私はメカニックな分野について全くの不案内です。都電車両の細かい点についてはほとんど説明できません。
幼い頃は「奥行き」という概念が理解できなかったため、動坂線などで6000形にあたると「太い電車、丸い電車」、8000形ならば「細い電車、四角の電車、明るい電車」と覚えていました。それぞれ正面脇が曲線型と角がある形状であることに着目していたのでしょう。
8000形は系統板が照明で輝くところが気に入っていました。後年8000形のアバンギャルドな走行ぶりに皆さん辟易していた旨の文章を読むたびに苦笑しています。
一度、夜に乗せられた際白熱灯照明の古い電車にあたり、シートも木造にフェルト張りで異様なふんいきを感じたことがあります。大塚仲町の交差点で白熱灯の列が窓硝子に映ると、いつもの祖父の家とは違うところに連れて行かれそうと錯覚して少し怖くなったことを覚えています。おそらくその車両は神明町車庫の当時最古参だった1100形でしょう。「1111」もあったそうで、写真に残されています。もう少し周囲の状況がわかる頃まで成長すると既になくなっていて、「妖しい電車」にもう乗らなくてよいと、ひそかに安心していました。記録によると、1967年の第一次撤去で40系統がなくなった際に廃車された模様です。
一方1100形の暗さなど、営団地下鉄銀座線の駅に到着する際前から順番に車内の照明が消えてまた点灯する様子よりはよほどましでした。あれは実に恐ろしく、黄色い電車だったこともあわせて「虎ノ門」とは何と恐いところだろうと、成人するまで思い込んでいました。成人して虎ノ門で撮影された都電写真を見ても、同じ場所とはなかなかイメージできませんでした。近年都電6系統後継の都01系統に乗る機会が幾度かあり、虎ノ門停留所を通るため、ようやく普通の東京都心の町であると認識できました。今ならばその地下鉄の車両も1100形もよい想い出で、また乗ってみたいと不意に思います。私にとっては1100形こそが「レトロ車両」で、現在荒川線で使っている空調完備、窓も開かず、合成樹脂板で覆い尽くされて照明だけを暗めにしている自称「レトロ車両」は”エセ”にすぎません。
志村線の車両については自分で覚える能力がまだ備わっていなかったため、資料に頼らざるを得ません。「都電の消えた街 山手編」の巻末には江本廣一さんによる「都電車庫別配置表」が紹介されています。志村線は巣鴨営業所管轄のため、表の巣鴨の項目を参照すれば中山道を行きかった都電の車両形式がおおよそイメージできます。
戦後まもない1947年(昭和22年)6月時点では、関東大震災後の1925年(大正14年)10月制定の形式番号が使われていて、戦後は消滅した「1400形」と木造の3000形(戦後の鋼製3000形とは異なる)が配属されていました。「鉄道ピクトリアル」誌の記事によれば、1400形はその時点でかなり老朽化がひどく、窓ガラスがなく全面板張りの車両もあったといわれています。翌1948年(昭和23年)には3扉の4100形、4200形も三田営業所から回されてきました。この年に戦後の番号変更が行われています。
木造車は昭和20年代のうちになくなり、志村橋開通以降は4000形、6000形、7000形(初代)、8000形の4形式態勢が廃止まで続きました。すなわち種類こそ多くないものの、都電の代表格がひと通り揃っていて、実用重視の姿勢だったことがうかがえます。1960年(昭和35年)3月末時点では4000形27両、6000形56両、7000形9両、8000形6両、計98両と記録されています。この布陣ならば、電照式アクリル製系統板をつけた7000形、8000形はまばゆく見えたでしょう。
1965年(昭和40年)3月末時点では4000形24両(-3)、6000形66両(+10)、7000形7両(-2)、8000形6両、計103両で最盛期を乗り切っています。
志村線廃止後の1967年(昭和42年)11月末には4000形24両、6000形20両(-46)、7000形6両(-1)、8000形6両が35系統専用で使われていました。4000形はそのまま残されていたため巣鴨車庫の廃止とともに廃車されたとみられます。6000形の大半は他の車庫で廃車された老朽形式代わりとして転属されたと考えられます。
主力の6000形は、いつのまにか三田から転属してきたトップナンバーの6001、最終日装飾電車に使われた6100が写真に記録されています。車庫構内移動の都合上、ビューゲルの代わりにZパンタグラフが搭載された車両がいて、18系統に使われていたことも知られています。
最後になりますが、交通局所有管理の鉄軌道車両は地下鉄も含めて、過去現在問わず「形」で表記され、「系」は使いません。「型」の文字でもないため注意を要します。