2019年12月9日月曜日

鉄道歌浪漫(2019年12月記)

2019年10月にCSチャンネルで「鉄道歌浪漫」という番組が放送されました。
雑誌「鉄道ファン」初代編集長の萩原政男氏が1960年代から1980年代初頭にかけて撮影した鉄道映像を紹介しつつ、往年のヒット歌謡曲・フォークソングをかけるというスタイルです。録画してしばらく放置していましたが、時間が取れてようやく見ました。

冒頭の「新幹線試作車1000形の回送牽引」の映像には驚きました。
1962年から神奈川県内に敷設された「新幹線モデル線」における走行試験用に製作された1000形電車を蒸気機関車D51が牽引する際の記録です。見たところ上部車体だけで、車輪や台車は取り付けられていない状態です。

映像のスタート地点は荒川区の隅田川貨物駅。
続いて、旧日光街道の踏切をゆっくり渡る場面。
撮影者は都電の南千住停留場にカメラを置いていた模様。
「南千住」の琺瑯停留場標や「パール石鹸」の広告、石灯篭型の標柱がしっかり映っています。南千住は22系統の終点で、他の終点停留場のようにそのまま折り返す形式ではなく、千住電車営業所と隣接していて、乗客を降ろした電車は左にカーブして一旦車庫に入り、車庫内で右に向きを変えて、日本橋・新橋方面行きとして貨物線踏切方向から出庫する運用を取っていました。庫内にループ線を置く形です。

すなわち時間によっては出庫してくる都電の車体と被る可能性があります。
撮影者さんは電車の運転士に「こういう事情だから、電車出すのを待ってくれますか。」と言ったのでしょうか。おおらかな時代ですからそのあたりの融通は効かせてくれたのでしょう。あるいは事前に、千住営業所から許可をもらっていたでしょうか。D51や1000形よりも、当時の街の様子に胸がいっぱいになりました。

続いて田端駅4番ホームから撮影。
現在新幹線の車両基地がある場所はかつて田端操車場で、様々な貨車が停車していました。私が生まれて初めて記憶した国鉄の車窓です。私はこの映像撮影から数ヶ月後に生まれましたが、その2年くらい後には入線する72系旧型国電の姿などを自力で記憶し始めています。人間の最初の3年間というものは結構素晴しいです。
映像が残されているとは思いませんでした。生きているうちにまた見られるとは感激のひと言です。

次は田端-上中里間、走行中の北行電車から撮影。田端トンネルを出て、操車場の北端に近づく地点とみられます。
南行の72系とすれ違い。行先板の文字は判読できませんが、三文字であることは確認できるため「桜木町」行きと推定できます。(当時根岸線はまだなく、桜木町が終点で、ここを昼間に通る南行電車の行先は蒲田、鶴見、桜木町の3種だから。)
幼い頃の私と同じく、撮影者さんは靴を脱いでブルーのフェルトのロングシートに膝を乗せて、窓を全開にしてカメラを向けたのでしょう。大人がやるとかなり目立っていたはずでは?

その次は、ひと目で王子の飛鳥山公園とわかります。現在でもそう大きく変わっていません。すなわち王子駅ホームからの撮影です。貨物列車は田端操車場でしばらく停車していて、撮影者はそれを利用して南千住電停から常磐線の駅へ走り、日暮里を経て田端で追いつく。貨物の発車を見送った後、京浜東北線北行に乗って上中里までに追い抜き、王子で降りて構える。当時この技を使えるとは、あらかじめ当局から運転ダイヤをもらっていた可能性が高そうです。

1970年代半ば以降、珍しい列車の運転がある時はホームが撮影者であふれ返るようになります。駅員が誘導や規制を行う場合も少なくありません。しかしこの頃はまだ、ホームで列車の撮影をしようと思い立つ人はほとんど存在せず、周囲は普段通りの日常風景です。それが一番貴重なことだと思えます。

次の広いヤードのような場面は場所がよくわかりません。一般用の踏切も映っています。順番から行けば赤羽のはずですが、高い位置からカメラを構えられる跨線橋はあったでしょうか。あるとすれば赤羽線と合流する南口側でしょう。 北口側はかなり後まで東北本線・高崎線の踏切が残されていて、そこの管理人はテレビ局の取材も受けていました。私自身も脇の地下道を幾度も通行していますから、跨線橋が作られていなかったことは確かです。

あるいは、京浜東北線ホームの桜木町方南端からの撮影でしょうか。赤羽線ホームが地平にあった時代で、見通しが利くはずです。私が30代の頃まで、赤羽駅西口は古い家屋が密集していました。

王子で撮影した人が電車に乗って、赤羽までの間に貨物を再度追い抜くことは無理なはずで、この先は萩原氏とは別の人が撮影を担当していた可能性もあります。当時映写機2台駆使がどれほどぜいたくなことかを思うと、編集部の意気込みが伝わってきます。

新河岸川の築堤に向けて登っていく様子の車窓撮影も私にはすぐピンときました。
鋳物工場の看板が見えて川口市内に入り、最後は川口駅2番ホームで見送る場面。
あのカーブには見覚えありますし、川口から先でホームがカーブしている駅はありません。

この方面に車体を送る用事ならば、行き先は大宮工場あたりでしょうか。
そこで台車や車輪などの取り付け工事を行って、鴨宮まで送ったのでしょうね。
その際は山手貨物線の池袋・渋谷経由で、電気機関車が牽引していたと想像しています。

バックで流れていた「明日があるさ」がまたよく似合っていて、涙が止まりませんでした。(この歌は翌1963年の発表で、撮影時点ではまだできていません。)資金節約のため解約も検討していたチャンネルですが、見ることができてよかったです。


この番組では他に小樽築港機関区、京都市電(京阪七条の平面交差も含む)、小海線、松浦線(お召し列車)、山陽本線の蒸気牽引20系寝台客車、飯田線、銚子電鉄、名鉄岐阜市内線などが取り上げられていました。説明もおおむね正確ですが、「あの素晴しい愛をもう一度」はフォーク・クルセダーズではなく、加藤和彦さん・北山修さんのデュオです。もともとは「シモンズ」のデビュー曲として加藤さんが依頼を受けた曲で、加藤さんはすぐに作曲を仕上げて北山さんに電話して聞かせて、「これは傑作だ!」と二人で盛り上がったといいます。ところがその話を聞いたレコード会社のディレクターが、フォークル再結成の呼び水に使おうとしたため二人は反発して、自分たちで歌うことは承諾しても、わざと横を向いている写真を小さくレコードジャケットに載せて抗議の意思を示したというお話ですから、そこは間違えないでほしかったです。

山陽本線の蒸気機関車のバックが「瀬戸の花嫁」というのも時代のずれを感じます。山陽本線の全線電化は1964年で、撮影は当然その前です。電化工事が始まっている気配もみられません。一方「瀬戸の花嫁」が発売された1972年は「ディスカバー・ジャパン」の時代で、山陽本線には電車特急・急行・20系や581系寝台列車が行き交う黄金時代でした。むしろ、沿線の富海出身の有馬三恵子さんの作品を使ってほしかったですね。

岐阜駅前は私がよく知っている通りのたたずまいで、電車がなくなるまであのふんいきでした。

荒川線新装記念花電車運転(1978年3月)の映像も紹介されました。
青帯になってからでは少し希少価値が下がるかな、と思いつつ見ていたら、王子駅に103系の国電が停車していて、その横を「なすの」か「信州」か「佐渡」かはわかりませんが、165系の急行がサッと走って行き、グリーン車を示すミントグリーンの帯がはっきり見えました。私が高校受験に合格した時ですが、映っている人、特に子供の服装は高度成長期とほぼ同じで、子供服のファッション化はまだ先のことだったと、改めて気づかされました。