2016年11月18日金曜日

志村線定説を検証する(1)18系統は区間短縮された? 考証編


都電志村線の軌道は、地下鉄6号線工事準備のため1966年(昭和41年)528日深夜~29日未明にかけて撤去されました。
この廃止により、18系統・41系統ともに運転を終えています。18系統の巣鴨車庫以南区間については、529日以降35系統に統合されたはずです…が?

都電について扱う書籍の中には

18系統は巣鴨車庫-神田橋間に短縮、1967年(昭和42年)831日限りで廃止。」

という説がまことしやかに記されているものが少なくありません。近年(2001年以降)出版された書籍のほとんどがこの説を採っています。当然、Webサイトやブログで都電について取り上げる人たちもこの説をそのままコピーペーストするため、今ではそれが史実であるかのように拡散してしまいました。

しかし現在でも残されている様々な資料から、その説は誤りであると考えられます。本ブログではこの問題について最終的に決着をつけて、今後出版される都電関連書籍や制作されるWebサイトではぜひとも正しい歴史を記していただくために、詳細な考証を行ってみます。

まず「東京都公報」です。

東京都がほぼ毎日発行する、都政に関する条例・例規などの改廃告示について都民および関係者に知らしめるための資料です。

東京都電車(都電)の系統・運転区間については東京都例規集のうち「第13編 交通 第2章 交通事業 第2節 運輸 第2款 電車」の「東京都電車の運転系統の名称および区間」にて定められています。

この事項に変更が加えられる際には交通局が「告示」として発表して、関連する規程もあわせて変更します。その告示・変更が行われた旨を東京都公報に掲載します。

調べてみたところ、東京都発足から1950年(昭和25年)ぐらいまでと1964年(昭和39年)331日(東京都条例第105号として「東京都電車条例」が施行された日)以降については、運転系統の名称および区間の改廃が東京都公報に掲載されていました。

注:上記空白期間の存在により、1950年代~1964330日までの改廃については掲載されていません。従って、志村線の志村橋延長について東京都公報で参照することはできません。他にも荻窪線(14系統使用)荻窪駅前停留場の位置変更(1956年=昭和31年)、両国橋線万世橋-秋葉原駅東口間軌道敷設による第13号系統運転区間の変更(1958年=昭和33年)、業平線柳島-福神橋間軌道敷設による第23号・第24号系統運転区間の変更(1958年)、蓬莱橋線新橋―汐留間軌道廃止による第6号系統運転区間の変更(1961年=昭和36年)などが漏れています。

東京都公報では1964331日時点で営業していた路線について「東京都電車の運転名称および区間」の告示として掲載、以後第27号系統および第32号系統の名称を荒川線に改定する1974年(昭和49年)101日までその改廃が逐次掲載されています。従って、1964331日以降は東京都公報が“公式記録”です。

昭和41年(1966年)526日発行 東京都公報 号外90号 23ページを参照してみましょう。「東京都電車の運行系統の名称及び区間の一部改正」という告示が、昭和41年第4号として掲載されています。以下引用します。

告示(交) 東京都交通局告示第四号

昭和三十九年三月東京都交通局告示第十三号(東京都電車の運転系統の名称及び区間)の一部を次のように改正し、昭和四十一年五月二十九日から実施する。

昭和四十一年五月二十六日 東京都交通局長(氏名省略)

第十八号系統  志村坂上 神田橋 12.359キロメートル(※)
第四十一号系統 志村橋 巣鴨車庫 8.307キロメートル

を削る。

東京都交通局電車営業所処務規程(昭和二十七年十一月東京都交通局規程第四十九号)の一部を次のように改正する。

別表中 交通局巣鴨電車営業所の項中「第十八号系統」及び「第四十一号系統」を削る。

附則

本告示は、昭和四十一年五月二十九日より実施する。

<引用終了>
※原文はキロ程も漢数字で記されています。

と、明瞭に記されています。
もしも短縮で残すならば「第十八号系統 志村坂上 神田橋 を、第十八号系統 巣鴨車庫前 神田橋 に改める。」と記すはずです。

さらに、1967年(昭和42年)8月の東京都公報も参照してみましょう。交通局関連の告示は

「東京都乗合自動車の運行系統の名称及び区間の一部改正」(831日付)

すなわち都営バスのみです。当時、東京駅-新佃島間で運行していた都営バス9系統について、91日から途中の経路を変更する旨の記載です。


これでほぼ十分かとも思いますが、念のためもうひとつ証拠を呈示しましょう。
国立公文書館には、旧運輸省から移管された文書が所蔵されています。都電志村線については、その敷設時と廃止時に交通局が関係省庁に提出した申請書類が残されています。それは国民に公開されていて、閲覧可能です。直接の複写は認められていませんが、写真に撮影することは許されています。

廃止に際して交通局は代替運行計画の詳細な表を作り、運輸省に提出していました。インターネットにアップロードすることは想定外の利用方法かもしれませんが、誤った説の流布を食い止め、より正確な記録を後世に残していくための手段として、あえて画像を掲載します。


“水戸光圀公の印籠”のようで恐縮ではありますが、これが動かぬ証拠です。
18 廃止、41 廃止」の文字が目に入りませんか。

この運転計画表では、従来101だった35系統の巣鴨車庫-田村町一丁目(→西新橋一丁目)間本系統を206に増便するほか、従来は18系統の“例外”だった神保町折り返し便を35系統例外として33から176に増便します。巣鴨車庫-神田橋間は早朝と深夜(おそらく始発と最終かと思われます)に1ずつ。35系統全体として384の大幅増便が組まれています。

注:交通局では例規集に定められている区間全てを走行する運用を「本系統」、同じ路線内でも途中の停留場で折り返す運用を「例外系統」としていました。臨時9・17・20222930系統など他の路線に進入する運用だけが「例外」ではありません。

ただし、運転計画表もまた絶対とはいえないことも正直に申し上げます。
1955年(昭和30年)の志村橋延長開業時点で作られた運転計画表は、その通りに実施されていなかった気配があります。

この計画表は志村坂上-巣鴨車庫の出入庫運用を41例外として、18は板橋町十丁目(→板橋本町)-神田橋を本系統、板橋町十丁目-神保町を例外系統とする内容です。すなわち18系統を板橋町十丁目-神田橋間に短縮することを盛り込んだものですが、実際には志村坂上発巣鴨行きは18の系統板をつけて運転されていて、本系統も引き続き志村坂上-神田橋で運転されていたことが写真から確認できます。ただし、1955年時点でツボ型系統板をつけた旧塗色18系統の写真は確認されていないため、全く実施されなかったという確証は取れません。一旦短縮が実施されて、後でまた神田橋まで延長された可能性も否定できません。前述の通り、東京都公報では確認できない時代です。

板橋区には1956年(昭和31年)実施の板橋警察署音楽隊パレード写真が残されていて、背後に旧塗色18系統ツボ型系統板の志村坂上行き6111が写っていること、および高松吉太郎さんが著した「東京の電車道」116ページに掲載されている1956年(昭和31年)101日版の「電車案内図」では志村坂上-神田橋で掲載されているため、仮に19556月時点で短縮が行われたとしても、195610月までには元に戻されていたことになります。

その事実をふまえてもなお、1966年(昭和41年)に作られた志村線廃止時の運転計画表はそのまま履行されたことが、状況証拠ですが確認できます。「都営交通100周年 都電写真集」の131ページ、35系統の項目を開いてください。右上に地下鉄建設工事中の巣鴨車庫前で撮影された写真が掲載されていて、35をつけた電車が引き上げ線として使われている旧板橋線軌道部分までずらりと並んでいる様子が記録されていま。西新橋一丁目行きも神保町行きもあります。この他にも1967年(昭和42年)に巣鴨車庫-神田橋間の白山通りで撮影された都電の写真は、1967年廃止説を唱えている方の腕によるものまで含めて、全て「35」です。

もう少し状況証拠となり得る資料を紹介しましょう。
1982年(昭和57年)に発行された「交通局70年史」には、18・26・32系統以外の38種の系統について、おそらく最終調査時点での一日乗客数の表が掲載されています。それによれば35系統は78,208人で、他を大きく引き離して「1位」です。2位は17系統57,651人、3位は16系統56,014人で、巣鴨・大塚地区の路線がとりわけ高い成績をあげていたことが読み取れます。志村線なきあとの都電の真のエースは1系統でも江東区の路線でも32系統でもなく「35番」でした。

78,208人という数字は18系統巣鴨以南の吸収合併がなければ達成しえないレベルです。Webサイト「ぽこぺん都電館」に掲載されている、軌道撤去計画が具体化する前の一日乗客数調査グラフを参照してみましょう。

35系統は1950年(昭和25年)の調査でおよそ29,000人、1960年(昭和35年)の調査でおよそ48,000人程度と読み取れます。一方、7万人を超えていた系統は1950年調査で11151821221960年調査で111315171821222728です。乗客数1位は1950年調査で22系統、1960年調査で15系統です。運輸省提出書類では18系統について1964年調査の一日乗客数80,310人も記録されています。18系統は戦後ほぼ一貫して一日7万~8万人程度を輸送していましたが、35系統は大塚・巣鴨地区の路線では最も低い成績にすぎませんでした。都電が東京の交通を阻害する一番の要因という非難が高まっていった時代に、なぜ35系統の乗客数が大幅に増えていったか、少し考えてみればわかりそうなものです。
 
交通局では文京区や豊島区の巣鴨・大塚・池袋地域では都電のニーズがまだ極めて高いということを十分承知しながらも、35系統を当初1系統他とともに第一次撤去対象に含めていたといいます。(交通局100年史による)1967年に交通局が財政再建団体に指定されてしまったということは相当な衝撃だったようで、焦りを生み出していたとみられます。

社会集団は焦りを持つと個人よりも意思決定でエラーを出しやすく、賢明な選択ができなくなるという心理学上の知見がありますが、当時の交通局もおそらくそのような状態に陥っていたのでしょう。地下鉄の巣鴨以南完成見込みがまだ正確に立てられない段階(当初は昭和45年度完成予定と地元に説明していたようですが、開通までさらに2年を要していて、小石川・白山地区は都合4年間放置されてしまいました)で、営業成績のよい巣鴨電車営業所を「見せしめ」のように廃止することを以って、「都電はなくす」という強い意思を知らしめる目的を兼ね備えていたとみられます。

35系統代替の都営バス535系統は電車の頃よりいくらか乗客が減ったとはいえ、15万人以上を運び、本数・乗客数ともに都営バス史上最多記録で、現在まで破られていないといいます。そこまでしても「なくしたいもの」でした。

当時の集団心理としては「都電など遅い乗り物は時代遅れ」とする考えが優勢でしたが、いざ自分の地元からなくなると聞かされると相当な反発があったのでしょう、交通局は第一次撤去対象から辛うじて外しましたが、わずか3ヶ月後の第二次撤去対象路線に指定するという姑息な手段を取りました。第一次撤去対象路線の選定は、19677月の労使合意を受けてただちに作業が始められていたものと推定されるため、その段階まで18系統を残す必然性は全くありません。

系統番号についてお話する記事でもふれましたが、18系統は志村延長時から数年間、短縮や延長を頻繁に繰り返しています。戦時中・戦後という特殊事情に加えて、走行距離が長くなりすぎて乗務員に負担をかける系統になっていたという事情もありました。1944年(昭和19年)に乗り換え制度が廃止されて、現在の路線バスと同様の乗車ごと支払い制に変更されたため、乗客はひとつの系統でなるべく遠くまで乗りたい、少なくとも用務先までの間では打ち切らないでほしいという要望を持ちます。それに対して現場では、長距離乗務は労働条件の実質切り下げとなるため、戦争中は国策もあって辛抱していても、戦後は労使交渉の議題に幾度となく取り上げられたとしても不思議ではありません。折からの物資・燃料不足も加わっての頻繁な運転区間改定だったことでしょう。世の中が落ち着いてからも現場は、機会あれば18系統乗務負担軽減を望んでいた節もみられます。志村橋延長決定時点での運転計画表は、その意思がにじみ出るものだったとも考えられます。

志村線の廃止が決まると、現場では長距離乗務一掃の最後のチャンスと受け取られた節もうかがえます。「35例外 巣鴨車庫-神保町」は長年の要望がようやく結実した運用とも解釈できます。それに「18」の札を掲げることは、現場職員の心理としてありえないでしょう。

さらに、都営バス105系統の存在についても見逃せません。
この系統は白山上から国道17号を東大農学部に向かい、文京区役所前や水道橋方面には行きませんが、巣鴨を越えて乗りたいという18系統の顧客ニーズにはある程度応えられる路線でした。35系統までなくなると、18系統のルートをほぼカバーする「105乙系統」(都営志村車庫-一ツ橋)も設定されています。公式には「代替」として定義されていませんでしたが、現場の運転士は柔軟な案内をしていたものと考えられます。

ちなみに、志村線廃止に伴う運賃特例は定期乗車券のみについて行われていました。廃止からおよそ1年間、1967年(昭和42年)531日まで、電車の料金(1ヶ月通勤660円など)で志村線内代替バス、同区間を走行する国際興業バス、および電車(35系統)との乗り継ぎができる特定定期乗車券が発売されていました。普通運賃については救済措置がなく、たとえば蓮沼町から白山上まで行く場合、志村線廃止前は18系統乗車15円で済んでいたところ、廃止後はバス(20円)と電車の運賃をあわせて35円と、倍以上の支払いを強いられます。一方105系統に乗れば、蓮沼町から白山上まで20円で済みます。

これだけ揃えれば、もうよろしいかと存じます。
東京都電車第18号系統(都電18系統)は1966年(昭和41年)529日付で全区間廃止されました。

「ぽこぺん談話室」で一時ささやかれていた「現場では35系統として走らせて、内部規程のみで存続」説の可能性もあり得ません。

今後、18系統が1966529日以降短縮されて残ったと主張することは、失礼ながら

「ナントカ細胞はあります!」

と言い張ることと、何ら変わりありません。

ナントカ細胞については、「あの研究者が行った実験手法では存在しない」ことは証明できても、「現象そのものが存在しない」ということではありません。しかし18系統については人間が作ったシステムのひとつですから、1966529日以降の運用は存在しないということの証明は可能と考えています。


<2019年5月追記>

2019年2月に朝日新聞社が制作しているWebサイト「AERA dot.」内の連載記事「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」で、ガスタンクを背景とした板橋駅前停留場付近を走行する18系統の写真が紹介されました。「18系統短縮説」を唱える写真家さんが撮影したもので、当然のようにその説が堂々と記事に載りました。当時を知らない人が信じてしまうではありませんか。

重ねて遺憾の意を表します。