2016年12月13日火曜日

長後町二丁目(三軒家)2016

三軒家停留所。長後町二丁目停留場付近。
(2016年5月)
チンチンとベルを鳴らし、つりかけ音を低音域から次第に上げつつ巣鴨に向けて動き始めた41系統の電車は、左手に都営バス志村車庫(交通局大塚自動車営業所志村分車庫。都電廃止に伴い志村自動車営業所として独立)を眺めながら南へ向かうが、1分足らずで三叉路を左に入り、早速停車する。そこが長後町二丁目の停留場である。

停留場近くのバス停留所名は「三軒家」(さんげんや)。都電営業時代からの名称である。現在も池21系統が停車する。戸田の渡しを控えた街道沿いに家が三軒建てられていたことに由来する地名で、明治・大正期の地図にも記されている。

☆「志村車庫前」布石の停留場?

東側は、バス車庫の土地以外はほぼ工場。西側には分かつ道(現在は“御成塚通り”=おなりづかどおり=の名称がつけられている、板橋区管理道路)との間に小さな商店や食堂、工務店や下請け部品工場が並ぶ。この場所に停留場がわざわざ設けられたことには、何かしらのいきさつがありそう。

志村橋-志村坂上間においては、長後町一丁目、志村坂下の2停留場がほぼ等間隔に設置されているが、長後町二丁目はそれをさらに半分に割ったような位置にある。もしかして、最初は計画に含まれていなくて、着工直前に追加された可能性もあるかもと考えかけたが、国立公文書館所蔵の志村-志村橋軌道敷設計画書類では「停留場工事5ヶ所」(延長に際して必要とされる志村停留場の増設工事も含む)と明記されているため、その推測は棄却される。単純に付近の工場通勤者の便を図ったとも受け取られるが、Webサイト「都営バス資料館」によればそれ以上の意味を有していた気配がうかがえる。

都営バス志村車庫は、もともとは都電の車庫として計画されていたという。志村橋開通から3年すぎた1958年(昭和33年)には設計も手がけられたらしい。しかし翌1959年(昭和34年)に、国際興業バス共同運行路線の輸送強化策に応じるため、バスの車庫に計画変更されたと記されている。この年には交通局の収支が赤字になり、一部路線で軌道敷内自動車走行解禁が始まった。いずれも都電にとっては致命的なダメージで、その後またたく間に路面電車撤廃論が大勢を占めるまでになったことはよく知られている。

このエピソードの検証は今となっては不可能だろうが、極めて夢のある話だろう。事実ならば志村車庫の土地(戦前は化学合成プラント工場「日本マグネシウム会社」。戦後しばらくは空き地だったとみられる。)は、志村橋延長免許下付とほぼ同時に交通局が購入、確保していたことであろう。長後町二丁目停留場の設置は将来電車出入庫を伴う「志村車庫前」として利用できるように布石を打ったとも解釈できる。この話題については後ほど改めて詳しく述べてみたい。

志村自動車営業所は都電廃止後の代替バス運転時代に大活躍したものの、1968年(昭和43年)末に地下鉄が開通すると時代から取り残されてしまった。埼玉県にも入り、都心と直結する長距離路線では都営交通が担当する意義も相応にあっただろうが、地域輸送では国際興業バスのほうに一日の長がある。都営志村車庫は次第に影が薄くなり、埼玉県乗り入れ打ち切り(1969年=昭和449月)を経て、1978年(昭和53年)11月には地元を通る営業路線がなくなり、他地域の路線まで回送する形となった。

現在、板橋区で唯一残る都営バスである環七経由の王78系統には大和町止まりの区間運転便があるが、それは大和町から中山道を志村車庫まで回送していた名残である。(廃止後は環七をUターンして杉並車庫まで回送していた。2016年現在は早朝6時台杉並車庫始発、大和町折り返し新宿駅行きが1本設定されている。)それも効率が悪すぎるということで、1982年(昭和57年)3月に車庫自体が廃止された。

1990年代には板橋区が公園施設として整備していたが、2000年代に入り、小豆沢の志村警察署の移転地候補となったらしく、白いフェンスで囲われてしまう。しかし2016年になっても、警察署の移転は実現していない。

長後町二丁目停留場そのものを直接撮影した写真はまだ見つかっていないが、諸河久さんが停留場の北側、御成塚通りとの合流地点から北に向けて志村橋方面を撮影した写真(1964年=昭和39年)が「都電系統案内」(ネコ・パブリッシング、2001年)45ページに掲載されている。その場所の2016年における姿を紹介する。

「都電系統案内 ありし日の全41系統」45ページ写真撮影位置。中央の和菓子店と右側の歩道でフレーミングを合わせる。三軒家百貨店跡に安楽亭が建てられていることがわかる。(2016年10月) 
諸河さんの写真で左側に写っている「三軒家百貨店」が、現在の安楽亭の場所である。その右2軒目にある和菓子マークは、志村橋電停から南方向を撮影した写真にも記録されている商店で、現在も同地で営業している。

停留場付近と推定される場所の東坂下二丁目側には板橋区の清掃事務所があるが、坂下三丁目側には都電運転当時からともみられる家屋がいくつか並んでいる。その中に、既に廃業した工具店の看板を見つけた。「長後2丁目」を一旦消して、「坂下3丁目」と書き直した跡が確認できる。この地域の町会は今でも「長後町会」であるが、家屋の表示ではおそらく唯一残った遺構であろう。


「東京都電風土記」では、310ページから311ページにかけて旧中山道清水坂(同書では“地蔵坂”の名称を使用)の描写を行い、「新道に出たところに『長後町二丁目』があった。(中略)ここから終点『志村橋』は近い。」と記している。

しかし大変失礼ではあるが、現在の御成塚通りを、清水坂を下りた先の旧道と誤認なされているか、もしくは「長後町一丁目」の誤記ではないだろうか。この地域の中山道は、旧道をそのまま拡幅している。旧道は清水坂を降りきってすぐの交差点を右折して、新道とクロスして東側に移り、環八交差点東北隅から長後町一丁目停留場(東坂下二丁目バス停留所)付近まで弓なりに続く道であり、同停留場付近で新道と合流している。清水坂を下りた交差点はつい直進してしまいそうになるが、その場合は地下鉄志村三丁目駅付近の御成塚通りに達する。この通りは、戦前の地図では中山道と合流する三軒家までは敷設されていなく、途中で終わっていることが確認できる。
(本ブログ「志村坂近辺2016の記事掲載地図参照)

長後町二丁目停留場付近。(2016年9月)



☆停留場データ

開設日:1955年(昭和30年)610
設置場所:板橋区長後二丁目16および17付近
(現・板橋区東坂下二丁目20および坂下三丁目23付近)
志村橋からの距離:営業キロ0.3、実測キロ0.290
停留場形式:不明
停留場標:不明

☆本停留場付近で撮影された写真が見られるメディア

(1) 書籍「都電系統案内」(ネコ・パブリッシング、2001年)45ページ
書籍「東京・市電と街並み」(小学館、1983年)131ページ
41系統巣鴨行き6103 撮影:諸河久 19644
以上2枚は同一写真