2016年11月1日火曜日

都電本ガイド(13)懐かしの都電41路線を歩く ●

(実業之日本社、2004年)

あいにく厳しい内容のレビューとせざるを得ないため、著者のお名前は伏せてお話します。
「ぽこぺん談話室」で、あまりにもひどい本という評判を拝見して、どれほどひどいものか確かめてみようと思い立ちました。

☆やはり品性あってこそ

この本は、著者がある雑誌に連載していた記事をまとめて単行本化した書籍と紹介されています。著者は1956年(昭和31年)ごろ、家賃が安いからという理由で(旧)蓮根三丁目(現・坂下二丁目)に住んでいて、長後町一丁目停留場から都電で毎日都心まで通っていたと綴られていますから、本ブログとしてはポイントが高くなるはずですが…やはり「ぽこぺん談話室」の眼力は伊達ではないと思い知らされる、残念な内容でした。

都電に関する基礎知識の誤りについては、私自身も気がついていないことが少なくないと思われるためここでは言及しませんが、文章全体にあまりにも品がなさすぎることのほうが、私にははるかに気になりました。

ある著名な作家(今では歴史上の人物となっています)の文章を「悪文」として、

<引用>
「私の嫌いな作家にも、都電を描いたこういう例があるということをフェアーな立場で紹介したまでである。」
<引用終了>

と、得意気に書いています。

何と言う上から目線。
作家や作品の好き嫌いは人の好みに属することですから、ご自身の感性に合わないということは当然ありますが、何を威張っていらっしゃるのでしょう?それほど斯界で偉いお方ですか?

他にも、小石川柳町の電停近くに樋口一葉終焉の碑があったが、最近は行っていないから、どうなっているか確認していないなど、紙数を割いて自慢げに書くことでしょうか。文京区のホームページを見れば、現在の様子が詳しく案内されていますよ?足をお運びあそばされることは、そう手間でもないはずですよ?

それにもかかわらず、あとがきでは全路線の跡を訪れて取材しなおしたと、堂々と記しておいでです。とほほ…。

かなり前のお話ですが、書籍タイプの鉄道カレンダーをいただいたことがあります。見開きで鉄道写真と、週ごとのカレンダーを配して、カレンダーページの隅には分担執筆制で数名の方が鉄道に関する短文を掲載していました。

その中に、当時実在の有名列車を舞台にした小説を量産していた作家の作品について、おかしな点や事実関係の間違い、実際には不可能な行動などを数週分にわたり指摘していた方がいらっしゃいました。

現在あいにく私の手元にありませんが、覚えているお話としては、

「(大阪発青森行きの)特急白鳥で、車掌が青函連絡船の乗船名簿を配りに来ないと大騒ぎになる場面を描いているが、あれは車内の客室に入るドアの脇につるしてあり、連絡船に乗る客が各自持っていくものである。」

しめくくりとして

「これでもこの作家は、作品に登場する列車には全部乗ったと豪語している。」

と、きつい皮肉を贈呈していました。

この本を拝読して、何十年ぶりかにそのカレンダーのことを思い出した次第です。

著者は、威張って書くことが作家のステータスと勘違いなされていらっしゃるのでしょうか。雑誌連載の単行本化という経緯は、そのような書き方に溜飲を下げるタイプのが、世にはまだ大勢いるという証でもあります。

お金を取って、文章をひとに読んでもらうには、やはり品性こそが大切。
改めてそう思わされる著作でした。

☆著者が見た「ゴールデン街の13番」

「ぽこぺん談話室」では、この本の13系統の章について

「新宿付近は昭和20年代の経路切り替え前、ゴールデン街裏を通っていた頃の描写をしているのに、昭和33年に延長された水天宮前まで記してある。この種のことをさらりと書いてあるため、注意が必要。」

と指摘されています。

改めて目を通してみると、該当の文章は営業運転中の13系統の電車が、実際には既に通らなくなっている旧線を走行しているとしか読み取れない表現であり、明らかに誤りです。この区間の経路変更は1948年(昭和23年)12月に行われていすから、著者はまだ小学生で、いくら戦後の混乱期とはいえゴールデン街(当時はその筋の人が仕切る闇市が集まり、マーケットと呼ばれていた)などに行っていたら大目玉もののはずです。

しかし、大人になり文学の道に進んだ著者や、知り合いの作家、編集者などが昭和3040年代にゴールデン街裏の枕木や線路を渡って店に通い、そこに13番の電車が警笛も鳴らさずにのっそりとやってきたものだというくだりは、あながち記憶違いではないかもしれません。

そう、著者がそこで見た「13番の電車」は新宿駅前から大久保車庫まで引き上げる「回送車」だったのでしょう。

著者たちがゴールデン街に出向く時間帯を考えてみましょう。
朝や昼間ではない…でしょうね。
夕方の通勤輸送がそろそろ終わろうかという頃のはずです。

その時間帯には新宿駅前で客を降ろした電車が「13」の系統板をつけたまま、車内の照明もおそらくつけたままで幕を「回送車」に変えて大久保車庫を目指し、旧線を走っていたことでしょう。何両も立て続けに走っていたと思われます。「13」のみならず「12」の系統板をつけた電車も回送していたはずです。

著者はその回送車を、営業運転の13系統と記憶違いしていらっしゃるものと推定されます。

この推定は「都電の100年 Since1911」に掲載された笹目史郎さんのお話が大きなヒントになりました。笹目さんは小学生の頃、校外行事がある時は都電の貸切車に乗ることが常だったが、回送線を経由して大喜びしたこともあると記されています。

よい子の小学生た電車が通る時間帯には、もちろんこの本の著者は書斎で執筆しているか、編集者と打ち合わせなどしていたでしょう。しかし昭和30年代以降でも旧線を「13」をつけた電車が結構通っていたこと自体は間違いないのではないかと考えています。

なお、この本に掲載されている18系統の写真は「わが街わが都電」に掲載されているものと同じで、説明の誤りもそのまま引き継がれています。