薬品が大多数を占めていて、世の中が落ち着いてくるに従って清涼飲料水や、チョコレートなど今でいうスイーツ系の広告が増えていく流れにも合致している。その家の東隣は現在でも氷川町で営業しているガソリンスタンドで、50年前の写真でも出光の看板が認められる。広告看板を出していた家屋はビルに変わり、現在は進学塾が使っている模様。
2016年の姿を紹介する。高速道路の橋脚に、土地や町の記憶が眠る。
板橋区役所は、中山道と東京都道317号線(環状六号山手通り)が分岐する仲宿交差点前の三角地帯近くに設けられている。今となってはあまり交通至便とはいえず、練馬区役所を見るたびにため息が出てくるものの、都電時代基準で見るとロケーションとしては案外よい部類に属するだろう。
板橋町役場時代や、板橋区発足当時から戦後まもない頃まで使っていたはずの旧庁舎の写真はあいにく見当たらない。gooサイト航空写真を参照すると、1947年時点では学校の木造校舎のようなC字型の建物、1963年時点ではビル3棟がY字型に配置されていて、当時流行りの団地構造にもよく似ている。1932年(昭和7年)の板橋区発足から1947年までのおよそ15年間にわたり現在の練馬区も管轄していた歴史はよく知られているが、上石神井や関町あたりから仲宿へは現在でも直通交通機関がなく大変な道のりで、区役所に出向くだけで一日仕事であったことだろう。
板橋町役場時代や、板橋区発足当時から戦後まもない頃まで使っていたはずの旧庁舎の写真はあいにく見当たらない。gooサイト航空写真を参照すると、1947年時点では学校の木造校舎のようなC字型の建物、1963年時点ではビル3棟がY字型に配置されていて、当時流行りの団地構造にもよく似ている。1932年(昭和7年)の板橋区発足から1947年までのおよそ15年間にわたり現在の練馬区も管轄していた歴史はよく知られているが、上石神井や関町あたりから仲宿へは現在でも直通交通機関がなく大変な道のりで、区役所に出向くだけで一日仕事であったことだろう。
中山道から分岐、あるいは中山道と交差する主要道路は都心から離れる「日本橋基準下り方向」を主な流れとして枝分かれしているが、山手通りは都心方面に向かう「上り方向」に分かれている。その意味で「新追分」といえるかもしれない。
環七、環八の略称はすっかり定着している一方、山手通りを「環状六号」と言うことは滅多にない。環状六号線は仲宿が終点で、その先を作る計画も今はなく(大正時代は「環状六号其ノ二」計画があったという)東京外郭を回る環状線というイメージにつながらないためだろう。
国道・都道整備の歴史に関する資料はほとんど見当たらないため、山手通りがいつ頃今の広い道路になったかはわからない。この道は「高田道」と称されていた古道に並行して自動車走行に適するよう計画されたが、板橋町時代にはまだなかったはずである。goo航空写真サイトを参照すると、1947年の時点では大山東町の電話局あたりまで工事が進んでいた模様である。そこから先、池袋方面は高田道のままで、東武との交差は踏切を使っていたことがわかる。1963年時点では東武を越える陸橋が作られ、熊野町まで整備されていて、池袋方面への道が広がったことが確認できる。山手通りの整備も、志村線の帰趨に影響を与えた節がみられる。
☆モービルと火の見櫓
「都電が走った昭和の東京」と「都営交通100周年 都電写真集」には、右上にモービル石油の大きな看板が写る、荻原二郎さん撮影の都電写真が掲載されている。志村坂上行き18系統が広い道路でカーブしながら向かってくる場面である。いずれも「板橋区役所前付近」と記されている。
失礼ながら、この写真についても都心方面の誤りではないかと最初感じた。あまりにも板橋区離れした風景だからである。奥のほうや左側には街路樹もみられる。英語の看板はモービルだけで、他のビルは全てあの時代を思わせる日本語であるが、中央のコロムビアレコードの看板だけでも英語ならば、それこそ永井博さんのイラストにも出てきそうな構図になる。
この写真を元にして、街路樹を南国の棕櫚の木かカナリーヤシなどに変えて、英語の看板があふれる街並みをトラムがゆっくりとカーブしてくる夕暮れの場面などをイラストに描けば、いかにもではないか。一部のポップスファンにはよく知られている英国のバンド、The Honeycombsの楽曲
“Colour Slide”
でもBGMに流したいところである。この曲はちょうど都電志村線の時代(1965年)に発表されていて、その意味でも写真鑑賞にふさわしい。
この写真を元にして、街路樹を南国の棕櫚の木かカナリーヤシなどに変えて、英語の看板があふれる街並みをトラムがゆっくりとカーブしてくる夕暮れの場面などをイラストに描けば、いかにもではないか。一部のポップスファンにはよく知られている英国のバンド、The Honeycombsの楽曲
“Colour Slide”
でもBGMに流したいところである。この曲はちょうど都電志村線の時代(1965年)に発表されていて、その意味でも写真鑑賞にふさわしい。
…で、本当に板橋区なのか確かめなければならない。gooサイトの航空写真を参照したところ、現・板橋二丁目の板橋消防署脇にあるビルにモービルの看板が建てられている様が、その形状からすぐに確認できた。コロムビアレコードの看板は、かつて板橋区に本社を置いていたレコード店「星光堂」であろう。本社は2006年まで山手通り側にあったが、板橋営業所を中山道沿いに開いていたようで、この写真の位置に相当する。ビルの横にはキングレコードの看板も掲げられている。ライバル関係のレコード会社の広告を一堂に載せられる施設は、レコード販売店に限られよう。
高度成長期の、板橋区役所のお膝元の電車通りにこれほどアメリカンな場所があるとは驚きだったが、荻原さんが同じ日に同じ場所の反対方向を撮影した写真にはさらに驚かされた。「よみがえる東京 都電が走った昭和の街角」に掲載されているその写真には、消防車が留置されている建物の奥に昔ながらの火の見櫓が写っている。
荻原さんは全く意識していなかったであろうが、石油を売る米国企業の広告と、江戸火消し以来の伝統を誇る火の見櫓が道路をはさんで対峙しているロケーションはなかなかウィットに富んでいる。私も見ているはずだが、あいにくモービルの看板すら記憶に留まっていない。モービルは看板だけで、ビルは別の業種の会社が入居していた模様。住宅地図によれば、当時も現在も同じ会社で、建物も変わっていないとみられる。
荻原さんは全く意識していなかったであろうが、石油を売る米国企業の広告と、江戸火消し以来の伝統を誇る火の見櫓が道路をはさんで対峙しているロケーションはなかなかウィットに富んでいる。私も見ているはずだが、あいにくモービルの看板すら記憶に留まっていない。モービルは看板だけで、ビルは別の業種の会社が入居していた模様。住宅地図によれば、当時も現在も同じ会社で、建物も変わっていないとみられる。
火の見櫓側の2016年を紹介する。
今は、首都高速5号池袋線と中央環状線の接続道路が空を覆っている。
☆1966年の“東都自動車”
「昭和30年・40年代の板橋区」には、停留場に停車した電車の左側に「東都自轉車」(旧字体)と大きく記された、いかにも時代のかった看板を掲げる店舗が写る写真が掲載されている。電車は41系統志村橋行きで、キャピタルクリーム色であるため、そう古い時代ではなく1959年(昭和34年)以降の撮影と推定される。「東都自転車」を検索すると、亀戸と中野坂上で営業している自転車販売店という答えが得られた。写真の「東都自轉車」は果たして同じ会社なのかどうか、そこまではネットに情報がない。
一方、代替バス設置場所予定図には板橋区役所前の項目に「東都自動車KK」という表記がみられた。他の停留所には該当しそうな施設が見当たらない。
「東都自動車」はタクシー会社で、板橋区に縁がある。ホームページによると、1952年(昭和27年)に「志村タクシー」として小豆沢で創業したと記されている。しかし1958年(昭和33年)には本社を滝野川に移して、中山道沿いから離れている。社名は大東交通を経て、都電廃止後の1971年(昭和46年)に東都自動車に変更している。
1966年(昭和41年)の時点で「東都自動車」といえば、国際興業バスの前身である「東都乗合自動車」を意味していただろう。しかしその営業所が板橋区役所の近くにあったという話は聞かない。その時点で合併から15年以上過ぎていて、年輩の人でないと国際興業バスのことを東都自動車とは言わないだろう。
当時の市販地図にはもちろん「東都自轉車」は掲載されていない。
果たして真実を確かめる方法はあるのだろうか?
しばらく放置していたが、ある時「電話帳!」とひらめいた。
この時代、表通りに大きな看板を掲げている商店ならば電話帳に番号と住所を載せることはほぼ必須だったはずである。従って、その時代の電話帳があれば確認可能かもしれないと考えた。
しかし、電話帳は昔も今も消耗品扱いで、古い版は次々廃棄されてリサイクルに回される。明治時代、電話が導入された当初の電話帳は歴史的資料でも、半端に古い時代の電話帳を保存している機関はまず見当たらない。国会図書館で1965年(昭和40年)末時点での職業別電話帳を保存していることをつきとめたが、東京都区内の昭和期電話帳の公式保存はそれのみである模様。早速永田町まで出かけて請求してみた。
「自転車販売」の項目を引くと、東都自転車は単独で広告を出していて、亀戸店、中野店、板橋店と記されている。「板橋区役所電停前」と明記してあり、あっさりと解決できた。現在の東都自転車と同じ会社である。亀戸が本店で、おそらく後年板橋店を閉店したのであろう。この写真は板橋区役所前停留場、志村橋方面乗り場と確定した。巣鴨方面乗り場とは少し離れた場所に設置されていた。
「自転車販売」の項目を引くと、東都自転車は単独で広告を出していて、亀戸店、中野店、板橋店と記されている。「板橋区役所電停前」と明記してあり、あっさりと解決できた。現在の東都自転車と同じ会社である。亀戸が本店で、おそらく後年板橋店を閉店したのであろう。この写真は板橋区役所前停留場、志村橋方面乗り場と確定した。巣鴨方面乗り場とは少し離れた場所に設置されていた。
同時に、代替バス停留所の図面を作った交通局の人は書き間違いしていたことになる。その時代は「東都自転車デパート」として案内していたようで、写真の店舗はビルになり、看板も新字体の「東都自転車」にかけかえられていた可能性が高いが、思い込みで勘違いしていたものとみられる。
現在は店舗の建物があった位置でマンション建設工事が行われている模様。志村橋方面乗り場安全地帯があった場所は区立の自転車置き場付近とみられる。この地は昔も今も自転車に縁が深い。
現在は店舗の建物があった位置でマンション建設工事が行われている模様。志村橋方面乗り場安全地帯があった場所は区立の自転車置き場付近とみられる。この地は昔も今も自転車に縁が深い。
東都自転車板橋店跡付近。左のブルーシートのビル付近にあったとみられる。 手前の自転車置き場付近が都電の志村橋方面乗り場跡と推定される。 (2016年9月) |
☆停留場データ
開設日:1944年(昭和19年)7月5日
設置場所:<巣鴨方面>板橋区仲宿64付近(現在も同じ)
<志村橋方面>板橋区板橋町五丁目950付近(現・板橋区板橋三丁目7付近)
志村橋からの距離:営業キロ5.0、実測キロ4.962
※当初の位置からはおよそ100m志村方に移動した。1947年11月3日志村方に200m移設、1948年6月10日巣鴨方に100m再移設。
停留場形式:東西に分かれて安全地帯設置
停留場標:道路標識併用型
☆本停留場付近で撮影された写真が見られるメディア
(1) 書籍「よみがえる東京 都電が走った昭和の街角」(学研、2010年)
103ページ
41系統巣鴨行き6131 板橋消防署火の見櫓 撮影:荻原二郎 最終日
(2) 書籍「都電が走った昭和の東京」127ページ
書籍「都営交通100周年 都電写真集」114ページ
18系統志村坂上行き6127 モービル石油ネオン 撮影:荻原二郎 最終日
※以上2枚は同一写真
(3) 書籍「昭和30年・40年代の板橋区」45ページ
41系統志村橋行き 番号不明 東都自転車板橋店前
(4) 同書 47ページ
18系統志村坂上行き6148
(5) 同書 47ページ
41系統巣鴨行き6147
(6) 書籍「昭和30年・40年代の板橋区」47ページ
書籍「目で見る練馬・板橋の100年」 110ページ
書籍「目で見る練馬・板橋の100年」 110ページ
板橋区立公文書館ホームページ
41系統巣鴨行き6148
※以上3枚は同一写真
(7) 書籍「昭和30年・40年代の板橋区」12ページ
板橋区立公文書館ホームページ
区役所屋上から仲宿、大和町方面遠景撮影、1963年
※以上2枚は同一写真。ホームページの説明文に誤記あり