新庚申塚停留所。(2016年5月) |
ほどなく行く手を横切る都電の軌道が現れる。王子電気軌道が敷設して戦時中に東京市営となった滝野川線である。この線は荒川車庫-早稲田間の32系統が用いている。32系統はほとんどが専用軌道で、都電の中でも異色の存在として知られている。交差点の手前に新庚申塚の停留場がある。発車してすぐに、硝子窓の音とともに滝野川線、折戸通りとの交差を続けて渡る。大衆酒場や裁縫店の古めかしい看板は、長く地元の人に愛されている証であろう。
☆王電庚申塚と市電庚申塚
新庚申塚の停留場から折戸通りを南に120mほど歩くと、旧中山道の庚申塚に至る。庚申塚は、「人体には三尸(さんし)の虫が宿っていて、庚申(かのえさる)の夜、就寝中に体内から抜け出して、宿主の悪行や秘密を天帝にチクりに行く。ゆえに60日に一度、庚申の夜は徹夜で起きて、虫が出ないように祈祷しなければならない。」という言い伝えに基づいて1502年に建立された庚申塔が1657年の明暦大火で倒壊したため、がれきを埋めて塚を作り、それを代わりの信仰対象にしたと伝えられている。
僧侶も含めて身に覚えのない人はいないはずであるため、庚申信仰は人心に強く定着して、庚申塔は寺院のみならず、街道の要所にも建てられて信仰を集めてきた。中山道の庚申塚はその中でもひときわ知名度が高い。この地は巣鴨の外れに位置していて、休憩を終えて板橋宿へ向かう人にとっては旅の再開を印象づける塔であったことだろう。
僧侶も含めて身に覚えのない人はいないはずであるため、庚申信仰は人心に強く定着して、庚申塔は寺院のみならず、街道の要所にも建てられて信仰を集めてきた。中山道の庚申塚はその中でもひときわ知名度が高い。この地は巣鴨の外れに位置していて、休憩を終えて板橋宿へ向かう人にとっては旅の再開を印象づける塔であったことだろう。
庚申塚信仰は明治を迎えても庶民の間で盛んだったため、王子電軌は観光軌道として着目して、塚の近くで中山道を横断するルートを取り、1911年(明治44年)8月の開通時から道の脇に「庚申塚」停留場を開設した。それから18年がすぎた1929年(昭和4年)、庚申塚の北東側に新しい中山道が広い道幅を持って作られ、市電が板橋方面に向けて開通する運びとなった。市電は新道上に「庚申塚」停留場を設置。王電庚申塚と市電庚申塚が、やや離れた場所に存在する事態を迎えた。
工事が始まるまで、新道の場所は王子飛鳥山方面に向かう王電と折戸通りが水田や寺院を見つつ並んで進んでいく光景であったと想像される。そこには「弁財天みち」(王子の紅葉寺、岩屋弁財天に向かう道)の標柱が建てられていたという。
王電は庚申塚にダイレクトという地の利を有しているが、それでも市電の侵略?に多少は慌てたのか、市電開通のわずか1ヶ月後の5月24日、新道交差点脇に「板橋新道」(いたばししんみち)という停留場を作った。板橋方面に向かう新しい道という意味である。同時に、市電の庚申塚はちと離れてまっせ、お間違いのないようにいらっしゃいと、王電による牽制でもあっただろう。
何らかの「大人の事情」が働いたのかどうかは知る由もないが、市電の庚申塚と王電の板橋新道は翌1930年(昭和5年)、相次いで「新庚申塚」に改称した。その後戦時体制を迎えた1942年(昭和17年)に王子電軌は東京市に経営統合され、やがて滝野川線は不要不急路線扱いを受けて営業休止に追い込まれる。1946年(昭和21年)3月に復旧したものの、当初は新庚申塚のみの再開で、庚申塚停留場の再開は1948年(昭和23年)8月まで待つこととなった。1966年(昭和41年)5月に板橋線がなくなると、滝野川線の庚申塚と新庚申塚はわずかの距離を保ちつつ仲良く並ぶ形となった。
☆生涯最後の吊り掛け音
荒川線は1978年(昭和53年)のワンマン化後長らく、「系統番号時代生き残り組」7000形・7500形の車体改造車が主力で、昔ながらの「吊り掛け音」を響かせていた。冷房装置がつき、窓ガラスは枠のパッキングが進み、昔のような派手な音を立てなくなったものの、郷愁誘うモーター音はいつのまにか「首都圏唯一」となり、高田馬場や大塚に用事を持っていた頃は多少遠回りでも荒川線を使い、吊り掛け音の鑑賞に時間を充てることも幾度かあった。私にとってはそれだけで十分「観光」であった。
しかし2009年から新車の投入が本格化して、2011年の震災翌日には7500形が引退、7000形も気がつけば少数派となってしまった。うわさでは、2017年にも完全引退の予定という。以前は7000形が来るまで15分ぐらいならば停留場で待っていたこともあったが、新幹線のような音を立てて走る電車だけになってしまうと、それはもはや“都電”とはいいがたい。もう、荒川線に乗ることもなくなるだろう。あくまでも私見だが「東京都交通局王子荒川電車事業部」でも作り、「王電」の名称を復活していただければありがたいと思う今日この頃である。
しかし2009年から新車の投入が本格化して、2011年の震災翌日には7500形が引退、7000形も気がつけば少数派となってしまった。うわさでは、2017年にも完全引退の予定という。以前は7000形が来るまで15分ぐらいならば停留場で待っていたこともあったが、新幹線のような音を立てて走る電車だけになってしまうと、それはもはや“都電”とはいいがたい。もう、荒川線に乗ることもなくなるだろう。あくまでも私見だが「東京都交通局王子荒川電車事業部」でも作り、「王電」の名称を復活していただければありがたいと思う今日この頃である。
荒川線そのものの運行は今後とも続けてほしいし、東京都公営から変える必要はない。「東京都電車」の正式名称も、運賃体系も今のままで結構だろう。地域鉄道・観光鉄道としての役割はまだ十分ある。とは思うものの、「都電」としての案内はもう潮時ではないだろうか。現状では、往年の東京を知らない人への説明がとにかくややこしい。ろくに声を出せない身ではなおさらである。池袋駅前などまた路線を増やせるのならばまだしも、いつのまにか立ち消えならば「王電」のほうがよほどふさわしいのではないか。
2016年5月28日も、新庚申塚が近づくとそんなことを考えるようになった。もう、ほとんど日が暮れている。軌道を渡ったところで電車接近音が響く。振り返ると、7000形の生き残りである7001が王子方面からやってきて停車した。
あっ、と胸が高鳴る。脇では若い親子連れがスマホで記念撮影。おじいちゃんに送ろうねと話している。信号待ちで停車している間、咄嗟にカメラを向けて、惜別のシャッターを幾度か押した。
チンチンとベルが鳴り、電車は夕闇始まる空に吊り掛け音を響かせつつ中山道を渡る。行く手にはサンシャイン60のあかりが見渡せる。王子方面乗り場脇の低いビルは板橋線の時代から建てられている。三ノ輪橋行き新型車とのそろい踏みを写した際、何年か前に“おそらくは生涯最後の583系”と思いつつ、早朝の直江津駅から新潟に向かった時のことを思い出していた。
その後9月に、再度新庚申塚を訪ねた。
野尻さんが「東京都電風土記」に載せた写真の54年後。
高松さんが撮影した、志村線との交差場面の2016年の姿。
この7002が、おそらくは生涯最後に乗る“都電”となるだろう。
半世紀の時を経て改めて…さようなら「都電」。
☆停留場データ
開設日:1929年(昭和4年)4月19日
旧名称:庚申塚(1929年4月19日~1930年ごろ)
改称日:1930年ごろ
設置場所:<巣鴨方面>豊島区西巣鴨四丁目374付近(現・豊島区西巣鴨四丁目6付近)
<志村橋方面>豊島区西巣鴨四丁目257付近(現・豊島区巣鴨四丁目44付近)
志村橋からの距離:営業キロ7.3、実測キロ7.265
☆本停留場付近で撮影された写真が見られるメディア
(志村線廃止以降のものは除く)
(志村線廃止以降のものは除く)
(1) 書籍「都電春秋」184ページ
書籍「東京都電風土記」309ページ
41系統志村橋行き6134 撮影:野尻泰彦 1961年5月
※上記2枚は同一写真
(2) 書籍「東京都電風土記」173ページ
18系統志村坂上行き4065ほか1両 撮影:野尻泰彦 1961年6月
(3) 図録「トラムとメトロ」54ページ
系統・行先・車両番号不明の志村線と32系統早稲田行き 撮影:高松吉太郎
※「都電おもいで広場」5501車内にも掲示
(4) 書籍「都電が走った街今昔Ⅱ」110ページ
41系統志村橋行き6100 最終日装飾車、32系統荒川車庫行き7025
撮影:田中登 最終日
(5) 書籍「都電系統案内」47ページ
41系統志村橋行き6100 最終日装飾車 撮影:諸河久 最終日
(6) 個人ホームページ 系統・行先・車両番号不明
(7) 個人ホームページ 41系統巣鴨行き6100 装飾電車 カラー撮影
<参考>志村線の軌道を前景として滝野川線の電車のみを撮影した写真
(1)書籍「都電が走った昭和の東京」210ページ
32系統荒川車庫行き7055 撮影:吉川文夫 1960年5月
(2)書籍「都電の消えた街 山手編」127ページ
貨物電車乙2 撮影:諸河久 1966年5月
(3)書籍「懐かしい風景で振り返る東京都電」120ページ
32系統荒川車庫行き165、32系統早稲田行き3221 撮影:五十嵐六郎 1966年5月
<参考>志村線の軌道を前景として滝野川線の電車のみを撮影した写真
(1)書籍「都電が走った昭和の東京」210ページ
32系統荒川車庫行き7055 撮影:吉川文夫 1960年5月
(2)書籍「都電の消えた街 山手編」127ページ
貨物電車乙2 撮影:諸河久 1966年5月
(3)書籍「懐かしい風景で振り返る東京都電」120ページ
32系統荒川車庫行き165、32系統早稲田行き3221 撮影:五十嵐六郎 1966年5月