2016年11月28日月曜日

滝野川五丁目2016

板橋駅前を出発した電車は、街道沿いの小さな商店街を左右に見ながら、ガスホルダーに体当たりするように進む。左側の店舗に交じって、急な下り坂の入り口が数本見える。ガスホルダーの手前で右にカーブして国鉄山手線支線の陸橋を越える。山手線の環状部分は既に黄緑色(うぐいす色)の新性能電車に全て置き換えられたが、池袋と赤羽を往復する電車はまだこげ茶色の旧型国電があてられている。戦前から長い間4両で運転されていたが、近年ようやく8両となり、他線と遜色なくなってきた。都電の車窓からはほとんど見えないが、道の端を走るバスからは運がよければ国電の姿がみられる。

東京ガスの正門脇を通り過ぎると北区に入り、消防署の火の見櫓が見えるが何となく小さい感がする。”御代の台”と照明に記してある商店街入口前の交差点付近で停車する。

☆御代ノ台と狐塚

「都電の消えた街 山手編」117ページ掲載写真撮影地付近。
北区滝野川消防署三軒家出張所(右側ビル)
3階から上に火の見櫓があった。(2016年6月)
「都電の消えた街 山手編」には、滝野川消防署三軒家出張所の火の見櫓と滝野川ガスホルダーが並ぶ写真が掲載されている。火の見櫓は林さんのお気に入り景観のひとつで、諸河さんが撮影した写真を見た瞬間、強面をほころばせたことだろう。しかし板橋区役所前のモービル石油看板と相対する火の見櫓を見てきた目には、ここの火の見櫓はいささか旗色が悪そうに見える。志村と同じく「三軒家」という地名があるが、新道開通前は中山道を見下ろす丘陵地だったはずで、街はずれに家三軒というロケーションだったのであろう。滝野川は石神井川が台地から低地に注ぐ位置にできた「音無渓谷」の滝に由来する名で、以前は独立の区であった。本来は地形や河川の陰影に富む土地なのだが、電車通りは一番高いところに作られている。

板橋区から滝野川に入ると、まず目に入る商店街は滝野川六丁目の「きつね塚商店街」。北区でキツネの伝説といえば王子が有名だが、滝野川地区にも多く生息していたのだろう。宮本町のイナリ通り商店街も、お稲荷様を祀るという意味のみならず、工業化前はキツネが住める街だったと考えられる。
滝野川六丁目「きつね塚通り」入口。(2016年6月)
いかにも都電の停留場がありそうにみえるが、滝野川五丁目の停留場跡はここではなく、もう1本巣鴨方向の「御代の台仲通り商店街」交差点に接する場所にあった。「よみがえる東京 都電が走った昭和の街角」102ページには、江本廣一さん撮影の電車4両が並ぶ写真が紹介されている。この本の著者は「板橋五丁目」と記しているが、8000形電車の上に「滝野川五丁目 御代ノ台」と明記されている。シンプルカテナリー区間でもある。
滝野川五丁目停留場付近。(2016年9月)
この停留場は板橋線の開通当初「御代ノ台」と名付けられたが、実は狐塚に停留場が移された時期が存在していたらしい。「日本鉄道旅行地図帳」のデータによれば、1946年(昭和21年)91日から翌年617日まで1年足らずだが、200mほど西に移設されて「狐塚」を名乗ったとされている。

平和な時代ならば「商店街の誘致合戦」と話題にもなるだろうし、国鉄の特急停車駅選定をめぐる全国各地のエピソードも思い出すが、何しろ時代が時代である。極端な物資不足とハイパーインフレで、狐塚も御代ノ台も商売どころではなく、店の人たちは電車に乗って買い出しに行き、満員電車と警察官の厳しい取り締まりに辟易していたはずである。移動と元に戻された経緯については、高度成長期以降の人間には想像もつかないような事情が隠されているのかもしれない。

北区は現在の荒川線をはじめ都電路線を多く抱えていて、撤去対象路線も計画の後半まで生き残っていたが、志村線だけはひときわ早く姿を消した。一方、地下鉄は滝野川に駅を置かず、都営バスが1978年に撤退してからはバスの停留所もなくなってしまった。その選択をした理由は、御代の台仲通り商店街を歩けば何となく答えの候補が思い浮かぶ。
「御代の台」の名は商店街に残されている。(2016年6月)
商店街を3ほど歩くと旧道に出る。右折すると古くからの街並みの先に踏切が見える。すなわち板橋駅まで歩いて10分とかからない。板橋駅は事実上板橋区と北区の共有財産で、駅の東側は滝野川である。地下鉄の駅がなくても、板橋駅まで行けば都心方面には楽にアプローチできる。さらに、都電廃止の頃は旧道経由のバスがあり、都営も国際興業バスも路線を持っていた。上板橋駅から富士見街道を経由して大和町を右折して新道に入り、平尾交番から旧道を経由して板橋駅脇の踏切を通り、滝野川の商店街を通過して明治通りの堀割交差点に向かい、さらに大塚駅から神保町、日比谷まで足を運ぶ都営117系統という路線も記録されている。バスはすぐ近くまで来るのだし、地下鉄の駅を作ってもらっても坂の上で面倒だから、特に必要ないという総意だったとうかがえる。

このあたりの旧中山道は江戸時代から明治にかけて、種苗店が多かったという。今では練馬大根だけが有名になっているが、大根の栽培も盛んだったと言われている。農作業には石神井川、谷端川の水利が欠かせなかったであろう。



☆停留場データ

開設日:1929年(昭和4年)527
旧名称:御代ノ台(改称後副名称として表示。1929527日~1946831日、および1947618日~1953年ごろ)
狐塚(194691日~1947617日)
改称日:1953年ごろ
設置場所:<巣鴨方面>北区滝野川五丁目37付近(現在も同じ)
<志村橋方面>北区滝野川六丁目45付近(現在も同じ)
志村橋からの距離:営業キロ6.5、実測キロ6.491
停留場形式:不明
停留場標:不明

☆本停留場付近で撮影された写真が見られるメディア

(1) 図録「トラムとメトロ」55ページ
書籍「懐かしの都電 41路線を歩く」179ページ
41系統志村橋行き6100 最終日装飾車
※以上2枚は同一写真

(2) 書籍「都電の消えた街 山手編」117ページ
書籍「都営交通100周年 都電写真集」49ページ
41系統巣鴨行き4062 撮影:諸河久 19653
※以上2枚は同一写真

(3) 書籍「よみがえる東京 都電が走った昭和の街角」102ページ
18系統神田橋行き804241系統巣鴨行き6116?ほか2両 撮影:江本廣一
最終日
※説明文に誤記あり