2016年12月7日水曜日

小豆沢町2016

小豆沢停留所。(2016年5月)

志村一里塚前を通過した電車は、凸版印刷の工場を右に見つつ進む。常盤台方面に向かう道と交差すると、左側には志村警察署の庁舎、右には街道沿いの小さな商店や食堂が並ぶ。そのあたりに小豆沢町の停留場が置かれていたとみられる。

☆都電停留場とバス停留所の関係は?

小豆沢は、南北は崖下の一丁目から台地上を2km以上進んだ四丁目まで、東西は中山道から北区との境界まで、広い町域を有している。もともとは崖もしくは川を示す地名であったはずだが、いつのまにか台地側のイメージが定着している。志村警察署をはじめ、板橋中央総合病院、小豆沢公園、体育館など大きな公共施設も多く、ある意味志村以上に重要な地域となっている。

しかし都電の小豆沢町停留場はどこに置かれていたのだろうか。当時の写真は全く見つかっていない。その時代、都電の写真を撮りに来る人にとってこの付近の中山道はあまり魅力的には映らず、地元暮らしで写真が好きな方も多分いなかったのであろう。停留場で車両をズームアップするには適していたものと想像されるが。

地理調査所(現・国土地理院)が1957年(昭和32年)の測量に基づいて発行した10000分の1地形図「志村」を参考にして位置を推定すると、現在のバス小豆沢停留所池袋駅方面乗り場付近に相当する。
池袋駅行き乗り場。書籍「板橋区の昭和」掲載写真より、
この付近もしくはやや北側(写真奥)に
都電停留所があったと推定される。
停留所屋根は国土交通省提供。(2016年5月)
高島平方面は小豆沢町域を離れて大原町に設置されているが、都電の志村橋方面乗り場を反映させた位置であるかどうかはわからなかった。国立公文書館で公開している、志村線代替バス停留所設置計画図は貴重な資料だが、作図時点における現・電車停留場が記されていないため、新・バス停留所との位置関係がわからない点が惜しまれる。
警察署前の歩道橋から志村坂上方向を撮影。高島平操車場発池袋駅西口行き池20系統と、
ときわ台駅発赤羽駅西口行き赤53系統が交差する。
※この歩道橋は都電営業時代には設置されていない。(2016年6月)
2016年現在街道を歩くと、表通り沿いには10階程度のマンションが軒を連ねている。その一方で少し奥に入ると、昔ながらのアパートや古い門構えの木造住宅がみられる。都電の時代は、工業化前からの住民と付近の中小工場に勤務するために転入してきた住民が混在する住宅地だったことだろう。

☆安全地帯がもともとなかった…かも?

ブログ「板橋ハ晴天ナリ。」作者さんからのご教示により、永田町に赴いて都電現役当時の住宅地図(1962年版および1965年版)を調べてみた。当時の住宅地図はもちろん全て手書きで、縮尺も正確ではなく、今見てもすぐわかる誤字も少なくない。他方、現在は一般の住宅になっている家が以前何らかの商売を営んでいたことが、記されている名前の一致から推定できるケースも多い。団地など集合住宅については巻末に住民名一覧が別途掲載されていて、当時のわが家もご近所の方の名前も見つかり、とても懐かしい思いがしたが、もう覚えていないお宅もある。母が元気ならば裏付けも取れたことだろうが、あいにく既に天への旅立ちを見送っている。

板橋区を3分冊にしている1962年版では都電停留場については当時の市販区分図と同様、長方形で大まかに記してある。長後町一丁目など、写真と明らかに異なる位置に記されていたケースもみられた。一方板橋区全域をまとめた1965年版では、軌道が志村坂上で止まっている。昭和20年代のうちに作った原図にその後の異動を加えて発売していたことは明らか。住宅地図の目的は「そこにどんな人が暮らしていて、どのような商売が行われているか」の記録にあり、都電の軌道や縮尺の正確さについては二の次なのであろう。

1965年版住宅地図の志村坂上以南については、安全地帯の形状も大まかに記されているが、よく見ると小豆沢町、蓮沼町、仲宿、板橋五丁目、板橋駅前については軌道の上に直接停留場名の文字が記されていて、安全地帯が描かれていない。一方、写真で安全地帯が確認できる停留場に関しては安全地帯の記述がなされている。板橋本町のように、NHK映像や写真では愛染通り南側に並行設置されているのに対して、地図では交差点の南北に分かれているように描かれているなど、どこまで信頼に足りるか判断しかねる資料ではあるが、小豆沢町停留場にはもともと安全地帯が設置されていなかった可能性が浮上してきた。 

それならば、小豆沢町や仲宿で停留場を直接撮影した写真がなかなか見つからないことにも納得が行く。安全地帯がない停留場では歩道から写さざるを得ないため、どうしても自動車とかぶり、しっかり撮りたい人からは敬遠されるのであろう。

板橋五丁目、板橋駅前で撮影された写真はたくさんあるが、この2停留場付近には緑地帯が設けられているため、自動車が途切れる合間を縫って電車にカメラを向けることはそう難しくなかったものとみられる。「板橋区」であるため、志村地域よりも知名度が高かったことや、ゆるやかなカーブがあることも有利に働いただろう。

小豆沢町と蓮沼町は戦争末期の1944年(昭和19年)10月開通区間で、戦前・戦中期最後の新設都電停留場である。軌道を作るための物資が不足していたため、とりあえず路上にレールだけ敷いて仮線で開通させて、都心部の”不要不急路線”から剥がしてきた敷石や備品の到着を待って地元住民に勤労奉仕させて、その年の暮れまでに軌道の体裁を整えたという。その経過を勘案すると安全地帯まで設置する余裕などあるはずがない。”同期”の清水町は乗客が多かったのだろうか、戦後富士見通(大和町)とあわせて安全地帯が設置されたが、小豆沢町と蓮沼町については交通量の増加もあり、自動車走行の安全上設置が見送られたままで廃止が決まったと考えれば説明がつくだろう。

同図によれば、現在ローソンストアと小豆沢交番、セブンイレブンがある交差点付近に「小豆沢町」と記されている。志村一丁目と大原町の境界に相当する。これを勘案すると、巣鴨方面乗り場は現在の小豆沢バス停からやや南側、志村橋方面乗り場は大原町のセブンイレブン前、現在のバス停からやや北側にあったと推定される。当ブログでは以上を持って推理を終えたい。

201725日追記>

その後、201721日に「いき出版」から発行された写真集「板橋区の昭和」に、小豆沢町の停留場標がはっきり写っている都電写真が掲載された。現地観察を行い、巣鴨方面は現在の小豆沢バス停池袋方面乗り場屋根の北隣、志村橋方面は現在の小豆沢バス停高島平操車場方面乗り場のやや北、大原町1011番地 新井薬師道交差点との中間付近と推定される。

安全地帯の存在については同書掲載写真では確証が取れないが、電車と並行して走る自動車の姿から、設置されていなかった可能性が高いとみられる。

☆新井薬師道

以上推定した志村橋方面乗り場前交差点から西へ向かう、大原町と志村一丁目の境界をなす細い道筋に小さな庚申塔が残されている。


大原町11にある新井薬師道・
富士大山道の庚申塔。(201610月)

「富士大山 新井薬師道」と刻まれている。反対側は「文久三亥年五月建立 武州豊嶋郡 蓮沼村中」と明瞭に読める。現在の暦にあてはめると18636月である。この碑には板橋区教育委員会の説明もなく、道端にひっそりと設置されていて、私も偶然発見した。

 
志村坂近辺の項目で紹介した通り、志村からの富士大山道は清水坂より分岐する道を指しているが、本庚申塔は中山道一里塚の南側、日本橋方からも分岐していたことを示す。大正時代の地形図から推定すると、北豊島郡志村大字坂上と志村大字本蓮沼の境をなす細い道で、急坂を下り現在の前野町四丁目にある常楽院脇を通り、志村大字中台付近で清水坂からの道と合流していたと考えられる。

一方、新井薬師(梅照院)は現在の中野区にある有名な寺院だが、柳沢・府中を経由する富士大山道からはかなり東に逸れている。この石碑から南へ坂を下り、出井川につきあたるあたりで富士大山道に接続する道と、新井薬師へ向かう道との分岐点がもうひとつあったと考えないと説明がつかない。

あくまでも想像だが、分岐点は常楽院の北東にあり、新井薬師道は常楽院の東側、現在の赤53系統バス通り付近を南へ向かう道で、坂を上り富士見通り(練馬道)とクロスして、現在の常盤台(上板橋村字原)を経て川越街道を横切り、東山町かみのね橋(上板橋村字上ノ根)付近で石神井川を渡るルートだったのではないだろうか。

歴史年表によれば蓮沼村は前の年(1862年、文久2年)に上蓮沼村と本蓮沼村に分かれたと記されているが、地元ではその後も1年ぐらいの間「蓮沼村」表記を引き続き用いていたであろうか。

☆晩春の色香

中山道に戻ろう。
道の東側には石材店があり、往年の面影を伝えているが、その南側にはかつての化粧品店兼煙草店が廃墟となっている。都電の時代から地下鉄の初期にかけては盛業していたのだろうが、バス路線が少なくなると地下鉄の駅から遠いこの地域の人通りは減っていき、後継者がいなくなり廃業して、そのまま雨ざらしにされていると見受けられる。行き交う自動車やバスは全く気に留めない。

つたのからまる廃化粧品店。(2016年5月)

蓮沼町に入ると、左側(東側)に古くからの寺院がある。17世紀に荒川低地から移転してきたと伝わる南蔵院である。従来は18世紀の1724年(享保年間)移転とされていたが、それより80年ほどさかのぼる資料が発見されたと、寺院入り口に設置された板橋区教育委員会制作案内板に記されている。

ここは「しだれ桜」が有名で、志村であるがゆえに広く知られることなく、仰々しい観光地化せずに、ソメイヨシノよりもほどよく濃い桜色の花がお香の煙立つ中春風にゆれて、なかなか奥ゆかしい光景を見せる。都電の時代から花が咲いていたかはわからないが、植えられていたとしても当時は花にあまり元気が感じられなかったことだろう。寺の境内は中山道からやや離れているため、電車と並ぶ写真の撮影はおそらく無理だったものと思われる。

南蔵院のしだれ桜。(2013年4月)
道路の反対側、大原町には長徳寺がある。この寺は中山道からやや離れていて、直接眺めることはできないが、凸版印刷を核とする工場地域と住宅地の境、旧出井川の谷に向かう斜面に位置している。こちらでもしだれ桜が咲き、本尊の大日如来のまわりには様々な色合いの花が植えられている。境内のすぐ脇を首都高速道路が通っているが、まさに穴場的スポットである。この寺は空襲でほぼ全壊して、1963年(昭和38年)に再建したという。都電の時代は花どころではなく、忘れられかけた存在だったとも思われる。

晩春は強制的な別れを経験することも多く、どこか気分的にも不安定になる時期。容赦ない熱気と湿気にぐったりする長い季節がもうすぐそこまで来ていて、物憂げになりがちである。そんな折、このあたりの寺院の花は独特の色香と艶をただよわせる。



☆停留場データ

開設日:1944年(昭和19年)105
設置場所:<巣鴨方面>板橋区小豆沢町一丁目1付近(現・板橋区小豆沢一丁目10付近)
<志村橋方面>板橋区志村本蓮沼町425付近(現・板橋区大原町11付近)
志村橋からの距離:営業キロ2.5、実測キロ2.529
停留場形式:不明(安全地帯が設置されていなかった可能性あり)
停留場標:不明

☆本停留場付近で撮影された写真が見られるメディア


(1)書籍「板橋区の昭和」129ページ
18系統神田橋行き4061

(2)同書 129ページ
41系統志村橋行き6129 


※個人ホームページで「小豆沢町」とされている写真は説明文誤記。(実際は大和町)