志村一里塚(東側)。板橋区立公文書館ホームページ掲載18系統写真(1954年) および荻原二郎さんの7000形カラー写真(1955年)撮影場所付近。(2016年8月) |
志村坂上を発車すると商店街はすぐに尽きて、丸に菱の看板を掲げるビルをすぎると、志村一里塚の交差点を渡る。中山道整備以来の由緒ある塚で、国指定史跡であるが、右側(西側)の木は既に枯れている。左側(東側)の木も、いつまで持つだろうか。左側は古い構えの家や材木屋、右側には凸版印刷の工場。
☆“丸菱の信用”
あるホームページでは最終日装飾電車(41系統巣鴨行き6100)を、すれ違う電車の中から撮ったと思われる写真が紹介されている。電車の左側(東側)には、丸に菱の字の大きな看板を屋上に掲げ、「丸菱の信用…」と記したネオンサインを歩道側に取り付けているビルが写っている。
goo航空写真で確認したところ、現在モスバーガーが入っているマンションに相当する。このマンション自体、既に一帯で相当古い部類に属する模様。写真で見るよりも小さく、奥に細長い形状のビルであったと推定される。
goo航空写真で確認したところ、現在モスバーガーが入っているマンションに相当する。このマンション自体、既に一帯で相当古い部類に属する模様。写真で見るよりも小さく、奥に細長い形状のビルであったと推定される。
「丸菱」の看板が掲げられていたビル跡の マンション。百貨店にしては間口が細い。 (2016年9月) |
「丸菱の信用」とは何のことだろう?
最初は見当がつかなかった。信用金庫など金融機関とは明らかにオーラが異なり、商業施設の匂いが強い。その後、現在のクレジットカードの前身である「信用支払い」を標榜する店舗が、その時代発展していたことをつきとめた。
当時の人は「月賦払い」といっていたようで、都電の写真を撮影していた人の中にも、学生から就職したての頃で、高額なカメラは即金で買えず、月賦でようやく手にしたと語っている方がおいでだった。カメラのみならず、“今の暮らしぶりでは少し背伸び”に属する商品を売り込むための有効な方法だったのだろう。
現在はクレジットカードやリボ払いの危険性が繰り返し指摘されていて、信販会社側も焦げ付かせないように神経を使っているが、高度成長期にはほぼ予定通り返済できるシステムが機能していたのだろう。
当時の人は「月賦払い」といっていたようで、都電の写真を撮影していた人の中にも、学生から就職したての頃で、高額なカメラは即金で買えず、月賦でようやく手にしたと語っている方がおいでだった。カメラのみならず、“今の暮らしぶりでは少し背伸び”に属する商品を売り込むための有効な方法だったのだろう。
現在はクレジットカードやリボ払いの危険性が繰り返し指摘されていて、信販会社側も焦げ付かせないように神経を使っているが、高度成長期にはほぼ予定通り返済できるシステムが機能していたのだろう。
ということは、「丸菱」の商号を持つ店舗が志村坂上で営業していたことになるが、民間の商業施設はどれほど有名でも、あるいはどれほど地域の暮らしに根を下ろしていても、区政などの公的資料では一切歴史として残されない。それもまた、現在の人が時代考証に苦労する一因であろう。現在、丸菱という商号の企業は熊本県の益城町にあり、ちょうど地震発生後だったため思わず検索の手が止まったが、もちろん別の会社である。
今のところ、1929年(昭和4年)に埼玉県北足立郡川口町(→川口市)で創業したという月賦百貨店「丸菱百貨店」が志村にも支店を出していたのではないかと推察している。月賦とはいえ、志村でも百貨店業が成り立つ時代があったと、遠い目をしてしまった。池袋の力が強くなり、一括支払いできる人が増えてくると、急速に売り上げを落として撤退に追い込まれたと思われる。1965年版住宅地図には「丸昭百貨店」と記されていたが、手書き地図時代のため制作担当者誤記の可能性が高い。(誤字は他にも多数みられる。)一方その百貨店には「都電定期券売場」の記述があり、丸菱の軒先を交通局が借りて定期券発売所として使っていた可能性もある。
今のところ、1929年(昭和4年)に埼玉県北足立郡川口町(→川口市)で創業したという月賦百貨店「丸菱百貨店」が志村にも支店を出していたのではないかと推察している。月賦とはいえ、志村でも百貨店業が成り立つ時代があったと、遠い目をしてしまった。池袋の力が強くなり、一括支払いできる人が増えてくると、急速に売り上げを落として撤退に追い込まれたと思われる。1965年版住宅地図には「丸昭百貨店」と記されていたが、手書き地図時代のため制作担当者誤記の可能性が高い。(誤字は他にも多数みられる。)一方その百貨店には「都電定期券売場」の記述があり、丸菱の軒先を交通局が借りて定期券発売所として使っていた可能性もある。
☆歩道の迂回は保存の証
徳川幕府は発足2年目の1604年に、江戸日本橋を基点として全国の主要街道一里ごとに、距離標兼休息所として榎などを植えた塚を築くように命じた。志村一里塚は、中山道の日本橋起点3里を示す距離標である。
一里塚の基本スタイルは、街道の路肩からやや離れた場所に五間四方、高さ十尺の土を左右一対で盛り、そこに榎などの樹木を植えて他の木々と区別するものであった。しかし明治になり街道制が廃止されると、ほとんどの一里塚は撤去された。片方のみ残存する塚は各地でいくつかみられるが、左右双方が残されている塚は極めて珍しく、都内では志村と北区の西ヶ原(日光御成道)の2ヶ所のみである。西ヶ原のほうは旧街道が後年の道路敷設でなくなっているため、街道とフルセットで残る一里塚は志村のみである。なお、西ヶ原の一里塚付近にはかつて都電の飛鳥山線が通り、19系統が使用していた。一里塚停留場も近くに設置されていた。
一里塚の基本スタイルは、街道の路肩からやや離れた場所に五間四方、高さ十尺の土を左右一対で盛り、そこに榎などの樹木を植えて他の木々と区別するものであった。しかし明治になり街道制が廃止されると、ほとんどの一里塚は撤去された。片方のみ残存する塚は各地でいくつかみられるが、左右双方が残されている塚は極めて珍しく、都内では志村と北区の西ヶ原(日光御成道)の2ヶ所のみである。西ヶ原のほうは旧街道が後年の道路敷設でなくなっているため、街道とフルセットで残る一里塚は志村のみである。なお、西ヶ原の一里塚付近にはかつて都電の飛鳥山線が通り、19系統が使用していた。一里塚停留場も近くに設置されていた。
志村一里塚が生き残れた理由としては、この付近の中山道新道建設の際、別の場所に道を作らず、従来の旧道の拡張で対処したことがあげられよう。一部資料ではその際塚の位置を移動したとされていて、私も以前はそのように勘違いしていたが、板橋区ホームページの解説では拡張の際、塚を動かさないようぎりぎりの位置まで道路を舗装して、同時に石垣を組んで塚を補強したという。西側は塚の前に歩道がある一方、東側は歩道が塚を迂回している現在の姿は、動かしていない何よりの証である。
しかし、化学物質輸送道路としてトラックが頻繁に往来するようになると榎はボディーブローのようにダメージを受け続け、都電の末期には西側塚の榎はほとんど枯れていたという。さすがの板橋区も慌てたのか、都電廃止の翌年に新しい榎を植え、現在では見事な緑陰をなしている。「都電が走った街今昔Ⅱ」に掲載されている写真と同様、現在も西側塚の隣はESSOで、少し先にはシェル石油もあるが、空気ははるかにきれいになっている。
しかし、化学物質輸送道路としてトラックが頻繁に往来するようになると榎はボディーブローのようにダメージを受け続け、都電の末期には西側塚の榎はほとんど枯れていたという。さすがの板橋区も慌てたのか、都電廃止の翌年に新しい榎を植え、現在では見事な緑陰をなしている。「都電が走った街今昔Ⅱ」に掲載されている写真と同様、現在も西側塚の隣はESSOで、少し先にはシェル石油もあるが、空気ははるかにきれいになっている。
西側塚の奥には凸版印刷の広い工場敷地があり、今でも24時間操業している模様。板橋工場は1938年(昭和13年)に建設されたそうで、この近辺でまとまった土地購入としては最後の部類に属するだろう。民間需要が軍事需要に転換しつつある頃の進出である。凸版印刷が増えたことで、市電の延長要望はより強くなったものと思われる。歩いてみると、建設当時のものと思われる煉瓦塀や背の低い扉が、赤53系統のバス通り近くにひっそりと残されている。バス通りの小豆沢・北区側はほとんどが大規模マンションに変わってしまったため、今や現役歴史産業遺産のひとつにも数えられよう。工場の先(南側)は出井川が流れていた谷に向かう急斜面である。
一方、歩道を迂回させている東側塚はより往時の面影を残している。板橋区立公文書館のホームページでも、1954年(昭和29年)ごろに撮影された志村終点時代の都電(菱形系統板の18番)が走る、旧街道の面影を残す写真が掲載されているが、隣の「斎藤商店」は道路拡張の際の建物を今に伝えている。ただし、都電写真背後の立派な建物はビルに変わり、2016年にはローソンが出店している。
☆もしかして、板橋区史上初?
志村一里塚は明治以降の人にも比較的よく知られた存在であるようで、多くの人が近辺で都電写真を撮影している。前述の「都電が走った街今昔Ⅱ」では「小豆沢町」として紹介されている。確かに道の東側は小豆沢二丁目であるが、小豆沢町停留場まではかなり距離があり、志村坂上停留場のほうが近い。バスは「志村一里塚」停留所を置いている。
都電の写真を多数残した荻原二郎さんは1954年(昭和29年)10月に当地を訪れ、当時の最新車両であった7000形7012をカラーフィルムで撮影している。この時代の都電は濃緑色と淡緑色のツートンカラーであった。国鉄・東武まで含めてこの時代以前の板橋区内で撮影されたカラーの鉄道写真を見た記憶はなく、確定ではないが、もしかしたら板橋区史上初のカラー鉄道写真かもしれない。荻原さんは東急電鉄に勤務されていたそうで、今とは比較にならないほど交通不便な中、貴重な休日によく志村まで足を運ばれたと、感謝の念にたえない。
☆志村の”富士見坂”
赤53系統のときわ台駅行きバスが志村一丁目停留所で中山道の信号待ちをしていると、日によって正面に美しい稜線がみられることに気がついた。夕暮れ時はシルエットになる。最初は雲かと思っていたが、紛れもなく富士山である。
この道路は板橋区により「福寿通り」という愛称がつけられているが、富士の姿を真正面に据える正真正銘の”富士見通り”である。前野町の富士見街道沿いや富士見町ではマンションからではないと富士は見えないだろうが、ここは路上から眺められる。それも結構大きい。Googleマップで直線距離を測定してみたところ、山頂まで99kmである。
いささかピントがぼけていて恐縮だが、望遠レンズを使うとまるで間近にあるように写せる。
交差点角の米穀店主人によれば、日没時に「ダイヤモンド富士」が見られる日もあるという。
中山道には現在いちょう並木が植えられていて、色づく季節には結構美しい。都電の時代には工場からのばい煙などで空が濁ることが多く、都内から富士山が望める日は年に20~30日ほどだったという。現在は空気が乾燥してきて靄がかかりにくくなったことも加わり年間100~120日くらいで、3~4日に1日は拝むことができる。
今さらながらだが、この風景に都電を走らせてみたかったと思う2016年の暮れである。
個人ホームページに掲載されている、横から都電を
写すアングルの撮影地付近。(2016年7月)
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☆志村の”富士見坂”
赤53系統のときわ台駅行きバスが志村一丁目停留所で中山道の信号待ちをしていると、日によって正面に美しい稜線がみられることに気がついた。夕暮れ時はシルエットになる。最初は雲かと思っていたが、紛れもなく富士山である。
この道路は板橋区により「福寿通り」という愛称がつけられているが、富士の姿を真正面に据える正真正銘の”富士見通り”である。前野町の富士見街道沿いや富士見町ではマンションからではないと富士は見えないだろうが、ここは路上から眺められる。それも結構大きい。Googleマップで直線距離を測定してみたところ、山頂まで99kmである。
いささかピントがぼけていて恐縮だが、望遠レンズを使うとまるで間近にあるように写せる。
志村一丁目 凸版印刷工場脇の坂道を登る赤53系統のバス。 道路標識より、ここは紛れもなく”あの板橋区”。(2017年1月) |
交差点角の米穀店主人によれば、日没時に「ダイヤモンド富士」が見られる日もあるという。
中山道には現在いちょう並木が植えられていて、色づく季節には結構美しい。都電の時代には工場からのばい煙などで空が濁ることが多く、都内から富士山が望める日は年に20~30日ほどだったという。現在は空気が乾燥してきて靄がかかりにくくなったことも加わり年間100~120日くらいで、3~4日に1日は拝むことができる。
今さらながらだが、この風景に都電を走らせてみたかったと思う2016年の暮れである。
(1) 板橋区立公文書館ホームページ
書籍「昭和30年・40年代の板橋区」13ページ
18系統6000形 旧塗色・菱型系統板 1954年ごろ
※以上2枚は同一写真
(2) 図録「トラムとメトロ」8ページ
書籍「都電が走った昭和の東京」24ページ
18系統巣鴨行き7012 撮影:荻原二郎 1954年10月 カラー撮影
※以上2枚は同一写真
(3) 書籍「都電が走った街今昔Ⅱ」111ページ
18系統志村坂上行き(幕は神田橋を表示)6116 撮影:田中登 1965年3月
(4) 書籍「おもいでの都電」93ページ
41系統志村橋行き6131 撮影:諸河久
(5) 個人ホームページ 41系統志村橋行き6129・18系統巣鴨行き6112
(6) 個人ホームページ 系統・行先・車両番号不明 一里塚横から撮影