巣鴨方面の行く手左側に、“板橋(滝野川)のガスタンク”こと、東京ガス滝野川支店に設置されていた有水式ガスホルダーの巨大な円柱状鉄骨が姿を現していたためである。この施設は北区滝野川五丁目の赤羽線線路脇にあるが、高い建物が周囲になかった時代はひときわ目立ち、池袋三越の7階大食堂から北側の展望において、ほとんど唯一の景観アクセントであった。「千住のおばけ煙突」こと、東京電力千住火力発電所(足立区)の4本の煙突とともに、高度成長時代の都市近郊ランドマークの代表格であった。
このガスホルダーに吸い込まれるように電車は板橋駅前停留場に向かうのだが、沿線の見どころはそれだけに留まらない。都電としても興味深いポイントがあるが、皆さんどうも見落としておいでのようである。
☆電車通りのロードベイ
☆電車通りのロードベイ
Gooサイト航空写真(1963年版)を見ると、平尾交番で旧道を南に分かつあたりから板橋駅前停留場を経て、赤羽線陸橋の手前あたりまで都電軌道の南側に緑地帯が作られていることが確認できる。板橋区役所前停留場付近、板橋消防署やモービル石油看板の建物付近にも少し緑地帯がみられるが、板橋駅付近はかなり本格的に整備されている。
道路脇に作られる緑地帯は、今では「グリーンベルト」などと称しているようだが、板橋区では常盤台住宅地整備の際「ロードベイ」という言葉が使われた。この板橋駅前付近の電車通りも「ロードベイ」と形容するほうが、より似合いそうに思う。当時の板橋区らしからぬ心豊かな発想であった。都電写真にもほどよい借景となり、廃止が具体化する前に訪れた野尻さんの写真にも印象的に表現されているし、廃止時には多くの人が緑地帯越しに電車との別れを惜しんでいる様子が記録されている。
この”ロードベイ”は、中山道新道開通の頃には”アカシアの並木”として記録されていたという話が伝わっている。しかし「板橋区の昭和」に掲載された1959年撮影写真ではただのコンクリート板になっていて、樹木の姿はみられない。
新道建設当初には並木があったが、何らかの理由で一度撤去されて、1959年から1963年までの間に再び緑化を行ったとすれば説明がつく。
この”ロードベイ”は、中山道新道開通の頃には”アカシアの並木”として記録されていたという話が伝わっている。しかし「板橋区の昭和」に掲載された1959年撮影写真ではただのコンクリート板になっていて、樹木の姿はみられない。
新道建設当初には並木があったが、何らかの理由で一度撤去されて、1959年から1963年までの間に再び緑化を行ったとすれば説明がつく。
しかし、私が自力で街を歩いて回れるようになった1980年代初めごろには、この緑地帯は既に姿を消していて、自分の目で見た記憶はない。高速道路の計画はその時点ではまだかなり先で、林順信さんが「都電が走った街今昔Ⅱ」の取材で訪れた1998年ごろに着工している。
撤去の原因は地下鉄工事以外にないだろう。志村線の早期廃止は、中山道上に掘削土砂搬出用のスキップをたくさん建てると渋滞が激しくなるから軌道を撤去してほしいと警察から要請を受けたことによるものとされている。緑地帯も当然のように、1車線でも多く確保したいという理由で、地下鉄が着工すると待ちかねたように1本残らず根こそぎ伐採されたものと思われる。あげく名前が「三田線」では踏んだり蹴ったりであり、板橋区はこの件に関してもう少し怒りを持ってよろしいと思う。
☆シンプルカテナリーの架線
都電の架線はほとんどの路線において電線1本(トロリ線)のみを使い、歩道上の電柱との間で蜘蛛の巣のように線を張り巡らせて支えていたが、志村線では「シンプルカテナリー」を採用している区間がみられる。これは一般の鉄道で汎用されている架線で、トロリ線の上に線をもう1本通し(吊架線)、一定間隔で両者をつなぐハンガー線を設置して支える。トロリ線のみでは制限時速50kmであるが、シンプルカテナリーは車両の性能が許せば時速100kmまで出せる。路面電車では車両設計の段階で高速走行を想定していない上、公道としての速度制限が優先されるため、シンプルカテナリーは過剰設備気味でもあるが、鉄道が好きな人にはいかにも郊外電車的な道具立てと受け取られていたようである。
「都電の100年」では「志村坂上-志村橋の新線区間で採用されていた」と記されているが、写真をもう少しよく見てみよう。板橋駅前停留場付近で撮影された写真でもシンプルカテナリーが写っていることにお気づきにならないだろうか。志村線の写真を停留場順に並べてみると、板橋五丁目停留場ではトロリ線1本だが、旧下板橋停留場跡もしくは三菱銀行板橋支店前から、板橋駅前・滝野川五丁目停留場を経て、西巣鴨停留場あたりまでシンプルカテナリー架線が使われていることがわかる。
西巣鴨交差点から新庚申塚あたりではトロリ線のみに戻っているが、荻原さんが高岩寺付近で撮影した写真より、巣鴨四丁目から巣鴨車庫まではまたシンプルカテナリーになっていることがわかる。西巣鴨交差点のトロリーバス架線および新庚申塚の滝野川線架線交差近辺ではトロリ線のみとするものの、板橋駅前から巣鴨車庫までの板橋線区間は基本的にシンプルカテナリー化する方針が立てられていたとも考えられる。なお、志村地区では書籍の記述通りである。
三菱東京UFJ銀行板橋支店付近。銀行ビル前付近から、 再びシンプルカテナリー架線が採用されていた。(2016年6月) |
西巣鴨交差点から新庚申塚あたりではトロリ線のみに戻っているが、荻原さんが高岩寺付近で撮影した写真より、巣鴨四丁目から巣鴨車庫まではまたシンプルカテナリーになっていることがわかる。西巣鴨交差点のトロリーバス架線および新庚申塚の滝野川線架線交差近辺ではトロリ線のみとするものの、板橋駅前から巣鴨車庫までの板橋線区間は基本的にシンプルカテナリー化する方針が立てられていたとも考えられる。なお、志村地区では書籍の記述通りである。
この事実を知っていれば、都電写真撮影場所の誤りに気づくこともできる。
「わが街わが都電」の巣鴨営業所のページまで含めて、後年の都電本ではなぜか「板橋五丁目」と記したがる人が多いと見受けられるが、シンプルカテナリーが写っていればその写真は板橋駅前か滝野川五丁目が正しいと見抜けるだろう。
☆安全地帯は作られていなかった
板橋駅前停留場で撮影された写真は、荻原二郎さんなどプロの鉄道写真家によるもの、地元の人が撮影したものなど数多く残されている。「板橋区の昭和」125ページに掲載されている三菱銀行を背景にした写真では、路上から巣鴨行きの18系統電車に直接乗り込もうとしている人の姿が写っている。さらに、区立小学校社会科教材「わたしたちの板橋 昭和46年(1971年)版」68ページに掲載されている、板橋駅前で撮影された志村橋行き装飾電車の写真では、緑地帯から歩いて乗り込む形式になっていたことが確認できる。以上より本停留場においては、安全地帯は巣鴨方面・志村橋方面とも設置されていなかったと推定できる。
☆加賀の塩硝、板橋の火薬
最近は「東板橋」などとも称されている中山道(国道17号)北側の加賀一丁目・二丁目という町名は、江戸時代に加賀藩下屋敷があったことに由来する。板橋区ホームページの案内によれば、加賀藩主前田綱紀が1679年に幕府から平尾宿の北、石神井川沿いの土地およそ6万坪を拝領したことに始まり、全盛期には現在の板橋四丁目などにも拡張され218,000坪に達していたという。江戸時代の旧道から見れば、丘を越えた向こう側というロケーションである。邸内には回遊式庭園が作られ、貴重な動植物の飼育が行われ、贅を尽くしたお屋敷だったと伝えられる一方、歴代藩主は参勤交代の際にも滅多に姿を見せず、徳川政権時代を通じて数回にとどまったとも言われる。藩に勤務する武士やその家族たちの支度場所、および学問研究の場としての利用がほとんどであった。
金沢市に行くと「塩硝蔵(えんしょうぐら。煙硝蔵、焔硝蔵と書くこともある。)」という地名(俗称)が数ヶ所にある。塩硝は硝酸カリウム(消防法危険物第一類指定)のことで、黒色火薬原材料のひとつである。加賀藩では徳川の江戸開府前から越中五箇山の合掌造りの家で生産された塩硝を金沢市内まで運び、塩硝蔵で火薬調合を行い保存していた。抽出、精製、純度検定、調合方法、保管など化学物質を取り扱う技術レベルは相当高かったという。加賀といえば、徳川に対して謀反の意のないことをアピールするために藩主があえてアホを装っていた逸話が有名だが、その陰で国元では舌を出すように、とんでもないものを生産していた。幕府御公儀も当然把握していたはずだが実質的に黙認していたとみられる。
幕末が近づき、外国から軍事力を背景に開国を求められると、もはや謀反の恐れがどうのこうのと言っている場合ではなくなり、幕府は恥を忍ぶかの如く加賀藩の技術力を頼るようになる。この時代金沢では既に火薬のみならず大砲の砲身を鋳造する技術も確立されていたため、石神井川の水利を利用する形で江戸郊外の下屋敷を大砲製造所にあてた。この施策が後年の軍需産業の礎を築く。
明治に入り廃藩置県が行われ、加賀藩がなくなると新政府兵部省が1871年(明治4年)に旧下屋敷の土地を一部買収して、1876年(明治9年)に板橋火薬製造所を開設する。国内でも初期の国営工場として知られている。開設に伴いベルギーから輸入された「圧磨機圧輪」を設置。人力頼りだった塩硝蔵の技術よりさらに効率的に固めて爆発力を高める西洋式製造法を導入した。一方初めのうちは大きな戦争に直面していなかったため、民間向けの火薬販売と研究事業が中心だったといわれる。その状態でおよそ25年経過したが、明治30年代を迎え、20世紀に入ると日露戦争開戦に備えて軍備増強の必要が生じたために生産量が飛躍的に増加して、製造所の敷地も広がり、完全軍需施設となった。加賀の塩硝蔵以来の伝統が、板橋で近代化の風を受けて大きく成長したともみなせるだろう。市電の開通には、ここで働く人たちの通勤の足を確保する目的もあっただろうか。板橋火薬製造所は1940年(昭和15年)に「東京第二陸軍造兵廠」と改称されたため、当時を生きた人の間では「二造」の略称で知られている。
蛇足だが「東板橋」という表現も、私はあまり好まない。板橋、志村は東西南北の冠が似合わない地名と思える。
☆安全地帯は作られていなかった
板橋駅前停留場で撮影された写真は、荻原二郎さんなどプロの鉄道写真家によるもの、地元の人が撮影したものなど数多く残されている。「板橋区の昭和」125ページに掲載されている三菱銀行を背景にした写真では、路上から巣鴨行きの18系統電車に直接乗り込もうとしている人の姿が写っている。さらに、区立小学校社会科教材「わたしたちの板橋 昭和46年(1971年)版」68ページに掲載されている、板橋駅前で撮影された志村橋行き装飾電車の写真では、緑地帯から歩いて乗り込む形式になっていたことが確認できる。以上より本停留場においては、安全地帯は巣鴨方面・志村橋方面とも設置されていなかったと推定できる。
☆加賀の塩硝、板橋の火薬
最近は「東板橋」などとも称されている中山道(国道17号)北側の加賀一丁目・二丁目という町名は、江戸時代に加賀藩下屋敷があったことに由来する。板橋区ホームページの案内によれば、加賀藩主前田綱紀が1679年に幕府から平尾宿の北、石神井川沿いの土地およそ6万坪を拝領したことに始まり、全盛期には現在の板橋四丁目などにも拡張され218,000坪に達していたという。江戸時代の旧道から見れば、丘を越えた向こう側というロケーションである。邸内には回遊式庭園が作られ、貴重な動植物の飼育が行われ、贅を尽くしたお屋敷だったと伝えられる一方、歴代藩主は参勤交代の際にも滅多に姿を見せず、徳川政権時代を通じて数回にとどまったとも言われる。藩に勤務する武士やその家族たちの支度場所、および学問研究の場としての利用がほとんどであった。
金沢市に行くと「塩硝蔵(えんしょうぐら。煙硝蔵、焔硝蔵と書くこともある。)」という地名(俗称)が数ヶ所にある。塩硝は硝酸カリウム(消防法危険物第一類指定)のことで、黒色火薬原材料のひとつである。加賀藩では徳川の江戸開府前から越中五箇山の合掌造りの家で生産された塩硝を金沢市内まで運び、塩硝蔵で火薬調合を行い保存していた。抽出、精製、純度検定、調合方法、保管など化学物質を取り扱う技術レベルは相当高かったという。加賀といえば、徳川に対して謀反の意のないことをアピールするために藩主があえてアホを装っていた逸話が有名だが、その陰で国元では舌を出すように、とんでもないものを生産していた。幕府御公儀も当然把握していたはずだが実質的に黙認していたとみられる。
幕末が近づき、外国から軍事力を背景に開国を求められると、もはや謀反の恐れがどうのこうのと言っている場合ではなくなり、幕府は恥を忍ぶかの如く加賀藩の技術力を頼るようになる。この時代金沢では既に火薬のみならず大砲の砲身を鋳造する技術も確立されていたため、石神井川の水利を利用する形で江戸郊外の下屋敷を大砲製造所にあてた。この施策が後年の軍需産業の礎を築く。
明治に入り廃藩置県が行われ、加賀藩がなくなると新政府兵部省が1871年(明治4年)に旧下屋敷の土地を一部買収して、1876年(明治9年)に板橋火薬製造所を開設する。国内でも初期の国営工場として知られている。開設に伴いベルギーから輸入された「圧磨機圧輪」を設置。人力頼りだった塩硝蔵の技術よりさらに効率的に固めて爆発力を高める西洋式製造法を導入した。一方初めのうちは大きな戦争に直面していなかったため、民間向けの火薬販売と研究事業が中心だったといわれる。その状態でおよそ25年経過したが、明治30年代を迎え、20世紀に入ると日露戦争開戦に備えて軍備増強の必要が生じたために生産量が飛躍的に増加して、製造所の敷地も広がり、完全軍需施設となった。加賀の塩硝蔵以来の伝統が、板橋で近代化の風を受けて大きく成長したともみなせるだろう。市電の開通には、ここで働く人たちの通勤の足を確保する目的もあっただろうか。板橋火薬製造所は1940年(昭和15年)に「東京第二陸軍造兵廠」と改称されたため、当時を生きた人の間では「二造」の略称で知られている。
蛇足だが「東板橋」という表現も、私はあまり好まない。板橋、志村は東西南北の冠が似合わない地名と思える。
☆「国鉄板橋駅前駅」?「平尾追分駅」?
板橋駅前停留場は、野尻さんや荻原さんが撮影された写真に記録されている停留場標の位置から推定して、現在の地下鉄新板橋駅よりもさらに200mほど西側(志村橋方面)に設置されていたとみられる。板橋駅からおよそ550m離れていて、いささか苦しい名称である。この距離はそのまま中山道の新道と旧道の間隔である。平尾交番から旧道を歩くと、坂を下っているという感覚はほとんどないが、板橋駅前から地下鉄の新板橋駅に向かうといつのまにか新道との間に高低差ができていて、新板橋駅出口横には階段まであり驚かされる。不思議な地形である。
地下鉄入口のすぐ脇が石神井川沿いの谷間に向かう急坂。 (2016年9月) |
旧道は、おそらく南側の池袋本町との境を流れていた谷端川沿いの、比較的平坦な土地を選んで作られたのであろう。日本坂道学会の森田一義さんによれば、この近辺こそが「池袋」の地名の源であるという。谷端川の南に展開していた斜面に、袋状のため池が点在していたことを示す名前という考えである。明治時代初期までは池袋村が存在したが、1889年(明治22年)以降は巣鴨村(のち西巣鴨町)、板橋町などの大字名であった。当時の旧中山道の知名度も勘案すると、現在の駅前など雑司が谷地区由来説よりも信憑性が高いと考えられる。
話がそれたが、旧道は板橋駅前から板橋宿方面に向かってゆるやかな上り坂であったと考えられる。対して新道は谷端川と石神井川を隔てる尾根筋に作られた。前述の通り日本鉄道は中山道と交差する形の品川線建設にあたり、この尾根筋の掘削を最小限に済ませられる位置に切通しを作り線路を敷設して(1885年=明治18年)、後年の中山道新道工事の際(1927年=昭和2年ごろ)はその上に陸橋を架けて開通させたとみられる。旧道は現在でも踏切を使っているが、新道は鉄道の運行と干渉しあわない設計にすることが建設条件のひとつであっただろう。この工夫の上に市電の開通も可能になった。
話がそれたが、旧道は板橋駅前から板橋宿方面に向かってゆるやかな上り坂であったと考えられる。対して新道は谷端川と石神井川を隔てる尾根筋に作られた。前述の通り日本鉄道は中山道と交差する形の品川線建設にあたり、この尾根筋の掘削を最小限に済ませられる位置に切通しを作り線路を敷設して(1885年=明治18年)、後年の中山道新道工事の際(1927年=昭和2年ごろ)はその上に陸橋を架けて開通させたとみられる。旧道は現在でも踏切を使っているが、新道は鉄道の運行と干渉しあわない設計にすることが建設条件のひとつであっただろう。この工夫の上に市電の開通も可能になった。
中山道新道立体交差と石神井川沿い、加賀地区の谷地形。(2016年9月) |
しかし都電を地下鉄に変える際、駅名選定には大いに迷ったことであろう。仮称は「下板橋」だったはずだが、それこそ東武の駅と混同されかねないため使えない。東武が相互乗り入れに協力しないのならばせめて下板橋を「池袋本町」に改めよ、と強気に出てもよいところだったが。
代替バスは「板橋駅通り」としたが、板橋駅に向かう道路は一直線ではなく、左折を必要とするためやはりわかりづらいという意見が多かったとみられる。だからと言って、採用された「新板橋」も本来ならばありえないはずの駅名である。板橋本町の項で触れたとおり、新板橋は新中山道が石神井川を渡る橋の名前であり、駅からは仲宿を越えて1.6kmほど離れている。歴史や地名を尊重するならば、平尾宿に近く、旧川越街道の分岐点であることから「平尾追分」もしくは「板橋追分」がふさわしい。旅情もわくというものだが、高度成長期の交通局にはいささか高尚すぎる駅名かもしれない。
交通局は何とかして板橋駅最寄りであることがわかる名前にしたかったのだろう。それならば、当時は「国鉄千葉駅前」という駅が存在していたのだからいっそ「国鉄板橋駅前」と開き直るほうが、よほどましだったと思う。民営化したら「旧国鉄板橋駅前」に改称すればよろしい。近年は不動産業者が駅名を冠して物件の名前をつける慣習が定着しているため、若い人は地下鉄の駅付近が「新板橋」と信じて疑わないだろう。嘆かわしいことである。
代替バスは「板橋駅通り」としたが、板橋駅に向かう道路は一直線ではなく、左折を必要とするためやはりわかりづらいという意見が多かったとみられる。だからと言って、採用された「新板橋」も本来ならばありえないはずの駅名である。板橋本町の項で触れたとおり、新板橋は新中山道が石神井川を渡る橋の名前であり、駅からは仲宿を越えて1.6kmほど離れている。歴史や地名を尊重するならば、平尾宿に近く、旧川越街道の分岐点であることから「平尾追分」もしくは「板橋追分」がふさわしい。旅情もわくというものだが、高度成長期の交通局にはいささか高尚すぎる駅名かもしれない。
交通局は何とかして板橋駅最寄りであることがわかる名前にしたかったのだろう。それならば、当時は「国鉄千葉駅前」という駅が存在していたのだからいっそ「国鉄板橋駅前」と開き直るほうが、よほどましだったと思う。民営化したら「旧国鉄板橋駅前」に改称すればよろしい。近年は不動産業者が駅名を冠して物件の名前をつける慣習が定着しているため、若い人は地下鉄の駅付近が「新板橋」と信じて疑わないだろう。嘆かわしいことである。
あるホームページに、滝野川ガスホルダーを背にして向かってくる志村橋行きの最終日装飾電車の写真が掲載されている。当日諸河さんが構えていた位置よりもさらに志村橋方、平尾交番の近くから望遠を効かせたとみられる。この写真では軌道の高低差が明確に写し出されている。新道もまた、赤羽線陸橋方向にやや下り坂だったことがわかる、優れた写真である。
現在、この地域は首都高速道路外環状線に覆われてしまった。5号線下の清水町、大和町、板橋本町近辺は丹念に歩くと往年の面影に出会える場所も見つかるが、板橋駅前付近は道路北側に急斜面があることも影響しているためか、往年の様子を伝えるものは全くと言ってよいほど残されていない。東京ガス滝野川支店は現在でも営業しているが、ガス貯留施設は既になく、ただのビルに変わっている。ガスホルダーを背景にした写真の50年後撮影は不可能。1978年(昭和53年)に都営バスが撤退してからは停留所もなくなった。
「夕焼け小焼け 瓦斯タンク。童謡詩人が唄いさうな景色」(中川一政) から80年あまりの景色。ガスホルダーは右奥のビル付近にあった。 (2016年5月) |
2016年5月28日に歩いた際、このあたりに到達したのは19時過ぎであった。この季節の19時は日没間もない時間帯で、まだ十分明るい。50年前も日の出日の入りは同じ時刻だったはず。日の長い土曜日の夕暮れ、車内の蛍光灯が流れるように目の前を通りすぎ、赤いランプが濃紺の空へ去っていく姿に思わず足を止めた人も少なくなかっただろう。
☆停留場データ
開設日:1929年(昭和4年)5月27日
旧名称:板橋郵便局前(1929年5月27日~1944年ごろ)
板橋町六丁目(1944年ごろ~1945年ごろ)
改称日:1945年ごろ
設置場所:<巣鴨方面>板橋区板橋町六丁目3250付近(現・板橋区板橋四丁目8付近)
<志村橋方面>板橋区板橋町六丁目789付近(現・板橋区板橋一丁目43付近)
志村橋からの距離:営業キロ5.7、実測キロ5.752
停留場形式:安全地帯設置なし
停留場標:不明
☆本停留場付近で撮影された写真が見られるメディア
(1) 書籍「都電春秋」110ページ
書籍「東京都電風土記」173ページ
18系統志村坂上行き6125ほか1両 撮影:野尻泰彦 1963年3月
※以上2枚は同一写真
(2) 書籍「都電が走った街今昔」(JTB、1996年)113ページ
18系統神田橋行き6289、41系統志村橋行き6123 撮影:田中登 1965年3月
(3) 書籍「わが街わが都電」113ページ
書籍「懐かしの都電 41路線を歩く」(実業之日本社、2004年)83ページ
18系統志村坂上行き6121
※以上2枚は同一写真。いずれも「板橋五丁目」と説明されているが、「都電が走った街今昔」の板橋駅前停留場標が写る写真で、電車奥のビル形状がこの2枚の電車右側のビルと一致するため、「板橋駅前」の誤りとみなせる。
(4) 「都電の100年 Since1911」107ページ
18系統志村坂上行き6103 撮影:楠居利彦
(5) 書籍「わが街わが都電」177ページ
18系統巣鴨行き7087 ※撮影場所検証については「志村線謎の写真」参照
(6) 図録「トラムとメトロ」55ページ
「週刊広報いたばし 第1382号 平成10年7月18日」(板橋区役所、1998年)
18系統志村坂上行き6107 撮影:荻原二郎 最終日
※以上2枚は同一写真
(7) 図録「トラムとメトロ」8ページ
書籍「都電が走った昭和の東京」24ページ
18系統巣鴨行き6106、41系統志村橋行き6134 撮影:荻原二郎 最終日
カラー撮影
※以上2枚は同一写真。「都電が走った昭和の東京」は説明文誤記。
(8) 書籍「よみがえる東京 都電が走った昭和の街角」102ページ
書籍「都営交通100周年 都電写真集」114ページ
18系統志村坂上行き6107 乗降風景 撮影:荻原二郎 最終日
※以上2枚は同一写真
(9) 書籍「おもいでの都電」40ページ 18系統神田橋行き7063 撮影:諸河久
(10) 図録「都電のすむ街」26ページ 18系統志村坂上行き8042
(11) 書籍「昭和30年・40年代の板橋区」46ページ
書籍「目で見る練馬・板橋の100年」 85ページ
書籍「目で見る練馬・板橋の100年」 85ページ
18系統志村坂上行き6111 旧塗色 板橋警察署音楽隊パレード 1956年
※以上2枚は同一写真
※以上2枚は同一写真
(12) 個人ブログ 18系統神田橋行き4082
(13) 個人ブログ 41系統巣鴨行き6129
(14) 個人ブログ 18系統神田橋行き6250 国電陸橋上
(15) 書籍「都電系統案内」22ページ
書籍「東京・市電と街並み」114ページ
18系統志村坂上行き6103、ほか1両 撮影:諸河久 最終日
※以上2枚は同一写真
(16) 個人ホームページ 41系統志村橋行き6100 最終日装飾車
(17) 書籍「板橋区の昭和」125ページ
18系統巣鴨行き6113、41系統志村橋行き6111
(18) 板橋区立小学校社会科副教材「わたしたちの板橋 昭和46年版」68ページ
41系統志村橋行き6100 最終日装飾車 ほか1両
(15) 書籍「都電系統案内」22ページ
書籍「東京・市電と街並み」114ページ
18系統志村坂上行き6103、ほか1両 撮影:諸河久 最終日
※以上2枚は同一写真
(16) 個人ホームページ 41系統志村橋行き6100 最終日装飾車
(17) 書籍「板橋区の昭和」125ページ
18系統巣鴨行き6113、41系統志村橋行き6111
(18) 板橋区立小学校社会科副教材「わたしたちの板橋 昭和46年版」68ページ
41系統志村橋行き6100 最終日装飾車 ほか1両