お恥ずかしい私事で恐縮ですが、都電志村線に乗せてもらえた頃の本ブログ作者は相当ゆがんだ発育をしていた幼児でした。手先が絶望的なほどに不器用だった上、同年代の子供たちと“仲良く遊ぶ”ということが全く理解できませんでした。保育園で、食べたくもないものを押し付けられることも意味不明でした。その一方で文字と数字には異様に強く、2歳後半でも漢字を含む看板などを大声で読んで、通りかかった人を驚かせていたといいます。今の時代の子供ならばほぼ間違いなく発達障害、アスペルガーと診断されて特別支援体勢が取られたか、虐待に遭っていたかのいずれかでしょう。都電に乗せて、デパートの大食堂でカレーライスを与えて、ひとりで静かに遊ばせておけば周囲に害を及ぼすことのないはずの幼児でしたが、「友だちと仲良く」「場のふんいきを大切に」「何でも食べる」などという“余計な”ファクターが入ってくるがゆえに「駄目」の烙印を押され続けました。
そんな私にとって、都電車両に大きく掲げられた「41」の数字は特別なものでした。家にある「暮しの手帖」の第41号(1957年=昭和32年発行)にも類似の字体の数字が掲げられていて、なおかつ今は「昭和41年」ということから、数字について覚えていきました。一方、小学生になって周囲の遊びについていけず退屈すると、ノートに「41」「78」とよく落書きをしていました。言うまでもなく「78」は「18」のことです。幼い頃乗せてもらった電車は家に近い「41番」で、「18番」は電車の窓から見るだけの存在でした。数字に強かったとはいえ、幼児の観察眼はその程度のものでした。逆にこの勘違いこそが、間違いなく幼い日に志村線に乗った経験があることの証明にもなります。
「41」は都電自体にとっても特別な数字です。「第41号系統」は志村線のために用意されたような印象を与えていますが、戦前の東京市電時代に「41」の札をつけた電車が幾度か運転されたことがあります。後述しますが、一時的に「42」が運行されたことがあっても、系統数は市電・都電の歴史を通じて原則41までで、時代を問わず40程度まで増えてくると整理統合の動きや戦災などによる自然減少が起きていました。
東京市電気局は1914年(大正3年)に、初めて電車に番号をつけて行き先の識別に用いるというアイデアを採用したといいます。東京市内の路面電車事業が公営に一元化されてから3年後にあたります。そのときの番号は系統番号というよりも車庫番号と解釈するべきもので、車庫単位で1、2、3…として、担当車庫の電車は全て同じ番号の板を電車の側面に取り付ける形式だったと伝えられています。その時代ならば電車の系統に甲、乙、丙くらいつけてもよさそうなものですが、そこまでの知恵は回らなかったものとみられます。ちなみに荒川線になるまで、市電・都電を通じて数字以外の識別記号が用いられた形跡は1931年(昭和6年)から数年間、極短距離系統に対して採用された「特1~特3」以外にはありません。甲・乙・折返を多用していて、現在でも「出入」を表示する系統を持つ都営バスと大きく異なる点で、当時の電気局の市内電車に対するスタンスの一端が垣間見られます。
「ぽこぺん都電館」のデータによれば巣鴨車庫には6番が与えられて、少なくとも2種類の系統、巣鴨二丁目(車庫前)-神保町経由-薩摩原(さつまっぱら、後の三田停留場。三田地域には薩摩藩の屋敷があったことに由来する名称とみられる)と、駒込橋-本郷三丁目経由-薩摩原があった模様です。
この時代、既に現在の地下鉄三田線に相当するルートが組まれていたことにも驚きますが、そのお話は別稿に譲りましょう。
車庫番号だけではかえってわかりづらいという苦情が出たかどうかは知る由もありませんが、1922年(大正11年)には車庫番号に系統ごとの番号を付け加える方法が採用されました。ここで初めて「41」をつけた電車が登場します。資料によればこの系統は柳島-森下町-永代橋-茅場町-日本橋-大手町間で運転されていました。
しかしこの「41」は「四十一」というよりも「4-1」という意味合いです。4番は本所車庫につけられた番号で、その中の第1系統という位置づけでした。この方法ではひと桁の番号は当然存在できません。逆に後から10以上の番号をつけられた車庫が担当する系統番号は三桁になります。この時代の電車は、系統番号と経由地をまとめて記した大きな札を側面につけていたといわれています。ここでも甲、乙、丙を使わなかったあたりにプライドがうかがえます。
この表示形式は、翌年の関東大震災で多くの車両が損壊したために自然消滅します。その後数年間、電気局内での整理番号は存続していたようですが、乗客向けの系統番号案内は事実上取りやめられていました。
1928年(昭和3年)に上野で開催された「御大典記念東京博覧会」を機に系統番号が復活しています。今度は系統ごとに1番から数字を重ねていく方法でした。ここで初めて「四十一」を意味する「41系統」が誕生します。本ブログではこの時の電車を“初代”としましょう。初代41系統は赤坂見附出張所担当で、飯田橋-四ツ谷見附-溜池-虎ノ門-芝口(のち新橋停留場に統合)-三原橋で運転されました。巣鴨車庫-薩摩原間の電車はこの時「24」とされて、翌年の板橋線開通に伴う延長により南側を打ち切る形で、下板橋-日比谷間に改められています。
この改定では、電車の正面向かって右側に系統板を取り付ける方法が採用されました。正方形の菱型に大きく数字を記すスタイルです。
1929年(昭和4年)の下板橋開通時点では「42系統」(亀戸天神橋-石原町-門前仲町)も設定されていたといいます。すなわち戦前の東京市電では、欠番なしの42系統体制で運転されていた時期がおよそ3年間ありました。
1931年(昭和6年)には番号が多いことを理由として、一旦34系統プラス“特”3系統に整理されました。板橋線の電車はこの時「18」に変更されて、廃止まで一貫して使い続けます。しかし後年、王子電気軌道や城東電気軌道→東京地下鉄道軌道線などの郊外営業軌道路線を統合したことなどによりまた増えてきて、1944年(昭和19年)時点では二代目の「41系統」が生まれています。この41系統は錦糸堀-境川-葛西橋と、主に旧城東電車の区間で運転されていました。
戦争末期の1945年(昭和20年)には再度系統番号制度が中止されましたが、その年の末には全30系統で再開、一部の路線では電車掲示も復活していたといいます。翌年以降、不要不急・被災路線の復旧でまた増えていきました。途中、26系統としていた一之江線(旧城東電車、江戸川区)のトロリーバス転換に伴う廃止(1952年=昭和27年5月20日。この時点で全39系統)がありましたが、26を他に回すことなく、1953年(昭和28年)に神明町車庫-銀座間で新設した系統に「40」をつけたことに続いて、三代目の「41系統」が志村線に与えられました。この41系統ができる直前の1955年(昭和30年)4月に系統板のリニューアルも行われて、下に広告を掲載して上部がふくらむ形の「ツボ型」が採用されます。一部の車両では昔ながらの菱型や長方形が採用された他、後年は照明器具と併用できる四角のアクリル板も作られました。
この記事を書くにあたり「交通局50年史」を参照したところ、
「1944年(昭和19年)3月22日 下板橋-新橋北口(後に新橋停留場に併合)の18系統を、下板橋-神田橋間と巣鴨車庫-新橋北口間に分割」
という記載をみかけました。
これは謎です。いつのまにか新橋まで延長されていたことになります。1940年(昭和15年)時点の電気局制作系統図ではまだ日比谷終点でした。それに、どこで曲がっていたのでしょう。戦後は曲がれる交差点がありません。戦時中ならば神田橋から土橋線の数寄屋橋経由で、日比谷は通らなかった?それとも田村町一丁目の誤り?さらに、片方は「18」のままとしても、もう一方はどう表示していたのでしょう?甲、乙を使わなかったことだけは十分推測できますが。南側の路線は戦後の35系統のルーツともいえますし、巣鴨営業所の長距離系統をめぐる考え方の変遷とも関連するだけに気がかりです。
<追記>
Webサイト「都営バス資料館」の水59(35系統代替バス)の項目に、以下の説明が掲載されています。
戦前から戦時中の記録はかなり錯綜していますが、本ブログでは各種資料を照合して最も矛盾の少ない説明として、板橋線・志村線系統の変遷について以下の見解を取ります。
1913年(大正2年)2月2日:東京市電気局巣鴨電車営業所開設。
巣鴨二丁目(→巣鴨車庫)-薩摩原(→三田)間の電車運転開始。
1914年(大正3年):巣鴨営業所に車庫番号として「6番」が付与される。2~3種類の系統電車に「6」を掲示して運転する。
(二桁・三桁番号制度時代および震災後の系統番号休止期間については割愛します。)
1928年(昭和3年):系統番号制度復活・再編に伴い、24系統・巣鴨二丁目-薩摩原間とする。
1929年(昭和4年)5月27日:板橋線 下板橋開通に伴い、24系統の日比谷-薩摩原間を打ち切り、24系統・下板橋-日比谷間に改める。
1931年(昭和6年)4月1日:系統全面改正実施により、18系統・下板橋-日比谷間とする。
1943年(昭和18年)5月:神田橋以南を神田橋線から土橋線に振り替え、18系統・下板橋-新橋駅北口間とする。
※土橋ループ線が廃止された5月1日に改定されたと推測される。
1944年(昭和19年)3月22日:系統分割を行い、18系統・下板橋-神田橋間、19系統・巣鴨車庫前-新橋駅北口間とする。
※18系統については、神田橋-新橋駅北口間を打ち切り。
※この時に本郷通り経由の路線が33系統に変更されたのか?
1944年5月5日:乗り換え制度廃止に伴う系統全面改定実施により、19系統の数寄屋橋-新橋駅北口間を打ち切り、18系統・下板橋-神田橋間、19系統・巣鴨車庫前-数寄屋橋間とする。
※「日本鉄道旅行地図帳」では数寄屋橋-新橋駅北口間の休止を10月5日としているが、「わが街わが都電」に引用された路線図ではこの段階で数寄屋橋止まりと記されている。
1944年7月5日:志村線開通に伴い、18系統・新板橋(→板橋町十丁目→板橋本町)-神田橋間とする。
1944年10月5日:志村線板橋町十丁目-志村(→志村坂上)延長開通に伴い、18系統の駕籠町-神田橋間を打ち切り、18系統・志村-駕籠町間、19系統・巣鴨車庫-数寄屋橋間とする。
※土橋線の数寄屋橋-新橋駅北口間休止。戦後復活なくそのまま廃止。
1945年(昭和20年)4月1日:系統番号制が休止される。(「わが街わが都電」187ページの記述による。志村駕籠町線と案内されていただろうか?)
1945年12月1日:系統番号制復活に伴い中山道・白山通り経由の路線について系統を統合して、18系統・志村-神田橋間とする。
※19系統はこの時に本郷通り経由の飛鳥山-須田町間路線に戻されている。
※神田橋-数寄屋橋間は池袋駅からの16系統に振り替えられ、後に17系統に改番されたと考えられる。
1946年(昭和21年):18系統の神保町-神田橋間を打ち切り、志村-神保町間とする。
1947年(昭和22年)4月1日:18系統について神保町-神田橋を延長、志村-神田橋間とする。
1948年(昭和23年)5月25日:35系統・巣鴨車庫-日比谷間運転開始。18系統の神保町-神田橋間が打ち切られ、志村-神保町間に戻される。
1949年(昭和24年)2月1日:18系統を再び志村-神田橋間に改める。
※18系統の運転区間が確定する。
1952年(昭和27年)5月:35系統を田村町一丁目(→西新橋一丁目)まで延長、巣鴨車庫前-田村町一丁目間とする。
※35系統の運転区間が確定する。
1955年(昭和30年)6月10日:志村線志村坂上-志村橋間延長開通に伴い、41系統・志村橋-巣鴨車庫間運転開始。18系統は志村坂上-神田橋間で存置される。
1966年(昭和41年)5月28日:志村橋-巣鴨車庫前間軌道撤去に伴う18系統・41系統最終運転。
1968年(昭和43年)2月24日:巣鴨車庫前-文京区役所前間軌道撤去に伴う35系統最終運転。巣鴨電車営業所廃止。
以上より18系統は、志村まで延長された時から終戦をはさんでおよそ4年半の間に都心側運転区間の短縮と延長が三度ずつ繰り返されていたことになります。
<追記>
Webサイト「都営バス資料館」の水59(35系統代替バス)の項目に、以下の説明が掲載されています。
1943年(昭和18年)5月改編:18系統について、神田橋から土橋線に入り新橋駅北口まで延長。下板橋-神田橋-新橋駅北口とする。
※このルートは1系統などと同様に、轍を変えることがない。
1944年(昭和19年)5月5日(乗り換え制度廃止):数寄屋橋-新橋駅北口を打ち切り、18系統・下板橋-数寄屋橋間とする。
※土橋線 数寄屋橋-新橋駅北口間は10月5日に廃止、軌道撤去されている。
※この事項は交通局史の記述と異なる。「わが街わが都電」187ページ掲載の同日付改正電車運転系統図=原図引用=では、18:下板橋-神田橋、19:巣鴨車庫-数寄屋橋と記されていて、交通局史の記述と一致する。
※系統番号時代の都電を知る人にとって最もなじみ深い、王子地区から本郷通りを経由して日本橋方面に至る「19系統」は、戦前から飛鳥山-新橋駅などで運転されていたが、この時だけ「33系統・飛鳥山-京橋」と、後ろのほうに飛ばされている。この改定では、王子電気軌道・城東電気軌道(東京地下鉄道軌道部)・西武鉄道・玉川電気軌道からの買収軌道路線に30番台を付与している。
王子電軌買収路線は32系統・王子駅-早稲田、37系統・三ノ輪橋-大塚駅、38系統・三ノ輪橋-赤羽とされているため、元からの都営路線とあわせて王子地域発着系統を30番台にまとめる意図とも考えられる。
1944年10月5日:志村線開通に伴い、18系統・志村-駕籠町間と19系統・巣鴨車庫-数寄屋橋間に分割する。
※上記の交通局史の記述とは異なる。
1945年(昭和20年):空襲(おそらく4月25日の巣鴨・板橋地区)からの復旧に際して再び両系統を統合する。
※「わが街わが都電」掲載の井口悦男さん執筆記事と照合すると、この時点では系統番号を使用していなかった可能性がある。
1946年(昭和21年):18系統・志村-神保町間の運転とする。
1947年(昭和22年)4月1日:18系統について神保町-神田橋を延長、志村-神田橋間の運転とする。
※東京都公報で補足。
1948年(昭和23年)5月25日:35系統・巣鴨車庫-日比谷間運転開始。18系統は志村-神保町間に戻される。
※東京都公報で補足。
1949年(昭和24年)2月1日:18系統を再び志村-神田橋間に改める。
※東京都公報で補足。18系統の運転区間が確定する。
1952年(昭和27年)5月:35系統を田村町一丁目まで延長。
※35系統の運転区間が確定する。
1913年(大正2年)2月2日:東京市電気局巣鴨電車営業所開設。
巣鴨二丁目(→巣鴨車庫)-薩摩原(→三田)間の電車運転開始。
1914年(大正3年):巣鴨営業所に車庫番号として「6番」が付与される。2~3種類の系統電車に「6」を掲示して運転する。
(二桁・三桁番号制度時代および震災後の系統番号休止期間については割愛します。)
1928年(昭和3年):系統番号制度復活・再編に伴い、24系統・巣鴨二丁目-薩摩原間とする。
1929年(昭和4年)5月27日:板橋線 下板橋開通に伴い、24系統の日比谷-薩摩原間を打ち切り、24系統・下板橋-日比谷間に改める。
1931年(昭和6年)4月1日:系統全面改正実施により、18系統・下板橋-日比谷間とする。
1943年(昭和18年)5月:神田橋以南を神田橋線から土橋線に振り替え、18系統・下板橋-新橋駅北口間とする。
※土橋ループ線が廃止された5月1日に改定されたと推測される。
1944年(昭和19年)3月22日:系統分割を行い、18系統・下板橋-神田橋間、19系統・巣鴨車庫前-新橋駅北口間とする。
※18系統については、神田橋-新橋駅北口間を打ち切り。
※この時に本郷通り経由の路線が33系統に変更されたのか?
1944年5月5日:乗り換え制度廃止に伴う系統全面改定実施により、19系統の数寄屋橋-新橋駅北口間を打ち切り、18系統・下板橋-神田橋間、19系統・巣鴨車庫前-数寄屋橋間とする。
※「日本鉄道旅行地図帳」では数寄屋橋-新橋駅北口間の休止を10月5日としているが、「わが街わが都電」に引用された路線図ではこの段階で数寄屋橋止まりと記されている。
1944年7月5日:志村線開通に伴い、18系統・新板橋(→板橋町十丁目→板橋本町)-神田橋間とする。
1944年10月5日:志村線板橋町十丁目-志村(→志村坂上)延長開通に伴い、18系統の駕籠町-神田橋間を打ち切り、18系統・志村-駕籠町間、19系統・巣鴨車庫-数寄屋橋間とする。
※土橋線の数寄屋橋-新橋駅北口間休止。戦後復活なくそのまま廃止。
1945年(昭和20年)4月1日:系統番号制が休止される。(「わが街わが都電」187ページの記述による。志村駕籠町線と案内されていただろうか?)
1945年12月1日:系統番号制復活に伴い中山道・白山通り経由の路線について系統を統合して、18系統・志村-神田橋間とする。
※19系統はこの時に本郷通り経由の飛鳥山-須田町間路線に戻されている。
※神田橋-数寄屋橋間は池袋駅からの16系統に振り替えられ、後に17系統に改番されたと考えられる。
1946年(昭和21年):18系統の神保町-神田橋間を打ち切り、志村-神保町間とする。
1947年(昭和22年)4月1日:18系統について神保町-神田橋を延長、志村-神田橋間とする。
1948年(昭和23年)5月25日:35系統・巣鴨車庫-日比谷間運転開始。18系統の神保町-神田橋間が打ち切られ、志村-神保町間に戻される。
1949年(昭和24年)2月1日:18系統を再び志村-神田橋間に改める。
※18系統の運転区間が確定する。
1952年(昭和27年)5月:35系統を田村町一丁目(→西新橋一丁目)まで延長、巣鴨車庫前-田村町一丁目間とする。
※35系統の運転区間が確定する。
1955年(昭和30年)6月10日:志村線志村坂上-志村橋間延長開通に伴い、41系統・志村橋-巣鴨車庫間運転開始。18系統は志村坂上-神田橋間で存置される。
1966年(昭和41年)5月28日:志村橋-巣鴨車庫前間軌道撤去に伴う18系統・41系統最終運転。
1968年(昭和43年)2月24日:巣鴨車庫前-文京区役所前間軌道撤去に伴う35系統最終運転。巣鴨電車営業所廃止。
以上より18系統は、志村まで延長された時から終戦をはさんでおよそ4年半の間に都心側運転区間の短縮と延長が三度ずつ繰り返されていたことになります。