(諸河久・写真、林順信・文、大正出版、1983年)
「都電百景百話」の評判を受けて、大正出版が翌1983年(昭和58年)に企画した都電本です。都電運転時代の写真と同じ場所を撮影して見開きに掲載して、街並みの変化をひと目で見てもらうという「東京今昔定点対比」写真集です。
このアイデアは当時の大正出版の社長さんが考えたものですが、それ以前には鉄道に限らずほとんど見られなかった試みと思われます。
「続・都電百景百話」で志村線と杉並線の写真を提供した諸河久さんの撮影写真を使い、新しい写真も諸河さんが撮影。林さんが各写真にエッセイを添える形式です。
諸河さんは第一次撤去以降都電に対する関心が薄れ、写真専門学校の課題の時くらいしかカメラを向けなくなり、一般の鉄道の撮影が主力になったということで、諸河さんがカバーしていない地域の都電写真は林さん撮影のものが使われています。諸河さんにとって都電写真は学生時代のもので、プロの写真家として技術的には未熟と考えていたようで、出版の話をもらってもしばらく迷ったが、記録性の価値を見直そうと思い引き受けたと記しています。
山手編と下町編の2巻が出版され、いずれも巻頭には綺麗なカラー写真。巻末には林さんの友人で、やはり都電写真の撮影をしていた田中登さんが寄稿。さらに江本廣一さんによる車両解説、車庫配置表、林さんと諸河さんの対談などが掲載されています。
志村線は山手編のほうに、巣鴨車庫前、滝野川五丁目、志村坂下、志村橋が掲載されています。他に新庚申塚で志村線の軌道を渡る、滝野川線の乙2貨物車の写真が紹介されています。さすがプロのカメラマンを目指すだけのことはあります。
この本では田中登さんによる「さようなら都電」が優れています。志村線の最終運転日の状況を詳しく記し、電車だけでなく街並みにも関心と敬意を払い、乗客や沿線で見送る人々の表情について温かく描写なされています。田中さんの撮影写真も本ブログにおける写真撮影場所推定や考証に、大いに役立ちました。
志村線以外の写真では茗荷谷駅前の同潤会アパート(大塚女子アパートメントハウス)がとりわけ懐かしいです。1983年撮影のほうにも、もちろん写っています。あの建物の1階にはパン屋があり、インベーダーゲームもそこで初めて見ました。1983年写真撮影時には評判の店が入っていたのでしょうか、行列を作っている人たちの姿が写っています。
麻布霞町の笄坂上からタワーを背景に6系統渋谷駅行きが登ってくる場面は、まさしく「風街ろまん」の世界です。
あの道路の上に作られた首都高速は東名ハイウェイバスの経路です。東京駅を出ると東急文化会館のプラネタリウムのドームが最初の目印で、そこを通りすぎると旅心も湧いてくるというものでしたが、それは多くの人たちの愛着を犠牲にした上でのものであったと、改めて気づかされました。
あの道路の上に作られた首都高速は東名ハイウェイバスの経路です。東京駅を出ると東急文化会館のプラネタリウムのドームが最初の目印で、そこを通りすぎると旅心も湧いてくるというものでしたが、それは多くの人たちの愛着を犠牲にした上でのものであったと、改めて気づかされました。
諸河さんの写真は、後年の「都電が走った街」ほどフレーミングを厳密に設定していないカットもあり、このジャンル自体始まったばかりであることが見て取れます。警察官から不審な目で見られることもあった一方で、街角で昔の写真を参照していると地元の人が大勢集まって親切に教えてくれたなど、諸河さんのコメントには地域ごとの差がうかがえます。
林さんと諸河さんの対談にも、改めて面白さが感じられます。地下鉄工事中の鉄板張り道路など幼児の目で懐かしく思い出しますが、当時の大人世代にとっては懐かしいでは済まされません。歩行者天国で都電が運休させられたエピソードも考えさせられるものがあります。現在志村銀座商店街では日曜祝日に必ず歩行者天国を実施するため路線バスが迂回させられ、結構見通しの悪い交差点の右左折を強いられている様を見ているだけに。
林さんと諸河さんの対談にも、改めて面白さが感じられます。地下鉄工事中の鉄板張り道路など幼児の目で懐かしく思い出しますが、当時の大人世代にとっては懐かしいでは済まされません。歩行者天国で都電が運休させられたエピソードも考えさせられるものがあります。現在志村銀座商店街では日曜祝日に必ず歩行者天国を実施するため路線バスが迂回させられ、結構見通しの悪い交差点の右左折を強いられている様を見ているだけに。
都電廃止後、都営地下鉄の駅や交通局の施設などに飾られたレリーフや壁画についても話題にしていました。諸河さんは、某都営地下鉄駅のコンコースに路線開通記念として飾られた、鉄道馬車から都電まで東京の市内交通の姿を絵巻のように描いた壁画に落書きされたことを憤っています。
私の拙い記憶で恐縮ですが、開通2~3年目の1970~1971年(昭和45~46年)ごろ、当時の国鉄ストライキビラと同じようなノリで都電PCCカー5501の絵に記され、長らくそのままの状態で放置されていました。昭和が終わるころ、ようやくきれいに修復されたと覚えています。
本書153ページで言及されている壁画。落書きは左の扉から車体部分 5501数字下にかけて記されていたと記憶している。(2016年10月) |
このたび現況を確かめに行ったところ、ご覧のとおりの状態でした。
この駅では伝統的に、都営交通の歴史を尊重して、先人に敬意を払う姿勢など微塵もお持ちでないことが、改めてよくわかりました。現在の駅職員だけの問題ではありません。
それならば壁画は、この駅には分不相応で、もったいないということになります。
ここまで粗略に扱うのならば、製作関係者の承諾を得て壁面から取り外し、駅事務室の倉庫で丁重に保管して、都営交通の歴史をテーマとするイベントの折に公開する方法に改めてみてはいかがですか。それとも実物の5501と同じように、荒川車庫に丸投げしますか。安全やお金にかかわること以外で嫌味を言う、言われるのはお互い不愉快でしょうから。
現場の職員さんは安全運行第一で激務にあたられているのですからあえて知る必要もないのかもしれませんが、この絵のモデルとなった5501が昭和の終わりごろまで上野公園でどのような目に遭っていたかを知る顧客が未だ多く生き残っていることは、頭の片隅で覚えていただいて決して損はないと存じます。
若い方が多く、身近な人の死をまだご存じないのかもしれませんが、幼い頃の温かい思い出がある故人の遺影に、そのスタンプラリーの紙を張れますか。
この様子を見て、副都心線の新宿三丁目駅コンコースや、日本橋三越の地下道、東京駅丸の内側の国鉄本社ビル跡地下道などに飾られている絵画や作品がきれいな状態で保管されていることを思い出して、情けなくなって参りました。交通局でも大江戸線都庁前駅改札脇に都電の「都庁前」停留場標をショーケースに入れて展示しています。
スペースがないとは言わせません。
やればできるはずです。
本書の初版はソフトカバーですが、10年後の1993年にハードカバーの新装版が発売されています。私は懐事情により、本命の山手編のほうを先に買ったためソフトカバー、後で購入した下町編をハードカバーで揃えています。新装版のほうには東急世田谷線の旧型電車を背にした宮脇俊三さんの写真が最後の新刊広告ページに掲載されていて、そこまで含めて貴重な資料となっています。宮脇さんはほとんど写真を撮らないそうで、専ら文章だけだったことでしょう。
表紙はいずれも1980年代のランドマークのカラー写真と、モノクロームの都電をオーバーラップさせたデザインで、アナログ時代はプロでないとできない技術だったでしょう。