志村坂上停留所。(2016年5月) |
☆枝分かれするような商店街
都電志村線沿線の特徴として、電車通りには意外なほど商業・娯楽・歓楽・文化系施設が見られないことがあげられる。商店街のアーケードや映画館などが並ぶ通りに沿って電車が走っていた下町路線とは大きく異なる点である。
志村坂上は中山道沿いにもいくらか商店が開かれているが、メインの通りは交差点から西側に枝分かれする「志村銀座商店街」と、東側の小豆沢体育館方面に枝分かれする通りである。江戸時代の絵図では東側(大善寺南側)に集落ができていたようだが、明治以降は西側の志村城跡(城山)に向かう道沿いにも集落が作られ、学校(志村尋常小学校・高等小学校。現在の志村小学校)も開かれている。
志村坂上は中山道沿いにもいくらか商店が開かれているが、メインの通りは交差点から西側に枝分かれする「志村銀座商店街」と、東側の小豆沢体育館方面に枝分かれする通りである。江戸時代の絵図では東側(大善寺南側)に集落ができていたようだが、明治以降は西側の志村城跡(城山)に向かう道沿いにも集落が作られ、学校(志村尋常小学校・高等小学校。現在の志村小学校)も開かれている。
志村城は室町時代の15~16世紀に当地を支配していた豊島氏の一族、志村氏により築かれたとされる山城である。とはいえ現地に行けばすぐわかるが、ごく小さな丘に空堀跡が残るのみであるため、簡素な館にバリケードを張った程度のものであろう。しかしそれなりに軍事上の意味を有していたようで、前野原(前野町)、中台、西台の地名はこの城から見てそれぞれ手前側、中央、西にある平原や台地という意味である。
ある都電本では志村坂上について
ある都電本では志村坂上について
<引用>
「都電がなければ、こんなところに街などできるはずがないというところである。」
<引用終了>
<引用終了>
と評している。「こんな」「あんな」は対象を一段低く見るニュアンスを含む言葉であり、乱用は著者の品位を下げる効果しかもたらさないが、中身についても勉強不足を露呈している。都電の終点が置かれた時代に商店街として発展したことは事実だが、それ以前から街道脇の小さな集落としての暮らしが営まれていた土地である。
志村銀座商店街は1947年(昭和22年)に振興会が結成されて発足したという。空襲で焼け出された近隣の商店や帰還兵たちが、都電の終点から城山にかけて露天市を開き、思い思いに商売を始めたのであろう。
その前年に志村警察署が板橋署から分離独立して小豆沢に庁舎を置いた動きも、闇取引を取り締まるための牽制という意味が含まれていたように思える。志村署は戸田橋に署員を集中配備して、埼玉県から運ばれてくる闇物資を厳しく取り立てていたと伝えられている。電車通り沿いではさまざまな意味で安心して商売ができない、が本音であったとも推察される。志村銀座商店街の発足には、その混乱状態を収束させるためにしっかりした組織を作り、警察にも胸を張れるようにしたいという願いが見て取れる。
その前年に志村警察署が板橋署から分離独立して小豆沢に庁舎を置いた動きも、闇取引を取り締まるための牽制という意味が含まれていたように思える。志村署は戸田橋に署員を集中配備して、埼玉県から運ばれてくる闇物資を厳しく取り立てていたと伝えられている。電車通り沿いではさまざまな意味で安心して商売ができない、が本音であったとも推察される。志村銀座商店街の発足には、その混乱状態を収束させるためにしっかりした組織を作り、警察にも胸を張れるようにしたいという願いが見て取れる。
いくらか物資の供給がスムーズに行われるようになると、同書の指摘通り、都電終点近くであることは集客に大いに役立ったであろう。バスは志村銀座商店街を直接通り、こちらも地域の発展に貢献した。1954年(昭和29年)には商店街のはずれ、城山近くに「スーパーマーケット三徳」が開店。板橋区初かどうかは確証が取れないものの、この時代では全国的にも珍しいスーパー形式の店舗が出現した。
城跡の隣には「光学の志村」を支えるレンズシャッター製造企業「コパル」(現・日本電産コパル)が豊島区から移転してきた。私は2歳後半ぐらいから、乗せてもらっている蓮根町発池袋行きバスが崖線の坂道を登り、「COPAL」と一文字ずつ設置された真紅のネオンサインを見かけるたびに「COPAL、コパル!」と読んでいたと聞かされている。
城跡の隣には「光学の志村」を支えるレンズシャッター製造企業「コパル」(現・日本電産コパル)が豊島区から移転してきた。私は2歳後半ぐらいから、乗せてもらっている蓮根町発池袋行きバスが崖線の坂道を登り、「COPAL」と一文字ずつ設置された真紅のネオンサインを見かけるたびに「COPAL、コパル!」と読んでいたと聞かされている。
そのバスが右折して電車通りに入るあたりに「第一銀行志村支店」の八角星型マークがあったことを記憶しているが、都電の時代の写真やgooサイトの1963年航空写真にはあいにく写っていない。おそらく代替バスの時代に建てられたものであろう。現在も、みずほ銀行志村支店として営業している。
旧・第一銀行志村支店。かつては縦長の看板が屋上に掲げられていたと 記憶している。郵便ポスト奥が志村銀座商店街、右が旧道清水坂。(2016年5月) |
志村坂上の都電写真でひときわ存在感を示している建物は、交差点向かい(東側。当時は志村町一丁目だったが、現在は中山道以東を小豆沢に統一している。)の三菱銀行志村支店であった。この銀行は、現在セブンイレブンが1階にあるビルに相当する。その北側、坂が始まる位置に建てられているマンションの隣がオリエンタル酵母である。三菱銀行は2006年に東京UFJ銀行と合併する際に、小豆沢通り沿いにやや引っ込んだ位置に移転して、都電の背景を飾っていた建物も姿を消した。
☆街が縮んだ?
都電の軌道は志村橋延長後、交差点のすぐ南側に接するように渡り線が設置されていたことが写真から見て取れる。あるブログでは、終点で乗客を降ろした後に一旦志村橋方に引き上げる18系統6142の脇を通過する41系統6111の、極めてきれいな写真が掲載されている。デジタル化の際に手直ししたかもしれないが、50年の時を感じさせない鮮やかさで、まさに色を点けたくなる“想い出はモノクローム”である。41系統が発車したら、6142は折り返し18系統神田橋行きとして渡り線を通り入線してくるのであろう。ここからは電車の本数も大幅に増える。
野尻泰彦さんが「東京都電風土記」で紹介した停留場の写真や、北区飛鳥山博物館で発行した「トラムとメトロ」図録に掲載されている写真では、停留場の東側に文房具店、写真店、化粧品店などが写っている。50年後の姿を訪ねてみたところ、地下鉄工事で文房具店など数軒が立ち退いたとみられるものの、今なおしっかりと残る店が結構確認できた。
野尻さん撮影写真(「東京都電風土記」309ページ掲載)の53年後を紹介する。
「東京都電風土記」掲載写真(1963年撮影)地点でフレーミングをあわせる。 トラック後ろの赤色看板店舗も都電時代から残されている。(2016年7月) |
ご覧の通り資生堂特約の化粧品店(下の写真、バス右側の青い看板)は健在で、今なお昭和のふんいきそのままに営業している。その左側(北側)7~8軒は(1962年版住宅地図によれば文房具店、書店×2、カメラ・現像店、テーラー、菓子店など8軒)消滅して、跡地は奥のマンション1階に入るマクドナルドやドトールコーヒー前のオープンスペースとなっている。たとえ“あの”志村であっても、今をときめくおしゃれな街に近いふんいきが感じられる。マンション北隣が志村坂上駅A3出口である。
その一方、都電写真で交差点角から2軒目の家は立ち退きを断った様子で、今なお都電当時の建物が根を張る古木のように残っている。都電写真では「クラ…」と大書された看板が掲げられている。1962年版住宅地図によればその場所に「丸善靴店」と記されていた。現在では2階を貸し看板スペースとして提供していて、バス車内放送でも広告を出している質店や介護施設の看板が掲げられている。1階は古民家カフェならぬ古商店ダイニングバーで、時折ジャズ系のライブも開かれている模様。
その一方、都電写真で交差点角から2軒目の家は立ち退きを断った様子で、今なお都電当時の建物が根を張る古木のように残っている。都電写真では「クラ…」と大書された看板が掲げられている。1962年版住宅地図によればその場所に「丸善靴店」と記されていた。現在では2階を貸し看板スペースとして提供していて、バス車内放送でも広告を出している質店や介護施設の看板が掲げられている。1階は古民家カフェならぬ古商店ダイニングバーで、時折ジャズ系のライブも開かれている模様。
交差点近くに残る都電時代からの店舗。 質店は広告スペースを借りていて、この物件 では営業していない。(2016年6月) |
反対側には玩具店があった。地下鉄の時代になると、私も幾度か買い物に出向いた記憶がある。2012年ごろまで当時のままであったが、その後ビルに改築してミニストップを入れ、その脇で玩具店を再開した。住宅地図によれば交差点脇の果物(青果)店、洋菓子店なども都電時代から営業していた。現在「おかしのまちおか」の看板が掲げられている交差点角の店舗の場所は理髪店と記されていた。
志村坂上は今でもバスで日常的に通るが、いざ歩いてみると相当小さく感じる。都電写真よりも明らかに“街が縮んだ”ように見える。自らが大人になったことに加えて、周囲に高いマンションが増えて空が狭くなったことで錯覚を起こしているのであろう。同じ長さの線に加えられた分岐線が外側から内側に向きを変えたようなものと受け止めている。また、都電の車体長を実際よりも長く見積もる癖がある。それだけ地下鉄に慣らされている証であろう。
☆田所少年が通った道
一部では有名なエピソードであるようだが、俳優・渥美清こと田所康雄さんは幼少の頃志村で暮らしていた。6歳のとき(1934年=昭和9年)に上野から移り板橋尋常小学校に入学して、2年後家族と合流して志村清水町に転居、志村第一尋常小学校(現在は泉町の志村第一小学校)に転入。1940年(昭和15年)に卒業して、城山近くの志村高等小学校(現在の志村小学校)に進学、1942年(昭和17年)に卒業とされている。
調べてみたところ、巣鴨中学校に進学したという説と、志村の企業に就職したという説(志村高等小学校卒業生近況欄の記載)があるらしい。その後板橋区内の軍需工場で働き、空襲で焼け出されたという。いつ頃上野・浅草に戻ったかははっきりしていないようだが、戦後まもない頃からの経歴はよく知られている。
調べてみたところ、巣鴨中学校に進学したという説と、志村の企業に就職したという説(志村高等小学校卒業生近況欄の記載)があるらしい。その後板橋区内の軍需工場で働き、空襲で焼け出されたという。いつ頃上野・浅草に戻ったかははっきりしていないようだが、戦後まもない頃からの経歴はよく知られている。
田所さんは肺を病んでいて、志村に住んでいた頃は登校にも難儀するほどだったという。とりわけ高等小学校への道は辛かったことであろう。都電の延伸前であるが、電車にせよバスにせよ、交通費を出してくれる家ではなかったものと思われる。
登校しても成績は「びりから二番目」で、いたずらをしては廊下に立たされることが常の典型的な「悪ガキ」だったが、話をさせると抜群に面白く、同級生はもとより教師も耳を傾けるほどだったという。
登校しても成績は「びりから二番目」で、いたずらをしては廊下に立たされることが常の典型的な「悪ガキ」だったが、話をさせると抜群に面白く、同級生はもとより教師も耳を傾けるほどだったという。
田所さんが志村線の延長を見たとすれば軍需工場勤務時代だろうが、おそらく意識に止めることなく上野へ戻っていったのではないかと推定される。
”渥美清”となってからの田所さんは私生活を決して明かさず、どれほど親しい友人でも自宅に招かなかったことはよく知られている。志村第一小学校からの同窓会招待も断り続けたため、志村にはあまりよい思い出を持っていないのではないか、母校に冷たいのではないかと勘ぐられたこともあったという。
しかし田所さんは尋常小学校時代の友人を決して忘れることなく、多忙の間を縫って旧交を温めていたという。1986年(昭和61年)ごろお忍びのように志村をふらりと訪れて、志村第一小学校や志村小学校、若くして亡くなった兄が勤務していたオリエンタル酵母の工場付近を歩いたと、同窓会招待はがきの返信に記している。その一方で、通りかかった人から声をかけられても全く応じなかったため、声をかけた人はいささか失望したという。
肺を病むということは想像以上に体力上のハンディキャップを負う。それゆえに誤解されることも承知で、プライベートの時間を大切にしたかったのだろう。母校に対しては、「いたときは勉強まるでダメで、いたずらをしては怒られてばかりのガキが、たまたま役者で食うことができたというだけで、恭しく迎えられてはかえって居心地が悪くなる。」といったところではなかっただろうか。
体力の消耗や、見知らぬ人に気安く声をかけられるリスクを承知の上で志村を訪れた。
その事実こそが、田所さんの胸中を表している。
気の向くままにふらりと旅をする、あの国民的人気映画の役はもちろん「演技」である。しかし志村を訪れた際の田所さんは、カメラが回っていないからこそ、どの出演作品よりも「あの役」らしかったのではないだろうか。
”渥美清”となってからの田所さんは私生活を決して明かさず、どれほど親しい友人でも自宅に招かなかったことはよく知られている。志村第一小学校からの同窓会招待も断り続けたため、志村にはあまりよい思い出を持っていないのではないか、母校に冷たいのではないかと勘ぐられたこともあったという。
しかし田所さんは尋常小学校時代の友人を決して忘れることなく、多忙の間を縫って旧交を温めていたという。1986年(昭和61年)ごろお忍びのように志村をふらりと訪れて、志村第一小学校や志村小学校、若くして亡くなった兄が勤務していたオリエンタル酵母の工場付近を歩いたと、同窓会招待はがきの返信に記している。その一方で、通りかかった人から声をかけられても全く応じなかったため、声をかけた人はいささか失望したという。
肺を病むということは想像以上に体力上のハンディキャップを負う。それゆえに誤解されることも承知で、プライベートの時間を大切にしたかったのだろう。母校に対しては、「いたときは勉強まるでダメで、いたずらをしては怒られてばかりのガキが、たまたま役者で食うことができたというだけで、恭しく迎えられてはかえって居心地が悪くなる。」といったところではなかっただろうか。
体力の消耗や、見知らぬ人に気安く声をかけられるリスクを承知の上で志村を訪れた。
その事実こそが、田所さんの胸中を表している。
気の向くままにふらりと旅をする、あの国民的人気映画の役はもちろん「演技」である。しかし志村を訪れた際の田所さんは、カメラが回っていないからこそ、どの出演作品よりも「あの役」らしかったのではないだろうか。
☆停留場データ
開設日:1944年(昭和19年)10月5日
旧名称:志村
改称日:1955年(昭和30年)6月10日
設置場所:<巣鴨方面>板橋区志村町一丁目7付近(現・板橋区小豆沢二丁目18付近)
<志村橋方面>板橋区志村町一丁目11付近(現・板橋区志村一丁目14付近)
志村橋からの距離:営業キロ1.9、実測キロ1.919
停留場形式:平行に安全地帯設置
停留場標:(巣鴨方面)時計つき電飾型(志村橋方面)道路標識併用型
※撮影年代が異なるため、志村橋方面も後年時計つき電飾型に交換された可能性あり
その他:志村橋方(志村坂上交差点南側)に渡り線設置
☆本停留場付近で撮影された写真が見られるメディア
(1) 個人ブログ 18系統神田橋行き6142、41系統巣鴨行き6111
18系統終点引き上げ場面
(2) 書籍「都電系統案内」45ページ
18系統巣鴨行き6010、41系統巣鴨行き6144 撮影:諸河久 最終日
(3) 書籍「東京都電風土記」309ページ
41系統巣鴨行き6148 撮影:野尻泰彦 1963年3月
(4) 図録「都電のすむ街」26ページ
41系統巣鴨行き4055
(5) 書籍「昭和30年・40年代の板橋区」表紙および49ページ(同一写真)
41系統志村橋行き6100 最終日装飾車
(6) 書籍「都営交通100周年 都電写真集」137ページ
41系統志村橋行き6105 撮影:阿部敏幸
(7) 個人ホームページ 41系統巣鴨行き6100 最終日装飾車
対向電車から撮影、丸菱百貨店?
(8) 個人ホームページ 41系統巣鴨行き6100 最終日装飾車
対向電車から撮影、三菱銀行、文房具店、化粧品店など
(9) 個人ホームページ 41系統志村橋行き6104 丸菱百貨店?および交差点近辺の商店
(10) 書籍「都営交通100周年 都電写真集」
18系統神田橋行き? 撮影:阿部敏幸 渡り線通過
(11)書籍「板橋区の昭和」53ページ
車両なし、停留場風景 1966年
(12)同書 130ページ
18系統神田橋行き7087 乗務員折り返し作業風景
(11)書籍「板橋区の昭和」53ページ
車両なし、停留場風景 1966年
(12)同書 130ページ
18系統神田橋行き7087 乗務員折り返し作業風景