2016年11月21日月曜日

“赤と黒”-系統板と経由サボ-



「おもいでの都電」で高松吉太郎さんの証言として紹介されているお話によれば、1914年(大正3年)に採用された最初の車庫番号板の数字は結構カラフルな色分けをされていたといいます。明治末期から大正初期(1910年代)には郵便切手も菊模様や“田沢型切手”など、現在の目で見ても鮮やかな色を使っていて、その色で料金を区別していましたから、この時代の流行だったのかもしれません。発色技術の進歩の証でもあったと思われます。

一方1955年(昭和30年)4月から使われた「ツボ型」系統板は、下部に広告を入れる代わりに地色は白で統一、数字も赤と黒(正確には黒に近い濃紺)の2種類のみが使われていました。広告で十分色彩にあふれているため、かえって見づらくならないようにと考えたのでしょう。志村線の「18」と「41」の色について乗車当時の記憶はあいにく残されていませんが、小学校入学の年まで乗せてもらっていた池袋線や動坂線については「20」が赤、「17」が黒と、そのコントラストを明瞭に記憶しています。1960年代末になるとカラーフィルムが一般家庭にも普及してきて池袋駅前などで撮影している人も多く、現在残されている写真でもすぐに確認できます。後年「18」は黒、「41」は赤であったことが、荻原二郎さんの写真や鉄道雑誌から確認できました。

ツボ型の時代に同一の系統で赤と黒の両方を作っていた事例は今のところ第1系統のみで確認できています。1系統には5500形、6500形など引き続き菱形板を取り付ける車両が運用に入っていたことも影響していたのか、三田営業所では最後まで多様な種類の系統板を保有していた模様です。その他の系統については7000形の初期(広告なしの長方形板)を除いて、赤と黒のいずれかに決められていました。どの系統にいずれの色を使うかについては、担当営業所の裁量に任されていた節がうかがえます。私がざっと見た限りでは、

・ひとつの系統のみを管轄する営業所では、原則黒。ただし南千住営業所の「22」は赤。

2種類の系統を管轄する営業所では、赤と黒に分ける。大塚営業所では「16」赤、「17」黒、神明町営業所では「20」赤、「40」黒など。

3種類以上の系統を管轄する営業所ではいずれか一方に偏らないようにしつつ、3種類目以降については運転状況に即して決定する。

最も系統数が多い営業所は錦糸堀で5種類を受け持っていましたが、「25」「36」「38」が黒、「28」「29」が赤。このうち「29」と「38」は境川派出所に分担させていて、やはり赤と黒に分けられていました。

巣鴨営業所では「18」を戦前からの本線とみなして黒、戦後できた2種類は赤という考え方だったのでしょう。

都電系統板数字の赤と黒は、極めてシンプルでありながら、幼心にはその系統が走る街のイメージにもつながっているように感じていました。動坂線は下町の賑わいの中を走る「赤」、池袋線は少し高級感のある文京区の住宅地を走る「黒」という具合に覚えていったと記憶しています。

地下鉄でイメージカラーが採用されてもう40年近くたちますが、地下鉄で使う色の種類は覚えきれないほど多くても、街のイメージにあまりつながらないあたりが不思議です。

電車乗降扉脇の窓下には、経由・行き先停留場を記す「サボ」が取り付けられていました。当時国鉄の電車などで使われていたものと類似の形状の細長い鋼鉄製板ですが、国鉄のものより材質や塗料がよくなかったみたいで、現在残されているサボは錆や塗料剥落が目立つものが多くみられます。41系統用は「巣鴨-西巣鴨-板橋本町-志村坂上→志村橋」と、開通の歴史を刻むように記されていました。経由停留場は3ないし4ヶ所記すスタイルだったようです。横に長い長方形の板に、停留場名56ヶ所を縦書きで記して、間を太く赤い四角や矢印で結ぶのですから、停留場名の文字はすさまじいまでに平べったく記す必要があります。職人さんの手書きだったと言われていますが、大相撲番付の字を洋風に置き換える感覚だったかもしれません。なるべく余白を取らず、スペースいっぱいに存在感ある文字を書いていったみたいです。小金井市の「江戸東京たてもの園」で保存されている車両には復刻サボも取り付けられていますが、写真で見る限りでは文字がスマートすぎて、余白も見やすく取ってあるため、当時の息遣いがあまり伝わってこない感がします。
一方このサボ表記は現代の路線バスにも引き継がれていて、幕表示がLEDに変わったことで管理も楽になったようです。バスでは縦横とも十分なスペースを取って、自然な字体で表示されています。

板橋区郷土資料館で保管している41系統用サボの裏面には18系統区間運転用の「神田橋-神保町-文京区役所-巣鴨駅-西巣鴨→板橋本町」が記されていると「トラムとメトロ」図録で解説されていました。ということは乗務中に折り返す際、裏返すような使い方は想定されていなかったのでしょう。私の家には20年ほど前に東京駅で行われた部品即売会で購入した「東京-浜松」のサボがあります。裏面は「浜松-沼津」と記されています。

若干古いたとえで恐縮ですが、1984年(昭和59年)のダイヤで東京1524分発の浜松行き331Mは、2026分に浜松に到着して一旦駅構内の側線に引き上げた後、2127分発490M沼津行きとして運用に就きます。その際サボを裏返して使っていたことが推定されます。この引き上げの様子は、私も実際に見ています。490Mは時刻表で、東京行きでもないのにグリーン車の記号がついているため、国府津運転所車両の折り返し運用とすぐにわかります。2354分に沼津に到着して引き上げ、車両はおそらく翌朝の東京行きになっていたと推定されますが、その際サボは「沼津-東京」に差し替えなければならず、「東京-浜松/浜松-沼津」のサボをどのようにして東京駅に返却していたかについてまではわかりません。下りの沼津発浜松行きでは、国府津運転所113系グリーン車つきの運用は行われていなかった模様です。

いつのまにかお話がそれてきましたが、この113系電車は11両ありますから、サボは両面で22枚必要になります。一方都電では2枚あれば足りるため、折り返しに使うサボは運転台の下に置いていたものと推定されます。系統板についても、菱形の時代は「6」の上下を逆にして「9」とする方法も使われていたといわれていますが(これをやりたいがために、青山営業所の電車は本来678を使うところを6910にしてもらったといううわさもあるようです)、ツボ型の裏面は別の系統が印刷されているものと白紙のものがあった模様です。折り返しで別の系統を表示させる必要がある場合は、やはり運転台の下に置いていたのでしょう。