蓮沼町(本蓮沼駅)停留所。(2016年5月) |
小豆沢町を出発した電車は、中小の工場やひなびた商店が建ち並ぶ通りを進む。南蔵院の塀が尽きると、街路樹の中ゆるくカーブして蓮沼町に停車する。
☆志村を挟んだ村
「都電風土記」176ページ 第18系統の項目には、蓮沼町について以下の描写がなされている。
<引用>
「清水町」につづく「蓮沼町」も「小豆沢町」とともに、水に縁のある地名を停留所名にしたものである。
新河岸川と荒川の水に恵まれた湿地帯に、蓮が多く栽培されていたことを想像させるのが蓮沼町である。
<引用終了>
これもまた舌足らずと指摘されてもやむを得ないであろう。一方、この地に縁のない野尻さんがその程度の理解に留まっていたことも無理はない。板橋区の特徴のひとつとして、台地側に水や低地を示す語を持つ地名が多くみられ、低地側に「台」とつけられた地名が存在することがあげられる。「蓮沼」もそのひとつで、地元民でもすぐに把握できないほどの複雑な歴史を持つ。
長後町一丁目の項目でも記したが、もともとの「蓮沼村」は荒川低地側、後の志村長後町、現在の坂下一丁目・東坂下一丁目地域にあった村という。志村の立場と戸田の渡しを結ぶ道沿い、南蔵院を中心とした小さな集落で、湿地帯にハスが自生していたことから名づけられたとみられる。
しかしこの地域は大雨などによる荒川の氾濫の被害をたびたび受けていた。小豆沢町の項目でも触れたが、南蔵院は17世紀半ば(従来は18世紀の享保年間とされていたが、最近の研究でそれよりも80年ほど遡ると考えられている)に台地上の現在地に移転。村自体も享保年間の1728年に従来地を御鷹場(将軍鷹狩り用地)とする代わりに前野村、小豆沢村内の土地を与えられ移転した。徳川吉宗将軍が1722年に戸田筋で鷹狩りを行ったという記録が残されているが、それは綱吉将軍以来の「生類憐みの令」による萎縮の払拭と同時に、江戸市外中山道沿いの実情視察の意味も併せ持っていたと考えられる。そのわずか2年後に荒川が決壊して大きな被害が及んだため、幕府の対応も早かったものと推察される。この措置により蓮沼村は志村を南北から挟む形で崖上と崖下の双方に存在することとなり、その状態が幕末まで140年近く続いた。
しかしこの地域は大雨などによる荒川の氾濫の被害をたびたび受けていた。小豆沢町の項目でも触れたが、南蔵院は17世紀半ば(従来は18世紀の享保年間とされていたが、最近の研究でそれよりも80年ほど遡ると考えられている)に台地上の現在地に移転。村自体も享保年間の1728年に従来地を御鷹場(将軍鷹狩り用地)とする代わりに前野村、小豆沢村内の土地を与えられ移転した。徳川吉宗将軍が1722年に戸田筋で鷹狩りを行ったという記録が残されているが、それは綱吉将軍以来の「生類憐みの令」による萎縮の払拭と同時に、江戸市外中山道沿いの実情視察の意味も併せ持っていたと考えられる。そのわずか2年後に荒川が決壊して大きな被害が及んだため、幕府の対応も早かったものと推察される。この措置により蓮沼村は志村を南北から挟む形で崖上と崖下の双方に存在することとなり、その状態が幕末まで140年近く続いた。
1862年に低地側の蓮沼村が「上蓮沼村」と改称されたため、台地側は「本蓮沼村」を名乗る。「本」がつく地名は最初からそう名づけられていた地域を示す事例が多いが、蓮沼村は街道筋で災害にも比較的強い台地側を「本」として、中山道で京に近い低地側に「上」をつけたと思われる。明治時代に志村に合併され、板橋区発足時に「志村本蓮沼町」とされた。
1944年(昭和19年)に開設された都電の停留場は、その経緯を交通局がどこまで把握していたかは知る由もないが、江戸時代の旧名を採り「蓮沼町」とした。すると板橋区が1956年(昭和31年)の地番整理の際、停留場名にあわせて志村本蓮沼町を「蓮沼町」に変える。交通局はそれを無視するかのように、1968年(昭和43年)地下鉄の駅を「本蓮沼」と命名した。
☆区境越えたら軍用地
小豆沢町の都電写真が見つからないのだから、蓮沼町で撮影された都電写真はなお存在しないだろうと考えていたが、「都営交通100周年 都電写真集」で小さいながらも2点掲載されていた。拡大してみると、志村橋方面行き電柱用停留場標の右側(北側)に家具店の看板がみられる。この家具店はビルに建て替えて、現在も地下鉄出口近くに大きな看板を出しているため、現在の様子は楽に確認できた。池20・池21 高島平方面乗り場停留所とほぼ同じ位置と考えられる。
「都営交通100周年 都電写真集」49ページ掲載写真撮影地付近。 (2016年6月) |
巣鴨行き乗り場は写真からは明確に確認できないが、池袋方面乗り場停留所付近と推定される。バス停留所は長らく「蓮沼町」であったが、2011年に「本蓮沼駅」に改称された。しかし歩道上に設けられた屋根には現在も「蓮沼町」と表記されている。
バス左の自動車付近が都電の巣鴨行き乗り場だろうか?(2016年6月) |
池袋駅から大山、豊島病院を経由して川越街道から中山道に移り、赤羽駅に向かう赤51系統はここの三叉路を右に曲がり、西が丘へと向かう。北区との境は程近い。しかし現在の西が丘地区は日露戦争終結直後の1906年(明治39年)から、帝国陸軍兵器補給廠・火薬庫・被服庫などが広大な土地を使用していた。大部分は当時の北豊島郡王子町→王子区内であったが、一部は志村清水町にかかっていた。
それゆえに蓮沼町(本蓮沼)地区は、板橋・志村における軍需産業の要となる土地でもあった。昭和に入り、1933年(昭和8年)には前年に陸軍省の要請を受けて創設された東京光学機械が移転して、陸軍向けの光学機器の生産を始める。軍直属の工場のみならず、民間企業の協力を仰ぐことで性能の向上に加えて、臨戦態勢を内外にアピールする目的もあったことだろう。終戦を経て兵器補給廠などは米軍に接収され、1958年(昭和33年)に返還。跡地は”西が丘”としてスポーツ研究・トレーニング施設や公園などが造成されている。
それゆえに蓮沼町(本蓮沼)地区は、板橋・志村における軍需産業の要となる土地でもあった。昭和に入り、1933年(昭和8年)には前年に陸軍省の要請を受けて創設された東京光学機械が移転して、陸軍向けの光学機器の生産を始める。軍直属の工場のみならず、民間企業の協力を仰ぐことで性能の向上に加えて、臨戦態勢を内外にアピールする目的もあったことだろう。終戦を経て兵器補給廠などは米軍に接収され、1958年(昭和33年)に返還。跡地は”西が丘”としてスポーツ研究・トレーニング施設や公園などが造成されている。
☆蓮沼町に渡り線?
「鉄道ピクトリアル」誌1995年12月号には、1958年(昭和33年)当時の都電配線図が掲載されている。主要交差点や終点、車庫前などにおける軌道の様子が一目瞭然の貴重な資料である。ところが、志村線については不可思議な記述がみられる。
「西巣鴨」、「蓮沼町」、「志村坂上」に折り返し用の渡り線が設置されているように描かれている。西巣鴨は開通の経緯から考えても妥当とみられるが、蓮沼町に渡り線は事実だろうか?
もしこの図の通りとすれば、板橋本町止まりの18系統は乗客を降ろしたら「回送車」として石神井川の河岸段丘を登り、大和町と清水町を全速力で通過して蓮沼町でようやく停車する。古いたとえで恐縮だが遠州馬込駅のように運転手と車掌が位置交替して直ちに発車、渡り線を通り南行軌道に移り、再び清水町と大和町を通過して坂を下り、板橋本町で客を乗せる…そのような手間をかけるくらいならば志村坂上まで運転するはずであろう。第一、車の通行量が少ない時代ならばともかく、大和町付近を走行する自動車が増えてくると折り返しもままならなくなる。写真や住宅地図より、蓮沼町停留場には安全地帯も設置されていなかったようで、乗務員の安全上も問題があろう。開通経緯からみても、蓮沼町に渡り線はまずありえない。図の「蓮沼町」は「板橋本町」の誤りとみなして差し支えないと思われる。
さらに図を見ていたら、他にも疑問点が現れた。動坂線では「根津八重垣町」に渡り線が記されている。その通りとすれば37系統や20系統の千駄木町折り返し便は終点まで来たら折り返し客を乗せて、1区間とはいえ逆走して、根津八重垣町で上野方面の軌道に移ることになる。不忍通りはこの区間でカーブしていて、ただでさえあまり広くなく、見通しも効きづらい道路でそのような運用をすれば、他の車両や自動車と衝突しないほうがおかしい。ここも誤り…と考えたところで「日本鉄道旅行地図帳」を参照したら、根津八重垣町と千駄木町が統合されていた時代があったことに気がついた。1944年(昭和19年)に千駄木町を「不要不急停留場」として廃止して、根津八重垣町を100mほど千駄木町方に移設したらしい。戦後の1951年(昭和26年)に、元に戻されている。渡り線は統合時代に設置されて、分離の際千駄木町に作り直したとみられる。
本図は交通局の人が作った図面から起こしたとされているが、この事実より1958年現在の配線図は「改訂版」で、それ以前に原図が作られていたのではないかと推測した。想像ではあるが、根津八重垣町と千駄木町が統合されていた時代(戦災路線の復旧が完了した1949年=昭和24年ごろが最も可能性が高いとみられる)に作られた“初版”に、その後の路線改廃を反映させたものではないだろうか。その時点で板橋町十丁目(板橋本町)および蓮沼町は既に開設されていたが、例によって交通局の担当職員は板橋・志村のことなどまじめに知ろうともしなかったために勘違いしたものとみられる。
「?」はさらに1ヶ所。
池袋駅前で撮影された17系統の写真には「伝通院前」行きがよくみられる。末期のみならず、数寄屋橋まで運転されていた時代にも存在していた。設定目的は言うまでもなく、茗荷谷地区に数多ある学校の学生・生徒・関係者の通勤通学輸送であろう。この層の帰宅時間はばらばらであるため、おそらく伝通院前発池袋行きは設定されていないか、あってもごくわずかで、ほとんどは大塚車庫に入庫していたと考えられる。
ところがこの表の伝通院前を見ると、大曲から安藤坂を登ってくる軌道との合流は示されているが、渡り線の存在は記されていない。このケースでは、あるいは春日町までの回送折り返しもあり得るのではないかと考えた。富坂の上り下りを伴うとはいえ、そう遠い距離でもないからである。
しかし、あるWebサイトで元大塚営業所勤務の運転士から話を聞く会の模様が記されていて、「ラッシュの時、池袋から一番近い折り返し点が伝通院前だった。」と証言されていた。すなわち伝通院前停留場の春日町方には渡り線が存在していたはずで、本図はここでも間違えている。
17系統は管轄の大塚車庫に直接戻る軌道を持たない。最短では大塚三丁目停留場でスイッチバックだが、交通量の多い交差点でのんびりと折り返し作業をしていると、それこそ障害になる。林順信さんの写真には、池袋を出る際既に「16」の系統板をつけている大塚三丁目行きの入庫電車が記録されているが、その運用は比較的閑散とした時間帯に限られていたとみられる。日ノ出町二丁目(→東池袋四丁目)停留場脇にある電車引き上げ場(後に池86系統渋谷駅行きの折り返し操車場を経て、現在は民間駐車場。まもなく雑司が谷再開発で消滅予定)も、ラッシュ時に大塚車庫まで往復する手間を省くために設置されたものであろう。17系統が通る経路上の、なるべく池袋に近く、なおかつ沿線の需要に応えられる位置に渡り線を作ることは必須のはずで、それゆえの伝通院前行きだったと考えられる。
この件は「一次資料の段階から間違えていることもありうる」という教訓になろう。もちろん、鉄道ピクトリアルに引用した人に非は全くないはず。都電の廃止から30年近く過ぎた時点ならば、当時の停留場名を全て覚えていて故意に細工しない限りは、板橋本町を蓮沼町と記したり、伝通院前の渡り線を省略したりすることはできない。あるがままに写したはずである。交通局の人が作った公式資料でも100%正確とは思い込まず、他の資料や当時の状況、さらには常識的に見てあまりにも不合理な点があれば、自分の目と頭でどこまでが事実か考証を行う必要があることを示唆している。それは都電に限らず、様々な分野の歴史資料に向き合う際に求められる姿勢であろう。
☆停留場データ
開設日:1944年(昭和19年)10月5日
設置場所:<巣鴨方面>板橋区志村本蓮沼町343付近(現・板橋区蓮沼町22付近)
<志村橋方面>板橋区志村本蓮沼町488付近(現・板橋区泉町6付近)
志村橋からの距離:営業キロ2.9、実測キロ2.931
停留場形式:安全地帯非設置?
停留場標:不明
☆本停留場付近で撮影された写真が見られるメディア
(1) 「都営交通100周年 都電写真集」49ページ
18系統志村坂上行き6143 撮影:阿部敏幸
(2) 同書 137ページ
41系統巣鴨行き6105 撮影:阿部敏幸
(3)書籍「板橋区の昭和」126ページ
18系統志村坂上行き4056
(3)書籍「板橋区の昭和」126ページ
18系統志村坂上行き4056