しかし志村線の歴史は、板橋区で出している公式資料まで含めて「2行」で片づけられている文献がほとんどです。もちろんそれでは正確な理解や考察ができるはずもないため、中山道板橋地区周辺の沿革まで含めて、すこしだけくわしく歴史を紹介差し上げましょう。
路面電車なのですから、まず軌道が敷設できるだけの広さの、見通しがよく勾配をできるだけ抑えた道路があることが前提条件です。
中山道は昭和を迎える直前まで、江戸時代の街道筋のままの古く細い道でした。(明治10年代に改修計画が立案されたものの、西南戦争の戦後処理で政府の財政が逼迫して予算を出せず、簡易補修にとどめたと伝えられています。)
それでは電車が欲しいといくら地元で訴えても無理です。昭和初期に中山道新道計画が本格的に立案、実行されることで、初めて路面電車を通せる環境が整いました。現在の都営地下鉄三田線もこの時代のインフラ整備あってこそ建設が可能だったことがご理解いただけると存じます。
この環境は徳川幕府や明治政府の命により、路面電車が実用化される以前から整備されていた広い大通りに敷設されることの多かった都心方面の路線とは大きく異なるものでした。1932年(昭和7年)の東京市35区制発足以前に“東京府下”とされていた地域では、1932年から1937年(昭和12年)にかけて行われた、池袋駅東口から護国寺前まで電車軌道を敷設するための小高い森林を切り開く道路建設(1939年=昭和14年に開通した市電池袋線使用)など、類似の例がみられます。
中山道は昭和を迎える直前まで、江戸時代の街道筋のままの古く細い道でした。(明治10年代に改修計画が立案されたものの、西南戦争の戦後処理で政府の財政が逼迫して予算を出せず、簡易補修にとどめたと伝えられています。)
それでは電車が欲しいといくら地元で訴えても無理です。昭和初期に中山道新道計画が本格的に立案、実行されることで、初めて路面電車を通せる環境が整いました。現在の都営地下鉄三田線もこの時代のインフラ整備あってこそ建設が可能だったことがご理解いただけると存じます。
この環境は徳川幕府や明治政府の命により、路面電車が実用化される以前から整備されていた広い大通りに敷設されることの多かった都心方面の路線とは大きく異なるものでした。1932年(昭和7年)の東京市35区制発足以前に“東京府下”とされていた地域では、1932年から1937年(昭和12年)にかけて行われた、池袋駅東口から護国寺前まで電車軌道を敷設するための小高い森林を切り開く道路建設(1939年=昭和14年に開通した市電池袋線使用)など、類似の例がみられます。
付記として、板橋区地域の地形についても簡単に述べておきましょう。
板橋区は武蔵野台地の北端にあたり、台地と荒川沿いに広がる沖積層の低地との境目にあたる土地です。小豆沢から赤塚まで、区の中央やや北寄りをほぼ東西に横断するように、台地と低地を隔てる崖が線状に伸びています。崖線(がいせん)といいます。この崖線上に細かく複雑で趣深い様々な高低差が形づくられています。都市化以前は地下水からの泉もふんだんに湧き出ていたと伝えられています。
台地側には石神井川の流域で小規模ながら河岸段丘や谷戸地形がみられます。崖から湧き出る水を水源とする出井川(でいがわ)暗渠周辺にも急峻な高低差があります。低地側には出井川の他にも新河岸川に達する中小の河川がいくつか流れていました。荒川、新河岸川、石神井川以外の河川は、舟運に使うには程遠い規模のため、都市化・工業地帯化の進行により全て暗渠化されました。
中山道はこれらの地形を巧みにかわせる場所に造られていますが、低地側は1920年代(大正時代後半)に荒川・新河岸川改修工事に着手するまで湿地帯を通っていて、大規模な水害も頻繁に起きていたと伝えられています。埼玉県との境をなす大規模河川の改良により、農業・工業用地としての活用が初めて可能になりました。
台地側には石神井川の流域で小規模ながら河岸段丘や谷戸地形がみられます。崖から湧き出る水を水源とする出井川(でいがわ)暗渠周辺にも急峻な高低差があります。低地側には出井川の他にも新河岸川に達する中小の河川がいくつか流れていました。荒川、新河岸川、石神井川以外の河川は、舟運に使うには程遠い規模のため、都市化・工業地帯化の進行により全て暗渠化されました。
中山道はこれらの地形を巧みにかわせる場所に造られていますが、低地側は1920年代(大正時代後半)に荒川・新河岸川改修工事に着手するまで湿地帯を通っていて、大規模な水害も頻繁に起きていたと伝えられています。埼玉県との境をなす大規模河川の改良により、農業・工業用地としての活用が初めて可能になりました。
★ 板橋区地域における中山道新道(国道17号)整備および鉄道・軌道の歴史 ★
特に重要な事項は文字を大きく、彩色しています。
特に重要な事項は文字を大きく、彩色しています。
1604年 徳川幕府の命により中山道街道整備が行われる。
平尾(板橋宿南方)、志村一里塚設置。(平尾一里塚は明治初年までに撤去)
1740年代 小豆沢大善寺(崖線上)の僧侶が志村清水坂一帯を整備。
※清水坂から寺院へ向かう石段が現在の志村坂の場所に作られていたらしい。
1876年(明治9年) 加賀藩下屋敷跡に陸軍砲兵本廠板橋属廠(→砲兵本廠板橋火薬製造所→板橋陸軍第二造兵廠)開設。軍用火薬の研究開発を行う。
※以後、現在の北区赤羽南側の台地一帯に軍の広大な施設が多数設置される。
1884年(明治17年) 板橋宿大火。上宿・仲宿地区の家屋がほぼ全焼する。
1885年(明治18年) 日本鉄道品川線 品川-赤羽間開通、旧道交差点南側に板橋駅開業。(1906年国有化、山手線に改称。)
※現在の国道17号を横断する最初の鉄軌道。
1906年(明治39年) 現在の清水町・北区西が丘地域に東京陸軍兵器補給廠開設。
1909年(明治42年) 国有鉄道山手線 品川-赤羽間電化。運転系統が烏森(→新橋)-品川-渋谷-新宿-池袋-田端-上野間および池袋-赤羽間に改められ、板橋駅は支線区間に含められる。
1911年(明治44年)8月1日 東京市電気局発足。東京鉄道株式会社を買収して、市内路面電車事業を公営に一元化する。
1911年(明治44年)8月1日 東京市電気局発足。東京鉄道株式会社を買収して、市内路面電車事業を公営に一元化する。
1911年8月20日 王子電気軌道 飛鳥山-大塚間開通、旧道交差点付近に庚申塚停留場設置。
※現在の国道17号を横断する2番目の鉄軌道。
1911年 東京市電気局に小石川区駕籠町(現・文京区千石一丁目)-北豊島郡板橋町下板橋間軌道敷設免許下付。
1911年 東京市電気局に小石川区駕籠町(現・文京区千石一丁目)-北豊島郡板橋町下板橋間軌道敷設免許下付。
1913年(大正2年)2月2日 北豊島郡巣鴨町に東京市電気局巣鴨電車営業所開設。
1914年(大正3年)5月1日 東上鉄道 池袋-田面沢(たのもざわ。埼玉県入間郡川越町。1916年廃止)間開通。北豊島郡板橋町に下板橋駅開業。
※1920年 東武鉄道に吸収合併される。
1913~1917年 志村、西台、蓮根地域の耕地整理(土地交換?)事業実施。
※この時代に、現在の国道17号に相当する土地の権利を東京府が取得した?
1918年(大正7年) 板橋乗合自動車商会が巣鴨駅-板橋駅間で乗合自動車事業を始める。
※現在の板橋区内における最初の路線。
1918年(大正7年) 板橋乗合自動車商会が巣鴨駅-板橋駅間で乗合自動車事業を始める。
※現在の板橋区内における最初の路線。
1920年(大正9年)ごろ 清水坂の東側に現在の志村坂開削。
※国土地理院所蔵地形図「25000分の1 赤羽」で、1917年(大正6年)測量版には図示されていないが、1921年(大正10年)測量版に志村集落の南東側から一旦北方向に折れて、低地へ向けて北西方向に下る直線道路が示されている。
1921年(大正10年) 荒川流域改修工事開始。新河岸川流路開削着工。
1922年(大正11年) 道路法(1920年制定)改正、国の直轄工事・管理方針が決まる。
1923年(大正12年) 王子乗合自動車商会(→中仙道乗合自動車→東都乗合自動車→国際興業バス)が王子駅-志村戸田橋間の路線を開通。
※もちろん旧道経由だが、志村坂の開通により志村地区における乗合自動車営業が可能になった。
1923年9月1日 関東大震災発生。
1924年(大正13年) 帝都復興事業の一環として志村全域を工業地域内甲種特別地区に指定。
1924年5月5日 東武鉄道に南足立郡西新井村(現・足立区西新井)-北豊島郡上板橋村間の鉄道免許下付。
※東武西板線計画。実現すれば現在の国道17号を横断する3本目の鉄道路線となるはずだった。
1927年(昭和2年)現・豊島区巣鴨二丁目~板橋区舟渡三丁目間の中山道新道建設計画決定。
・現在の巣鴨地蔵通り商店街入口~板橋一丁目平尾交番間で既設道の北東側
・平尾交番~清水町交番間で既設道の南西および西側
・現在の東京都道311号環状八号線交差点~東坂下二丁目4 長後町一丁目電停(東坂下二丁目バス停)付近で既設道の西側
以上3箇所で道路新規敷設
・清水町交番~志村坂上交差点~志村三丁目1環八交差点付近(志村坂)および東坂下二丁目4付近~志村橋~戸田橋間は既設道の拡幅で対処
の工事方針が立案されたとみられる。
同年 現在の東京都道318号環状七号線建設計画決定。1934年(昭和9年)までに、板橋町十丁目(現在の大和町交差点)-王子区神谷町一丁目(現在の北区神谷一丁目 宮堀交差点)間開通。
同年 現在の東京都道318号環状七号線建設計画決定。1934年(昭和9年)までに、板橋町十丁目(現在の大和町交差点)-王子区神谷町一丁目(現在の北区神谷一丁目 宮堀交差点)間開通。
1928年(昭和3年) 総泉寺浅草から移転、大善寺を吸収合併。
1929年(昭和4年)4月19日 市電板橋線 巣鴨車庫-西巣鴨町開通。巣鴨四丁目(開設当初は”巣鴨劇場脇”と称していた可能性もあり)、庚申塚(王電庚申塚とは異なる)停留場開設。
1929年5月24日 市電庚申塚停留場付近の新道交差点に王電「板橋新道」停留場開設。
1929年5月27日 市電板橋線 下板橋まで延長。御代ノ台(→滝野川五丁目)、板橋郵便局前(→板橋駅前)停留場開設。24系統 下板橋-日比谷間電車運転開始。
※この時点で西巣鴨町環状道路(現・東京都道305号芝新宿王子線明治通り)交差点-下板橋停留場間の道路工事はほぼ完成していて、省線山手線跨線橋区間路面舗装作業を残すのみであった。
1930年(昭和5年) 市電庚申塚、王電板橋新道停留場が相次いで「新庚申塚」に改称。
1931年(昭和6年) 巣鴨地蔵通り入口~板橋警察署前間の新道工事完成、供用開始。
※警察署は旧所在地とされているが、開設当初は仲宿乗蓮寺内に設置されていたという。現在仲宿の(旧)板橋町八丁目付近までであろう。
1931年4月1日 市電運転系統が18系統 下板橋-日比谷間に変更される。
※18系統都心側の終点については志村線の開通や戦争をはさみ1949年ごろまで新橋駅北口、神田橋、神保町、駕籠町(→千石一丁目)など頻繁に変更されているが、明確になっていない事項もあるためここでは割愛する。1949年2月以降廃止まで志村(→志村坂上)-神田橋間で確定していた。
1932年(昭和7年)7月22日 東武鉄道に西板線起業廃止許可を出す。
1932年 新河岸川開削工事完成。志村の低地地域が現在の地形となる。
※志村橋はこの時架橋されたとみられる。
1932年10月1日 北豊島郡が東京市に併合。巣鴨町、西巣鴨町が豊島区、滝野川町が滝野川区(1947年王子区と合併して北区となる)、板橋町、志村が板橋区となる。
1933年(昭和8年) 日本橋-戸田橋間が(旧)国道9号線として告示される。
1935年(昭和10年) 清水町、蓮沼町、小豆沢町、志村町の新道工事完成、(旧)国道9号線として供用開始。
※既設道の拡幅工事。1933年に志村一里塚付近の石垣整備が行われる。
※大和町富士見病院~清水町交番間もこの時作られたか?
1935年 東武鉄道下板橋駅が豊島区(旧)池袋七丁目(現・池袋本町四丁目)に移転。
1935年 東武鉄道下板橋駅が豊島区(旧)池袋七丁目(現・池袋本町四丁目)に移転。
1937年(昭和12年) 板橋町八丁目(仲宿)~板橋町十丁目(大和町富士見病院)の新道工事完成、(旧)国道9号線として供用開始。板橋区内の中山道新道全通。
1938年(昭和13年)6月 板橋区会(区議会)にて、板橋町六丁目-志村蓮根町(現・舟渡一丁目)戸田橋間および池袋駅前-護国寺間の市電延長即時実施を陳情。
※板橋区議員で「市電延長促進委員会」を結成。翌1939年(昭和14年)4月の池袋-護国寺間開通を受けて、同年6月に市電志村坂下延長を東京市長宛に再度陳情する。
1942年(昭和17年) 王子電気軌道、東京市に事業譲渡。新庚申塚・庚申塚停留場付近は市電滝野川線となる。
1943年(昭和18年)7月1日 東京都制施行。東京市電気局が東京都交通局に改組される。
※「市電」の略称が「都電」に変化する。
※「市電」の略称が「都電」に変化する。
1944年(昭和19年)7月5日 都電志村線 下板橋(完成時に廃止)-新板橋間開通。板橋区役所前、板橋町八丁目(→仲宿)停留場開設。
1944年10月5日 都電志村線 板橋町十丁目(新板橋を改称。後に板橋本町)-志村間開通。清水町、蓮沼町、小豆沢町停留場開設。
同日 都電全線について、急行運転常態化に伴う停留場一部廃止。板橋線では巣鴨四丁目が対象とされる。
1944年10月~12月 都電志村線内の軌道敷整備事業が沿線住民の勤労奉仕を得て実施される。
※延長開通区間は当初敷石などが不足していて、路上にレールのみ敷設した仮線状態だったと伝えられている。
※延長開通区間は当初敷石などが不足していて、路上にレールのみ敷設した仮線状態だったと伝えられている。
1945年(昭和20年) 板橋町八丁目停留場廃止。
同年 富士見通(→大和町)停留場開設、廃止?
※「日本鉄道旅行地図帳」の表による。
1945年4月13日 巣鴨・板橋地区の中山道一帯が翌日にかけて大規模空襲を受ける。
1945年8月10日 志村地区の中山道一帯が空襲を受ける。
1945年4月13日 巣鴨・板橋地区の中山道一帯が翌日にかけて大規模空襲を受ける。
1945年8月10日 志村地区の中山道一帯が空襲を受ける。
1945年 第二次世界大戦敗戦、降伏に基づき中山道東側地域の軍用施設が米軍に接収される。
1946年(昭和21年)3月26日 戦災復興院により(旧)国道9号線都内区間が戦災復興都市計画道路放射9号線に指定される。
1946年9月1日 板橋線御代ノ台停留場が約200メートル西側の狐塚停留場に変更される。
1947年(昭和22年)6月18日 狐塚停留場が御代ノ台に戻される。
1947年6月25日 都営・東都乗合自動車(→国際興業バス)105系統 志村橋-巣鴨駅-東京駅間運転開始。
1947年 板橋区議会が交通局に対し都電志村以北延長請願を開始。
1948年(昭和23年) 巣鴨四丁目、板橋八丁目停留場復活。
1949年(昭和24年) 交通局が巣鴨駅-戸田橋間無軌条電車(トロリーバス)免許の申請を行うが不採択。
※区議会は電車か無軌条電車のいずれか一方に絞るよう交通局に要請していた。
1949年3月15日 志村線富士見通停留場復活。
1949年9月15日 都営・東都乗合自動車(→国際興業バス)117系統 上板橋(当初は現在の常盤台郵便局付近、後に駅前まで延長)-大和町-板橋駅-大塚駅-東京駅間開通。
※平尾交番から豊島区堀割交差点まで中山道旧道を経由するルート。
1950年(昭和25年) 国際興業株式会社による東都乗合自動車吸収合併が正式に認可、国際興業バス発足。
※東都乗合自動車は1946年(昭和21年)から国際興業傘下に入っていたが、当時の法律の都合上ただちに合併はできなかった。
1950年(昭和25年) 国際興業株式会社による東都乗合自動車吸収合併が正式に認可、国際興業バス発足。
※東都乗合自動車は1946年(昭和21年)から国際興業傘下に入っていたが、当時の法律の都合上ただちに合併はできなかった。
1950年4月15日 都営・国際興業バス105系統 志村橋-浦和駅間延長。
1952年(昭和27年) 改正道路法により(旧)国道9号を国道17号に改称。
1952年5月15日 交通局が志村-志村橋間軌道敷設免許を申請する。
1954年(昭和29年)10月2日 志村-志村橋間軌道免許下付。
※志村橋停留場の位置を当初の計画から変更したため、翌年3月ごろ着工。地元では4月開通を要望していたとみられる。
1955年(昭和30年)6月10日 都電志村線 志村坂上(志村を改称)-志村橋間開通。志村坂下、長後町一丁目、長後町二丁目停留場開設。
※同時期、交通局が長後二丁目22 三軒家地区(現・東坂下二丁目)に電車用の車庫用地を取得?
1956年(昭和31年) 国際興業バス26系統(→池20系統)蓮根町(現・地下鉄検車場)-池袋駅東口開通。
※熊野神社(→熊野町)から川越街道に入り、東武、赤羽線、山手線を越えて池袋六又交差点から豊島区役所を経て池袋駅東口三越裏に到着するルートだった。
1957年(昭和32年) 蓮根二丁目の住宅公団蓮根団地入居開始。
1958年(昭和33年)12月 板橋区内(中山道地域)の米軍接収施設用地返還。
※北区の一部施設については1971年(昭和46年)10月まで引き続き米軍が管理していた。
1959年(昭和34年)5月27日 長後二丁目に交通局大塚自動車営業所志村支所開設。
※1966年(昭和41年)5月に営業所昇格。
同日 都営・国際興業バス127系統 蕨操車場-板橋区役所-浅草寿町間運転開始。
1962年(昭和37年) 志村橋架け替え工事。
1962年4月 東京都建設局が都道301号および国道17号の千代田区一ツ橋~豊島区西巣鴨三丁目(西巣鴨交差点)間に「白山通り」、国道17号の西巣鴨三丁目~板橋区舟渡三丁目(戸田橋)間に「中仙道」(のち徳川幕府時代の街道名称にあわせて「中山道」)の通称を設定する。
1964年(昭和39年) 東京都道318号環状七号線 板橋区内の大和町以西区間開通。
1964年(昭和39年)4月 交通局が巣鴨-志村間の地方鉄道(高速地下鉄道)敷設免許を申請。12月18日認可、下付される。
1964年(昭和39年)4月 交通局が巣鴨-志村間の地方鉄道(高速地下鉄道)敷設免許を申請。12月18日認可、下付される。
1965年(昭和40年)8月 環状七号線 大和町陸橋完成。
※都電大和町停留場の巣鴨方面乗り場が陸橋北の富士銀行前から南の現・板橋本町駅入口付近に移設されたとみられる。
1966年(昭和41年)2月14日 交通局が巣鴨車庫-志村橋間軌道運輸事業の廃止を政府関係機関に申請する。
1966年5月14日 上記廃止申請が許可される。
1966年(昭和41年)2月14日 交通局が巣鴨車庫-志村橋間軌道運輸事業の廃止を政府関係機関に申請する。
1966年5月14日 上記廃止申請が許可される。
1966年5月28日 都電志村線廃止に伴う18・41系統最終運転。
※異説については、本ブログで詳しく考察する。
1966年5月29日 都電代替バス 都営志村車庫-巣鴨駅運行開始。
都営バス105系統 浦和駅-蕨操車場間打ち切り。
1966年8月 都営地下鉄6号線中山道区間着工。
※前年12月に、現在の蓮根駅付近の高架線部分で起工していた。
1968年(昭和43年)12月27日 都営地下鉄6号線 巣鴨-志村(→高島平)間開通。西巣鴨、新板橋、板橋区役所前、板橋本町、本蓮沼、志村坂上、志村三丁目、蓮根、西台の各駅開業。
1968年12月31日 都電代替バス運行終了。
1969年(昭和44年)1月1日 都営バス105系統の別ルートとして都営志村車庫-春日町-神保町-一ツ橋間運転開始。
※実質的に都電18系統の代替路線。Webサイト「都営バス資料館」では「105折返2」とされているが、1972年3月時点の路線図では「105乙」と記していて、従来ルート(本郷三丁目・御茶ノ水駅経由)は「105甲」として区別している。1972年(昭和47年)6月の地下鉄6号線巣鴨-日比谷間開通前後まで運行されていたとみられる。
1969年9月15日 都営バス105(甲)系統埼玉県内廃止、都営志村車庫-東京駅に短縮。
1972年(昭和47年)3月15日 山手線池袋-赤羽間支線を「赤羽線」に改称。
1972年(昭和47年)3月15日 山手線池袋-赤羽間支線を「赤羽線」に改称。
1972年11月11日 都営・国際興業バス127系統廃止(最終運転)。
1974年(昭和49年)10月1日 都電滝野川線を使用していた早稲田-荒川車庫間32系統が27系統と統合され、早稲田-三ノ輪橋間の「都電荒川線」となる。
1977年(昭和52年)12月15日 都営・国際興業バス東52系統(旧117系統)廃止(最終運転)。国際興業バス側の記録は不明だが、旧道経由の路線バス全廃とみられる。
1978年(昭和53年)7月1日 都営地下鉄6号線を「三田線」に改称。
1978年10月31日 都営バス東55系統(旧105系統)廃止(最終運転)。板橋区役所-西巣鴨間の路線バス全廃。
※以後、国際興業バス池21系統 高島平駅-池袋駅(1970年代開設といわれている)が志村橋-仲宿間を直通する唯一の後継営業路線となり現在に至る。
1982年(昭和57年)3月29日 交通局志村自動車営業所廃止。
1985年(昭和60年)9月30日 国鉄東北本線別線 赤羽-武蔵浦和-大宮間開通。舟渡一丁目・北区浮間四丁目に浮間舟渡駅開業。(駅事務所所在地は北区側)
※池袋-赤羽-大宮-川越間の電車直通運転開始に伴い、板橋駅も含めて「埼京線」の案内名称設定。
※赤羽線の正式名称は現在まで存置。
※池袋-赤羽-大宮-川越間の電車直通運転開始に伴い、板橋駅も含めて「埼京線」の案内名称設定。
※赤羽線の正式名称は現在まで存置。
国際興業バスの系統については改廃に関する詳しい資料が見当たらないため、現在も運行中の路線およびかつて都営バスと共同運行していた路線における改廃のみを記しました。
他にも都電営業時代には平行区間に32系統 赤羽駅-豊島病院-池袋駅(現在も赤51として運行)、41系統 浦和駅-板橋区役所-池袋駅(山手通り経由)、30系統 蕨町-板橋駅(旧道経由)、21系統 赤羽駅-志村坂下-戸田町、28系統 赤羽駅-志村坂下-笹目 などが記録されていますが、本年表では割愛しています。
1965年(昭和40年)時点では26系統蓮根町線の一日144本、21,446人利用が群を抜いて多く、ついで志村橋を越えて埼玉県に直通する41系統(58本・13,167人)、都電41系統単独区間の補完にあたる21系統(88本・10,119人)、現在も運行している32系統(84本・9,439人)が好成績をあげていました。共同運行路線は105系統(124本・17,905人)、127系統(80本・13,763人)、117系統(74本・12,293人)いずれも多くの需要がありましたが、中山道地域以外の利用分を割り引く必要がある数字です。
他にも都電営業時代には平行区間に32系統 赤羽駅-豊島病院-池袋駅(現在も赤51として運行)、41系統 浦和駅-板橋区役所-池袋駅(山手通り経由)、30系統 蕨町-板橋駅(旧道経由)、21系統 赤羽駅-志村坂下-戸田町、28系統 赤羽駅-志村坂下-笹目 などが記録されていますが、本年表では割愛しています。
1965年(昭和40年)時点では26系統蓮根町線の一日144本、21,446人利用が群を抜いて多く、ついで志村橋を越えて埼玉県に直通する41系統(58本・13,167人)、都電41系統単独区間の補完にあたる21系統(88本・10,119人)、現在も運行している32系統(84本・9,439人)が好成績をあげていました。共同運行路線は105系統(124本・17,905人)、127系統(80本・13,763人)、117系統(74本・12,293人)いずれも多くの需要がありましたが、中山道地域以外の利用分を割り引く必要がある数字です。
高島平地域開発との関連を明確にするために、以下参考年表を記します。現在の高島平は旧北豊島郡赤塚村北部および志村の西北端地域で、板橋区発足後は志村西台町、四ツ葉町(現在の四葉一丁目・二丁目地域のみならず、その北方まで含めておよそ3倍の町域を有していました)、徳丸本町、下赤塚町などとされていました。下赤塚町は、南は東武の下赤塚駅や川越街道から北は新河岸川まで、広大な町域を有していました。
<参考> 高島平地区の沿革
1958年(昭和33年)ごろ 旧赤塚村北部地域の水田耕作が困難になる。
1962年(昭和37年)5月 土地区画整理事業準備組織「旧赤塚水田地帯開発協議会」発足。
1962年6月8日 都市交通審議会答申6号にて「西馬込-五反田-田町-日比谷-春日町-巣鴨-大和町(やまとちょう、現・板橋本町駅)-上板橋および志村間地下高速鉄道」(東京都市計画高速鉄道網6号線)建設方針が示される。
※この段階で交通局は、志村終点を都電志村橋停留場近辺と想定したが中山道の低地ルートは技術上建設困難という結論となり、清水坂西側から高架線として蓮根駅北方に志村終点を置く案に変更された。
1963年(昭和38年)10月 運輸省による交通局・東武・東急3事業者に対する指導に基づき、大和町-上板橋間の6号分岐線を東武鉄道分担とする。
※「交通局100年史」ではその前年に東武から提案された話であるように記されている。東武にとっては、旧西板線計画の一部復活と位置づけられる。
同年12月ごろ 東武鉄道が上板橋駅改築困難および乗客数増加停滞を理由として、乗り入れ接続駅案について大和町(やまとまち、現・和光市駅)への変更を申し出る。
1964年(昭和39年)1月31日 東京都市計画高速鉄道網6号線の板橋区大和町(やまとちょう)-上板橋間支線部分の事業計画中止、及び志村-埼玉県北足立郡大和町(やまとまち)間本線延長への変更が正式決定される。
※これにより交通局は志村駅建設位置を蓮根町から西方の志村西台町に変えることになる。東武は板橋区大和町-上板橋間に代えて、埼玉県北足立郡大和町-志村間を分担することとなる。
1964年(昭和39年)1月31日 東京都市計画高速鉄道網6号線の板橋区大和町(やまとちょう)-上板橋間支線部分の事業計画中止、及び志村-埼玉県北足立郡大和町(やまとまち)間本線延長への変更が正式決定される。
※これにより交通局は志村駅建設位置を蓮根町から西方の志村西台町に変えることになる。東武は板橋区大和町-上板橋間に代えて、埼玉県北足立郡大和町-志村間を分担することとなる。
1964年(昭和39年)4月 交通局が巣鴨-志村間の地方鉄道(高速地下鉄道)敷設免許を申請。12月18日認可、下付される。
1965年(昭和40年)6月 土地区画整理事業施行地域確定。
1965年12月 地下鉄6号線着工。
1966年(昭和41年)12月 日本住宅公団を土地区画整理・団地造成事業主とする。
1968年(昭和43年)12月27日 都営地下鉄6号線巣鴨-志村間開通。
1969年(昭和44年)3月1日 住居表示実施により高島平一丁目~九丁目発足。
1969年8月1日 志村駅を「高島平」に改称。
※旧赤塚村の徳丸本町に設置されたため、疑問を抱く区民から多数の問い合わせがあったといわれる。
1969年12月 高島平団地着工。
1970年(昭和45年)ごろ 東武鉄道が大和町駅からの乗り入れ先を営団8号線(→有楽町線)に変更する旨を交通局に伝える。
※具体的な年月を記載した資料は見当たらないが、地下鉄志村-東武大和町間について「東武高島平線」の仮称が用いられていた時期もあったことから、高島平町名制定時点では高島平-東武大和町建設計画はまだ生きていた。森林公園検修区・森林公園駅の開設(1971年=昭和46年)など、当時の東武側の設備投資状況もあわせて考える必要があろう。なお営団8号線成増-池袋間は1968年(昭和43年)10月30日に免許交付されている。
※Wikipediaの「都営地下鉄三田線建設経緯」の項目では、鉄道ピクトリアル誌2013年7月号別冊掲載の記述を典拠として、東武側からの計画変更申し入れ時期を「1968年」としてあるが、その時点では高島平の町名は発足していないため、「東武高島平線」の仮称は成立していない。従ってピクトリアル誌の記述には疑義があるとみなせられる。
1972年(昭和47年)3月1日 都市交通審議会答申第15号(東京およびその周辺における高速鉄道を中心とする交通網の整備増強に関する基本計画について・1985年までに整備すべき路線)にて、東京都市計画高速鉄道網6号線を「大宮市西部-浦和市西部-戸田市西部-高島平-日比谷-清正公前(せいしょうこうまえ。東京都港区高輪一丁目。都電4・5系統の分岐停留場だった。現・白金高輪駅)-港北ニュータウン(横浜市港北区および都筑区)」に変更。これにより和光市-高島平間の「東武高島平線」計画が正式に撤回される。
※Wikipediaの「都営地下鉄三田線建設経緯」の項目では、鉄道ピクトリアル誌2013年7月号別冊掲載の記述を典拠として、東武側からの計画変更申し入れ時期を「1968年」としてあるが、その時点では高島平の町名は発足していないため、「東武高島平線」の仮称は成立していない。従ってピクトリアル誌の記述には疑義があるとみなせられる。
1972年(昭和47年)3月1日 都市交通審議会答申第15号(東京およびその周辺における高速鉄道を中心とする交通網の整備増強に関する基本計画について・1985年までに整備すべき路線)にて、東京都市計画高速鉄道網6号線を「大宮市西部-浦和市西部-戸田市西部-高島平-日比谷-清正公前(せいしょうこうまえ。東京都港区高輪一丁目。都電4・5系統の分岐停留場だった。現・白金高輪駅)-港北ニュータウン(横浜市港北区および都筑区)」に変更。これにより和光市-高島平間の「東武高島平線」計画が正式に撤回される。
1972年(昭和47年)3月 高島平団地完成、入居開始。
1973年(昭和48年)4月28日 交通局が東武鉄道から三園町(→西高島平)-高島平間の鉄道敷設免許を譲受。
1976年(昭和51年)5月6日 都営地下鉄6号線 高島平-西高島平間開通。
1976年(昭和51年)5月6日 都営地下鉄6号線 高島平-西高島平間開通。
以上の経緯より、交通局では1963年(昭和38年)ごろまでは都電志村線の営業を今後とも続けていく意思を有していて、地下鉄はあくまで将来乗客数が増加した際の都電代替交通機関として準備するという位置づけであったことがご理解いただけると存じます。そこに赤塚水田再開発事業の計画が立てられ、さらに東武が旧西板線計画ルートから板橋区北西ルートに変更したいと申し出てきたため、新しい街ができたらまず鉄道の駅が必要と考えた地元の区画整理事業団体との利害が一致したことで、都電とは異なる地域への進出が決まったと解釈できます。
また、中山道からの徒歩圏内といえる長後(坂下)・蓮根地域の住宅地化(1950~1960年代)と、高島平地域の開発(1970年代)は全く別箇のものであることをあわせて強調いたします。
前置きが長くなりました。そろそろ2016年の志村橋に向かいましょうか。
「風街の路面電車」をうたう“はっぴいえんど”を聴きながら。