観光客におもねる名称に変えられた巣鴨車庫前。(2016年5月) |
巣鴨四丁目を出発すると、広いがどこか淋しげな白山通りを一直線に進む。右手に高岩寺の屋根が見えるとようやく町並みが近づいてくる。車掌が終点を告げ、乗り換え案内を始めると左手に平和相互銀行や三井銀行の看板がみられる。アーケード街の先端近く、地蔵通り入口のアーチの手前で停車する。志村橋からおよそ30分で、41系統の終点巣鴨車庫前に到着する。乗客を降ろすと乗務員が車内を一巡して発車。左に曲がり、車庫内に消えていく。
☆おばあちゃんも世代交代
巣鴨を現在の形で有名にした「おばあちゃんの原宿」と題する書籍は1989年に出版された。「考現学」というサブタイトルは、今さらながら怪しげであまり好感を持てない。事実、パソコンで直接変換できないではないか。この本は、その3年ほど前に公共放送局が、地蔵通り商店街を散歩する習慣を持つ高齢者を取材した番組を制作したことにヒントを得て出版されたという。
キャッチコピーなどインパクトの強い言葉は、一度定着すると良くも悪しくも「レッテル」と化して、それ以上の思考を止めてしまう副作用を持つ。このブログでも「東京の満州」「軍需輸送」などのレッテルがいかに事実をゆがめて伝えるかを検証している。「おばあちゃんの原宿」も、シールの頑固な接着剤の如く、いささか定着しすぎてしまったきらいがある。
高齢者を対象にした施策が発表されたり、選挙があったりするとテレビ局は必ず巣鴨を目指す。昨今はディレクターなどの責任者世代が既に若い人となっていて、余計に定型思考から抜け出せないのだろう。
ひと口に「おばあちゃん」というが、30年近くすぎればその中でも世代交代が起きているはず。本の出版当時の「おばあちゃん」は1900~1910年代、すなわち明治末から大正初期に生まれた人が主力で、幼い頃から庚申塚信仰などを聞かされる機会の多かった世代でもあろう。この層には長く生きた人が多いが、そろそろ生物としての寿命を迎える時期にさしかかっている。対して今の「おばあちゃん」は1930~1940年代(昭和初期)生まれが大多数のはず。昔は義母のつきそいなどで巣鴨に来ていたが決して楽ではなかった、しかし今更若い人向けの街などには行けないからここに来るという人も少なくないだろう。この世代は「女子会」的なイベントに最初に親しんでいるため、巣鴨に行くノリも上世代とは当然異なっているだろう。
その次の世代から後は「おばあちゃん」扱いを最も嫌う。孫ができれば「ばあば」でも、世間一般の「婆さん」イメージには激しく抵抗する。従って、高齢者特化をアピールした街づくりは、もうまもなく行き詰まってしまうと予想される。巣鴨車庫近辺は、外部の人が思考をストップさせて貼り付けるレッテルを強引にはがそうとはしないものの、そのあたりのことまで見越した動きを見せ始めている。
今後は、これまでの経緯を知らないがゆえに偏見を持たない若い層や外国人観光客が先入観なしに訪れてきて、巣鴨のふんいきはかなり大きく変わるかもしれない。本ブログ制作のため久しぶりに幾度か歩いてみたが、学生や若い親子づれの姿をむしろ多くみかける。すべてが豊島区民ではないだろうが、”消滅可能性自治体”など別世界のように思える。
今後は、これまでの経緯を知らないがゆえに偏見を持たない若い層や外国人観光客が先入観なしに訪れてきて、巣鴨のふんいきはかなり大きく変わるかもしれない。本ブログ制作のため久しぶりに幾度か歩いてみたが、学生や若い親子づれの姿をむしろ多くみかける。すべてが豊島区民ではないだろうが、”消滅可能性自治体”など別世界のように思える。
交通局の巣鴨電車営業所は1913年(大正2年)2月2日に開設された。当時は北豊島郡巣鴨町、すなわち東京市外であり、そこまで市電を延ばすこと自体野心的な投資であったことだろう。電気局は旧市内の路線網について公営一元化を成し遂げたら、次は旧街道沿い、もしくは明治時代に発展した工業地域に路線を延ばすことを目指したとみられる。
巣鴨は志村坂下地域と同様、中山道の立場(たてば)が置かれ、早くから茶店などが営業していたと伝わっている。一方大きく異なる点として、志村は戸田の渡しを控えた休息所および荒天の際の避難所的な意味合いを色濃く有していたが、巣鴨は高岩寺を筆頭に寺院が多く、庚申塚にも近く、江戸市中からのアプローチも手ごろだったため、物見遊山と称していた観光客も多く往来する地の利を得ていたことがあげられる。それゆえに志村の立場がひっそりと姿を消しても、巣鴨は全国的な知名度を得られたのだろう。結果的に都電志村線は、旧板橋宿の中心部の脇をかすめつつ、街道沿いの二つの立場を結ぶ“庶民的”な路線だったともいえる。
☆50年後を目前にして
都電写真によく登場する、巣鴨電車営業所事務棟はいつごろ建てられたか把握できていないが、都電がなくなると巣鴨自動車営業所として、都営バスの管理運行に引き続き使用された。事務棟は長年そのまま残されていたが、志村線廃止50周年を目前にした2013年に解体されている。この年は電気局が巣鴨に営業所を置いて100年であった。交通局は、かつて電車が出入していた三角線(さんかくせん)部分まで含めて、都電以来の車庫スペースの大半を売却対象とした。郵便局に売りたかったとも聞き及んだが、2016年5月28日、すっかり日が暮れた時間に志村橋からのウォーキングを終えようとしたところ、某大手ホテルチェーンのビルがまもなく完成するところで、まばゆい照明の中、内装工事の人が頻繁に出入りしていた。
その後、このビルの1階に郵便局も予定通り入居して開館した模様。近年の外国人観光客の増加を当て込んだ出店であることは明白である。外国人観光客は国際情勢が変化すると真っ先に影響を受ける「浮動票」ではあるが、「おばあちゃんの原宿」の強固なレッテルを知らない層に、まっさらな目でこの町を見てもらうには格好の契機となるであろう。とはいえ、ホテル脇に辛うじて残された細い道を出入りする格好になったバスの姿には、どこか哀愁が漂うこともまた事実である。
巣鴨車庫と巣鴨駅の間には商店街が設けられている。都電の全盛期から歩道にはアーケードが設置されていた。41系統や18系統の巣鴨止まりに乗ってきて、国電に乗り換えようとする人はおよそ200mの道を歩く必要があり、雨の日などは特に辛かったであろう。そんな乗客に対する地元の心遣いがうかがえる。近年はアーケードに太陽光パネルを設置していて、先を見据えた街づくりを真剣に考えていることがうかがえる。西武線の某駅近辺のように、武蔵野線と直結させると商店街に人が来なくなるからと通路を作らせず、多くの人を雨の中長々と歩かせるという根性とは対照的である。
都電写真に写っている食堂は、2010年時点ではまだ営業していたが、2016年には閉店していて、他の店に変わっていた。その隣の森永チョコレートの看板は幾度か塗り替えられただろうが、今も残されている。
巣鴨車庫から駅に続く商店街。 左の水産物看板の店は近年まで都電時代のままの食堂だった。 (2016年8月) |
☆当時の幼児からひと言
巣鴨車庫前における41系統の写真は、江本廣一さんが撮影された、地蔵通り商店街を背景にした夕暮れの出庫場面が「よみがえる東京 都電が走った昭和の街角」で、見開きで大きく取り上げられたため有名になったようで、ある都電イラスト本にも明らかにこの写真をモデルにした絵が掲載されている。しかしこの電車は、たまたまであろうが、本来「志村橋」を表示させる幕が「巣鴨」のままになっていて、後世の人に誤解を与えかねないところが惜しい。
「よみがえる東京 都電が走った昭和の街角」98~99ページ掲載写真 撮影位置付近。黒い自動車の左あたりに柵が設けられていて、 警察官が信号を示していた。軌道は手前から左に向かい、右奥方向 にカーブしていた。(2016年10月) |
この写真や「都電の消えた街 山手編」、Webサイトなどに掲載されている写真を見ると41系統の乗車位置には安全地帯が設けられていないことがわかる。簡単な柵で白山・春日町方面の車線と分けていて、警察官が腕で信号を示している。廃止決定前に野尻さんが撮影した写真では、降車専用の安全地帯が三角線近くに設けられていたようだが、後年撤去されたとみられる。
当時の幼児の目から見れば、これでよく苦情が出なかったものと思う。警察もあまり快く思っていなかっただろう。その頃繁華街に連れてもらった子供は、玩具や書籍や運動用具やお菓子などに加えて、水素を入れた風船を手にしていることが多かった。何かのはずみで風船が手を離れて、周囲が目に入らなくなり追いかけようとして、車道に出てしまう光景はおそらく日常的にみられたのではないだろうか。安全地帯は三角線の一辺上に設けられていて、神田橋方面から巣鴨車庫前を通り越して志村線に入る18系統しか使えない構造だった。18系統の巣鴨入庫便は41系統と同じはず。18系統の神田橋行きや、35系統の始発は駅に近い位置に停車して客を乗せるが、志村線運転当時にはやはり安全地帯を置いていなかったようである。志村線がなくなり35系統だけになると、さすがに安全地帯と柵を設置した模様だが。
☆巣鴨車庫発東洋大学前行き35系統
「トラムとメトロ」には、地下鉄工事中の1967年に高松吉太郎さんが撮影した巣鴨車庫前の写真が掲載されている。もちろん35系統のみである。2両写っていて、片方の8000形には「東洋大学前」の幕が表示されている。すなわち、巣鴨車庫発東洋大学前行きの区間運転が設定されていたことになる。志村線廃止時点での運転計画表には掲載されていないため、後になって輸送力調整のため追加された運用であろう。
東洋大学前(白山曙町)の渡り線は巣鴨方に設置されていたようで、もともとは2系統の折り返しに使われていた。すなわち、南から来る電車のためのものである。2系統は1日3~4本しか運転されていなかったため、西巣鴨以上に使う機会は少なかったことであろう。
志村線がなくなると、巣鴨営業所はこの渡り線を逆の北方向から使うことを考えたのであろう。2系統は終点で客を降ろすと一旦引き上げて、渡り線を通り三田まで戻っていたであろうが、35系統は神保町方面乗り場安全地帯で客を降ろした後、同じ乗り場で巣鴨行きとして新たに客を乗せて、発車後渡り線を通り折り返していったことだろう。
都電の路線で、ひとつの渡り線を両方向からの電車が使う例は他にみられただろうか。このエピソードもまた、35系統が志村線なき後のエースで、16・17系統と同じく、地域にとってまだまだ必要性の高い交通機関であった証であろう。
一方、林順信さんが同じ頃巣鴨車庫を撮影した写真には、35系統だけになっても「巣鴨四丁目」の隣接表記を残した停留場標が写っている。現在「都電おもいで広場」に展示されている築地の停留場標には隣の「三原橋」を消した跡が残されていて、地域によって様々な対応をしていたことがうかがえる。
☆銀行街道
都電志村線の50年後を歩いてみて、
無断転載・使用には厳しく接すると強面の注意書きが記されているため、ここで紹介するにもかなり恐れ多いが、夕暮れや夜に走る都電の姿を数多く紹介していて、ほかの都電写真を扱う書籍やサイトにはみられない、都電の表情に心打たれる。
☆銀行街道
都電志村線の50年後を歩いてみて、
「都内の中山道新道、国道17号は“銀行街道”である。
都電志村線が通じていた昭和30年代は、さらに顕著であった。」
都電志村線が通じていた昭和30年代は、さらに顕著であった。」
と、強く感じた。
都電現役時に撮影された沿線の写真には、とにかく金融機関が目立つ。
ほとんどの停留場において、都市銀行か信用金庫の姿が写っている。周囲の中でひときわ大きな看板を掲げていて、ランドマークの意味合いも有していた。
当時の都心周辺の町ならばどこでも同じような状態だったが、志村線には他の地域とはやや異なる色合いが認められる。
ほとんどの停留場において、都市銀行か信用金庫の姿が写っている。周囲の中でひときわ大きな看板を掲げていて、ランドマークの意味合いも有していた。
当時の都心周辺の町ならばどこでも同じような状態だったが、志村線には他の地域とはやや異なる色合いが認められる。
銀行についで目立つ存在は大きな工場の敷地。
その一方で繁華・商店街、娯楽・文化施設、中小工場、住宅地、今でいうライフライン施設など、当時の人々の暮らしに密接に関わっていたはずの建物は意外なほど影をひそめている。ガソリンスタンドや自動車・自転車販売店など、道路関係事業者はさすがに表通り沿いに出店していたが。
寺院や学校の姿がみられる地域もあるが、文教地区のように核を形成するには至っていない。
その一方で繁華・商店街、娯楽・文化施設、中小工場、住宅地、今でいうライフライン施設など、当時の人々の暮らしに密接に関わっていたはずの建物は意外なほど影をひそめている。ガソリンスタンドや自動車・自転車販売店など、道路関係事業者はさすがに表通り沿いに出店していたが。
寺院や学校の姿がみられる地域もあるが、文教地区のように核を形成するには至っていない。
商店街は志村から巣鴨まで、新道から櫛型に枝分かれするような細めの道沿いに作られている。住宅地や工場、学校などは、新道から一歩引いたところに設置されている。この姿こそが「新道」たる所以であろう。
都電志村線が中山道の路面を往復していた高度成長期は、周辺の企業や工場が生み出した富を、表通り沿いの金融機関が管理して、地元に還元することでさらなる成長を促していた。軍需目的で敷設されたと十把ひとからげにされがちな都電は、結果的に経済成長をバックボーンとした、平和で豊かな世の中を作るために最も貢献していたことが、数多くの写真から見事に浮かび上がってくる。
金融機関は、昭和終了後(1990年代以降)いわゆる「失われた10年、20年」で大きく変貌した。かつての花形産業も、一度風向きが逆になると何気ないことまでも悪く受け取られてしまう。都電写真に写っている銀行の多くは姿を消し、あるいは合併を繰り返して名前を幾度も変えた。その中で、地元の信用金庫が最も堅実に生き抜いてきたことは特筆に値しよう。
「なめくじ会の鉄道写真館」というWebサイトをみつけた。
個人および、親しい人たちのサークルで運営している模様である。
無断転載・使用には厳しく接すると強面の注意書きが記されているため、ここで紹介するにもかなり恐れ多いが、夕暮れや夜に走る都電の姿を数多く紹介していて、ほかの都電写真を扱う書籍やサイトにはみられない、都電の表情に心打たれる。
その中に掲載されている、志村線なき後の巣鴨車庫前夕暮れの都電写真を拝見して、この写真こそが志村線50年後のレポートのしめくくりに最もふさわしいと感じた。
18系統の後を受け継ぐ、35系統神保町行き6115が灯りともるころの巣鴨の街で発車を待つ。モノクロ写真だが、おそらく秋か年末近くのお天気のよい日に撮影されたのであろう、美しい夕映えが見られたことと思われる。
冷え込む夕暮れの町を歩いてきた乗客を温かく迎える電車の蛍光灯や、35の系統板の脇でひときわ強く光るヘッドライトは、まさに都電の晩年を象徴する姿であろう。
地下鉄工事の土砂掘削用のスキップが周囲をふさいでいる様子はみられない。35系統および巣鴨電車営業所の廃止が近づいた1968年(昭和43年)1~2月に撮影された写真には大きな構造物が商店街の前を塞いでいる姿が確認できるため、それ以前の撮影と推定される。
35系統のみとなった1966年(昭和41年)晩秋~1967年初めごろと考えている。
35系統のみとなった1966年(昭和41年)晩秋~1967年初めごろと考えている。
その向こう側、地蔵通り入口脇商店街のアーケードには志村線現役時代の同所写真にはまだ写っていなかった三和銀行、北海道拓殖銀行のビルが加わっている。引き上げ線として使用されている旧板橋線軌道には、もう1両35系統の姿がみられる。高度成長はまだまだ続くと信じられていた時代ならではの光景と感じた。
志村線廃止後に35系統発着用の停留場が設けられた位置付近。 (2016年10月) |
両行とも今はない。北海道拓殖銀行の末路は大きなニュースにもなった。三和銀行の後裔、三菱東京UFJ銀行は2010年にATMのみを残して当地から撤退、大塚支店に移転したということである。都営バスも大塚と巣鴨の統合が行われ、茗荷谷駅近くの文教地区の一角を占めていた、歴史ある大塚車庫は先年姿を消した。
半世紀の時は、確かに重い。
もう変わりようもないと思い込んでいた場所が絶句するほどの変貌を遂げていたり、1980年代さえもすでに遠い昔と思い知らされたり、45年後ならばまだ健在だったが、50年後を目前にして消えてしまった建物にもののあはれを思わされたりすることも少なくなかった。
都電を追い出して50年後の中山道都内区間は、高層マンションと介護施設、コンビニとファストフード、リサイクルショップが目立ち、今という時代をよく反映していた。
その一方で、寺院、工場、民家などに都電当時の面影が見つかり、地形の織りなす姿とともに、あの時代からの風が吹いてくるような、あの時代へと風が立つような気配が、街の随所に感じられた。
都電志村線の「41番」が通り抜けた都内の中山道は今もなお、この地域に根付いてきた歴史を静かに伝える道である。
半世紀の時は、確かに重い。
もう変わりようもないと思い込んでいた場所が絶句するほどの変貌を遂げていたり、1980年代さえもすでに遠い昔と思い知らされたり、45年後ならばまだ健在だったが、50年後を目前にして消えてしまった建物にもののあはれを思わされたりすることも少なくなかった。
都電を追い出して50年後の中山道都内区間は、高層マンションと介護施設、コンビニとファストフード、リサイクルショップが目立ち、今という時代をよく反映していた。
その一方で、寺院、工場、民家などに都電当時の面影が見つかり、地形の織りなす姿とともに、あの時代からの風が吹いてくるような、あの時代へと風が立つような気配が、街の随所に感じられた。
都電志村線の「41番」が通り抜けた都内の中山道は今もなお、この地域に根付いてきた歴史を静かに伝える道である。
☆停留場データ
開設日:1913年(大正2年)1月29日
旧名称:巣鴨二丁目(1918年ごろ~1931年ごろ)
設置場所:豊島区巣鴨二丁目28付近(現・豊島区巣鴨二丁目9付近)
志村橋からの距離:営業キロ8.3、実測キロ8.206
☆本停留場付近で撮影された写真が見られるメディア
(志村線廃止以降のものは除く)
(1) 書籍「東京都電風土記」170ページ
18系統志村坂上行き6097ほか1両 撮影:野尻泰彦 1963年3月
(2) 書籍「わが街わが都電」177ページ
18系統巣鴨行き7042 旧塗色、巣鴨車庫内、「志村坂上-巣鴨-白山上-神保町」サボ搭載
(3) 図録「トラムとメトロ」54ページ
18系統巣鴨行き3294 木造車、巣鴨車庫内、乗務員記念撮影 1941年ごろ
(4) 図録「都電のすむ街」26ページ
41系統志村橋行き6102 地蔵通り商店街入口
(5) 書籍「都電が走った昭和の東京」145ページ
車庫内トラバーサー 6100 装飾電車 撮影:吉川文夫 最終日
(6) 書籍「よみがえる東京 都電が走った昭和の街角」98~99ページ
41系統志村橋行き4060ほか1両 地蔵通り商店街入口 撮影:江本廣一
1965年2月
(7) 同書 101ページ
18系統6130 車庫構内出庫待ち 撮影:日暮昭彦 1966年3月
(8) 同書 100ページ
18系統志村坂上行き6106 撮影:日暮昭彦 1966年3月
(9) 同書 164ページ
18系統4056?ほか2両 出入庫線 撮影:江本廣一 1965年5月
(10) 同書 164ページ
35系統6099、6124 41系統6117 車庫内風景 撮影:江本廣一 1963年7月
(11) 書籍「都営交通100周年 都電写真集」114ページ
18系統行先不明7043
(12) 同書 137ページ
系統・行先不明 車庫出入口風景 撮影:阿部敏幸
(13) 書籍「故郷の風景 路面電車」(トンボ出版・1993年)90ページ
41系統巣鴨行き6100 装飾電車 撮影:神達雄 最終日
(14) 同書 91ページ
41系統巣鴨行き6100 装飾電車入庫場面 撮影:神達雄 最終日
(15) 書籍「懐かしい風景で振り返る東京都電」117ページ
書籍「都電の100年 Since1911」107ページ
41系統志村橋行き4074 地蔵通り商店街入口 撮影:五十嵐六郎 1966年5月
※以上2枚は同一写真
(16) 書籍「都電の100年 Since1911」107ページ
18系統、41系統 車両番号不明2両 撮影:楠居利彦
(17) 板橋区立公文書館ホームページ
書籍「昭和30年・40年代の板橋区」49ページ
書籍「目で見る練馬・板橋の100年」 110ページ
書籍「目で見る練馬・板橋の100年」 110ページ
41系統巣鴨行き6100 装飾電車巣鴨営業所事務所前降車風景 最終日
※以上3枚は同一写真
(18) 板橋区立公文書館ホームページ
41系統巣鴨行き6100 車庫入庫後の装飾電車 最終日
(19) 板橋区立公文書館ホームページ
18系統板橋本町行き6123
(20) 個人ホームページ 41系統巣鴨行き6129 敷石撤去
(21) 個人ホームページ 41系統志村橋行き6103 1966年5月
(22) 個人ホームページ 41系統志村橋行き6116ほか2両 1966年5月
(23) 個人ホームページ 18系統志村坂上行き4066 1966年5月
(24) 個人ホームページ 41系統志村橋行き6100 装飾電車出発 乗務員敬礼
最終日
(25) 個人ホームページ 41系統巣鴨行き6100 装飾電車到着 最終日
(26) 個人ホームページ 18系統志村坂上行き6146 カラー撮影
※説明文に誤記あり
(27) 個人ホームページ 41系統志村橋行き6129 出庫場面 カラー撮影
※説明文に誤記あり
(28) 個人ホームページ 18系統神田橋行き6125 カラー撮影
※説明文に誤記あり
(29) 個人ホームページ 41系統志村橋行き6100 装飾電車出庫待ち
※説明文に誤記あり
(30) 個人ホームページ 41系統志村橋行き6100 装飾電車出庫場面
※説明文に誤記あり
(31) 書籍「都電の消えた街 山手編」89ページ
41系統巣鴨行き6142ほか1両 地蔵通り商店街入口 撮影:諸河久 1965年3月
(31) 書籍「都電の消えた街 山手編」89ページ
41系統巣鴨行き6142ほか1両 地蔵通り商店街入口 撮影:諸河久 1965年3月
(32) 書籍「都電が走った街今昔」166ページ
41系統志村橋行き6001 撮影:田中登 1961年12月
(33) 書籍「東京の電車道」125ページ
41系統志村橋行き6100 装飾電車出発 撮影:高松吉太郎 最終日
(34) 同上
18系統巣鴨着6120 撮影:高松吉太郎 最終日
(33) 書籍「東京の電車道」125ページ
41系統志村橋行き6100 装飾電車出発 撮影:高松吉太郎 最終日
(34) 同上
18系統巣鴨着6120 撮影:高松吉太郎 最終日