志村坂下停留所。(2016年5月) |
☆1980年代もはるか遠く
志村坂下停留場近辺は、都電の廃止と地下鉄の開通で最も不利益を被った地域であろう。地下鉄は西のほうを向いてしまい、代替バスがなくなると中山道の公共交通機関からは一気に見放されてしまった。現在の東京都道311号環状八号線を経由する赤羽方面への路線バスルートとはいえ、そのコースを利用する人にとってはわざわざ下車するほどの街ではない。
志村坂下停留場については、林順信さんが1983年(昭和58年)に「都電の消えた街 山手編」で取材して、諸河久さんが都電走行当時の写真と1983年時点における写真を対比させている。1983年写真には、奥のほうに「志村3丁目 国道17号線 中山道」と記している歩道橋が写っている。同じ表記のある歩道橋は今でも存在しているが、その場所は環八交差点に接している。最初私は、環八の工事の際に歩道橋を移設したのではないかと考えていた。現在の環八交差点南側が巣鴨方面乗り場、その奥の坂が始まる付近のパスタハウスあたりが志村橋方面の位置ではないかと目星をつけていた。
ところが、都電走行当時(1964年=昭和39年撮影)の写真右側に写っている電柱に取り付けられた板橋質店の広告の下に、「志村3-21」と記されていることに気づく。地図で確認したところ、旧・志村町三丁目21番地は現在の坂下一丁目1番地。その場所に出向いてみると、環八の拡幅工事で削り取られた交差点北側の一角に相当していた。最初の予測よりも北側に停留場があったことになる。
同書118・119ページ掲載写真の、2016年の姿である。
「都電の消えた街 山手編」118・119ページ掲載写真(1964年および1983年)撮影場所付近。 歩道橋との位置関係および電柱の質店看板に掲示されている番地から推定した。(2016年7月) |
まさに激変。“昭和最後の黄金時代”1980年代前半も、もはや遠い昔のこととしたたかに思い知らされた。林さんは停留場近くの洋食店の人に話を聞いているが、その店の位置は環八の歩道あたり。拡幅工事とともに、この地を去ったのであろう。暮れ始めた空に浮かぶ青ざめた月が、半世紀の歳月を照らし始めた。
環八沿いは道路が広くなっても、最近まで昭和後期のふんいきを残していたがこの企画の取材のため出向いたところ、道路の西側(国際興業バス志村営業所方向)に「驚安の殿堂」のすさまじく派手な照明サインがどかんと建てられていて、腰を抜かすほどに驚かされた。
都電廃止から半世紀後の、これが現実である。
高速道路ができると道の景観はふさがれるが、付近の街並みは立ち退き対象にならない限り、直接の影響は及ばない。ビル化が進んでも、どこかに昔ながらの建物は残されている。都電が走った街並みを変える大きな力はむしろ一般幹線道路の整備拡張であろう。これに遭うと、街は根こそぎ姿を消してしまう。
☆出井川、新小袋橋の欄干
「懐かしい風景で振り返る東京都電」(イカロス出版、2005年)56ページおよび「都電の100年」130ページ(同一写真)には、「都電の消えた街」とは逆方向から撮影した志村坂下停留場巣鴨方面乗り場写真が掲載されている。右端に写る三菱の看板(電機店)が、「都電の消えた街」写真左端の三菱電機洗濯機に相当する。
「懐かしい風景で振り返る東京都電」56ページ掲載写真撮影場所付近。 撮影位置は車道上と推定され、同じフレーミングはできない。 中央やや右側のガラス張り建造物が王子信用金庫跡。(2016年8月) |
この写真では電車の左奥、王子信用金庫のあたりで軌道に凹凸が認められる。これは当時の舗装技術によるものだろうか。さらにその左側、トラックが走るあたりに出井川の「新小袋橋」があった。今は暗渠にされて、細長い公園ができているが橋の欄干はそのまま残されている。「坂下薬局」が写る、「昭和30年・40年代の板橋区」44ページ掲載の写真(41系統6121旧塗色。昭和29年と解説されているがもちろん昭和30年以降の誤り。)も出井川近辺で撮影されたとみられる。1962年版の住宅地図によれば、撮影場所と推定される場所(2016年現在はホンダ自動車販売店)には当時国際興業バス志村営業所が存在していた。東都乗合自動車時代からこの土地を使っていた。道路向かい、現在の和食ファミリーレストラン華屋与兵衛の土地が車庫だった模様。
「昭和30年・40年代の板橋区」44ページ掲載写真撮影地点。 歩道橋奥の茶色が坂下薬局。オリジナルの写真はやや俯瞰で、 トラックの荷台あたりから撮影したとみられる。(2016年10月) |
暗渠化された頃、このあたりの出井川が小規模河川だったことは、現地を見ればただちに推測できる。一方「新小袋橋」というからには、付近が「小袋」と称されていた時代があったこともうかがえる。この一帯は、全体的には平坦とされている荒川低地の中でも、小規模な窪みがあり袋状に水がたまりやすい地形だったとも想像できる。日本坂道学会の森田一義さんが「池袋」の地名について推定している考え方と同様の由来を持つかもしれない。
「ぽこぺん都電館」には、2008年時点では新小袋橋梁上に“継ぎ目”があり、志村線の軌道があった部分のみアスファルトで埋められているというお話が掲載されている。
王子信用金庫は都電の停留場近くに支店を出したのであろうが、城北信用金庫に統合されて、2009年にこの地から撤退している。よく持ちこたえたと評価するべきだろう。
出井川新小袋橋跡。(2016年5月) |
巣鴨方面乗り場付近に残されていたコーラ広告看板。(2016年5月) |
☆小豆沢生まれのセルロイド
中山道、志村坂の東側は「小豆沢」(あずさわ)。現在の荒川の支流で小豆を運んでいた船が沈み、小豆が水面に浮かんで沢をなしているように見えたという平安時代の故事によるものと長年伝えられていて、それが定説となっているが、実は小豆とは何ら関係ないという説が近年浮上している。“アズ”は崩落の恐れがある崖地形を示す語で、麻布や阿佐ヶ谷なども同じ由来という。崖線の高さを見ると十分信ぴょう性がある。
「都電風土記」176ページでは小豆伝説について「東京湾の入江が内陸に深く入り込んでいたことを裏付けるような伝説」と評しているが、失礼ながら野尻さんは“縄文海進”についてあまりよくご存じでなかった様子。この地域まで海面が来ていた時代はおよそ6000年前とされていて、平安時代に相当する1000年くらい前は堆積物の蓄積により現在と大きく変わらない地形になっていたはずである。当地域まで海面が来ていたということは、気候が現代よりも相当温暖であり、小豆などの穀物が生育できる環境ではなかったという推論は、実際に温暖化に直面する以前の時代を生きた人にとっては難しかったであろう。わずか半世紀でもそこまで変わる。
「都電風土記」176ページでは小豆伝説について「東京湾の入江が内陸に深く入り込んでいたことを裏付けるような伝説」と評しているが、失礼ながら野尻さんは“縄文海進”についてあまりよくご存じでなかった様子。この地域まで海面が来ていた時代はおよそ6000年前とされていて、平安時代に相当する1000年くらい前は堆積物の蓄積により現在と大きく変わらない地形になっていたはずである。当地域まで海面が来ていたということは、気候が現代よりも相当温暖であり、小豆などの穀物が生育できる環境ではなかったという推論は、実際に温暖化に直面する以前の時代を生きた人にとっては難しかったであろう。わずか半世紀でもそこまで変わる。
このあたりは崖の上の大善寺を見上げる湿地帯であったはずで、徳川吉宗など鷹狩りに来た将軍や付き人は泥をかきわけながら鷹を放ち、ぬかるみに嫌がる馬をなだめつつ追ったことであろう。大正時代を迎えるまでその状態が続いていたが、1920年(大正9年)ごろに大善寺脇の崖を切り開いて一直線の志村坂が整備されたことにより工業化の道が開かれた。最初に進出した工場は「大日本セルロイド」(現在のダイセル)だった模様。もともと関西資本であるが、第一次世界大戦戦勝景気で東京進出を図ったものであろう。
セルロイドは「硝酸セルロース」の通称名だが、野口雨情が童謡の題材に取り上げたこともあり、今ではややノスタルジックな印象を与える語になっている。硝酸セルロースには爆発性があり、消防法危険物に指定されている上、長期間の保存に耐えられないという。
大日本セルロイド東京工場では昭和初期に、出入り業者の煙草不始末により大爆発を起こし、その音は帝都一円に鳴り響いたと伝えられている。その記録は板橋消防署史に詳述されている。その一方で大日本セルロイドでは1928年(昭和3年)工場内に「フィルム試験場」を設置して、写真フィルムの工業化研究を開始。1932年(昭和7年)に映画用ポジフィルムの開発に成功して、1934年(昭和9年)の富士写真フィルム創立により一般に普及したという。市内電車の記録が石版画から写真に変わった時期とほぼ一致している。
小豆沢は「写真フィルム発祥の地」でもある。
大日本セルロイド東京工場では昭和初期に、出入り業者の煙草不始末により大爆発を起こし、その音は帝都一円に鳴り響いたと伝えられている。その記録は板橋消防署史に詳述されている。その一方で大日本セルロイドでは1928年(昭和3年)工場内に「フィルム試験場」を設置して、写真フィルムの工業化研究を開始。1932年(昭和7年)に映画用ポジフィルムの開発に成功して、1934年(昭和9年)の富士写真フィルム創立により一般に普及したという。市内電車の記録が石版画から写真に変わった時期とほぼ一致している。
小豆沢は「写真フィルム発祥の地」でもある。
セルロイドといえば野口雨情の童謡よりも、それを下敷きとした松本隆さんの詞「ドール」を思い出す。筒美京平さんの作曲で、羽田健太郎さんがイントロでおもちゃのピアノを弾き、1978年(昭和53年)に発表された小ヒット曲。松本さんがセルロイドの危険性や脆弱性まで認識していたかどうかは定かでないが、セルロイドという言葉に潜む独特の哀しみをかぎとっていたであろう。
♪ドール、ドール、ドール、小豆沢ドール~
と歌いつつ、志村坂を登るとしよう。
☆停留場データ
開設日:1955年(昭和30年)6月10日
設置場所:<巣鴨方面>板橋区志村町三丁目5付近(現・板橋区東坂下一丁目9付近)
<志村橋方面>板橋区志村町三丁目21付近(現・板橋区坂下一丁目1付近)
志村橋からの距離:営業キロ1.2、実測キロ1.206
停留場形式:南北に分かれて安全地帯設置
停留場標:道路標識併用型
☆本停留場付近で撮影された写真が見られるメディア
(1) 書籍「都電の消えた街 山手編」119ページ
41系統志村橋行き4064 撮影:諸河久 1964年4月
(2) 書籍「懐かしい風景で振り返る東京都電」56ページ
書籍「都電の100年 Since1911」(イカロス出版、2011年)130ページ
41系統巣鴨行き6001 撮影:五十嵐六郎 1965年6月
※以上2枚は同一写真
(3) 書籍「昭和30年・40年代の板橋区」(三冬社、2009年)44ページ
41系統巣鴨行き6121 1955年ごろ
※説明文に誤記あり(昭和29年と掲載)