2016年11月9日水曜日

都電本ガイド(5)写真で綴る 東京都電風土記



(野尻泰彦・著、伸光社、1984年)

「都電春秋」の野尻さんが、同書の上梓から15年が経ち、既に荒川線以外の都電路線が消滅して久しい1984年(昭和59)に、実質的な改装新版として著した本です。林順信さんの都電本が話題を呼んでいた時期で、林さんとはまた異なる視点からの都電話を読みたい、もっと懐かしい写真を見たいという要望に応えての「再登板」でもあったものと思われます。

☆量が増え、紙質が良くなっても…

この本は15年間の出版界の進歩を示すように、本文は薄手のグラビア用紙を使い、表紙はハードカバーで丈夫に仕上げています。写真も増やし、戦後の全系統順に章立てして、起点から終点にかけて綴る形式は理想形のはずですが…。

残念ながら、粗が少なくありません。

志村線41系統しめくくりの「トホホぶり」については既に指摘しましたが、他にも「あら?」と思わせる記述が見受けられます。「都電春秋」の原稿を若干手直しして、ほぼそのまま載せている箇所も少なくありません。日本史の先生らしからぬ、文意があやふやな箇所も見つかります。序文における知り合いの医師に対する謝意の記述より、健康状態に不安があったとも推測できます。

表紙裏側の電車案内図では、住吉町二丁目から東陽公園までの路線(猿江線、28系統使用)がありません。撤去計画最終段階まで営業していたのに、勝手に先行廃止しないでください。

「あとがき」では、「昭和37年当時、全系統の延粁数350粁におよんでいた。」とい文言が記されていますが、これは誤解を招きかねない表現です。複数の系統が通る区間は系統数分繰り返して加算していて、例えば上野広小路と外神田三丁目の間は実際の6倍の数値を用いていることになります。営業当時は臨時・例外系統が多数存在していた事実からも、この計算は意味を持たないでしょう。

構成もバランスを欠いています。1系統から順に書いていき、後半既述の重複区間が増えてくると前のページを参照する旨を記して省略するため、系統番号が増えるに従い書き方がぞんざいになっていく印象を与えます。39系統は「全区間他の系統と重複」としていましたが、肝心の安藤坂をお忘れになっています。

巻末には索引をつけて、事項別・停留場名別に分けるという工夫を採用するまではよいのですが、本文中で「長後町二丁目」について言及しているにもかかわらず、索引では無視されています。
それほどまでに志村を小馬鹿にしたいのでしょうか(悲嘆)。

重複区間については、各系統の章にバランスよく振り分ける工夫がほしいところでした。また文章中心で系統別に記して行く方法にはどうしても限界があり、この構成を採用するのならばビジュアル面での充実が必須であることも発見のひとつでした。


☆鮮やかな荒川線

本書では荒川線として現存する区間について、新たに撮影した写真(1983年=昭和58年=8取材)を数点掲載しています。ひときわ綺麗なカラー写真で、当時の荒川線の様子が鮮やかに記録されています。往年と変わらない風景が残る中にも、ワンマン化で停留場がかさ上げされて、国鉄駅名標に近いデザインの停留場標が設置されていて、電停と駅の中間みたいな感じになってきたと見て取れます。更新7000形の当時の標準色(アイボリーとブルー)も、既に懐かしい姿となってしまいました。

王子駅前を走る国際興業バス赤50系統旧塗色車の姿も貴重です。系統用の小さい幕と、行き先用の大きな幕を使っていたことが観察されます。この時代都心乗り入れ路線は既になくなり、営業地域はほぼ現在の形に近づいていましたが、この年は地下鉄有楽町線が営団成増まで延長開業され、2年後の1985年(昭和60年)には埼京線の開通が続き、路線系統の大幅な再編が繰り返された時期でもありました。


☆春色の霞町

いくつかの系統については「撮影記」が章末に記されています。

電車とともに、もっと人物を入れておけばよかった。」

は、昭和最終期ならではのご感想でしょう。当時、国鉄の主要幹線(在来線)やローカル線を起点から終点まで取材した写真集がいくつか出版されていて、乗客や乗員の表情にもカメラを向けていきいきとした表現がなされていたことも、もしかしたら影響しているのでしょうか。

今ではとんでもない話になってしまいます。その意味でこの半世紀は「悪知恵や狡猾な行動、恐ろしいまでの執着心を警戒するために、おおらかさを削いでいく」歴史でもあったのでしょう。

その一方で73ページに掲載されている「第六系統撮影記」は素敵な一文で、この本を買ってよかったと心から嬉しくなりました。

野尻さん1962年(昭和37年)4月に6系統の撮影を行っています。渋谷駅付近を撮影した48日)はまだ寒く、午前中早い時間に道ゆく人はコートの襟をしっかり閉じていたが、1週間後の日曜日、415日に霞町を訪れた時は午後の暖かい時間で、春の物憂げな日差ししが道ゆく人々にも電車にも降りそそ皆冬のコートを脱いでいた、若葉の色の鮮やかな街を歩いたと記しています。


松本隆さんが生家の青山から霞町に転居したのは、外苑西通りの整備工事が始まった1963年とみられるため、この写真の頃はまだ家の近所ではなかったでしょう。しかし「青山、麻布、渋谷が遊び場だった」とおっしゃっていますから、既にこの場所を知っていた可能性はあります。
 
松本さんが書いた有名なフレーズ

「春色の汽車に乗って、海に連れていってよ」

は、このあたりの風景が原点だったのかもしれないと、改めて思いました。
すると実際は「春色の電車」で、ねだった人は妹さんだったのでしょうか。

この仮説を取ると、いくら何でも「煙草のにおいのシャツ」ではなかったでしょうが、そのあたりは詩人ならではの感性とテクニックで、ストーリーに仕立てていったのでしょう。先日(201610月)のテレビ番組ご出演の折にも、ヒットできる詞を書くコツのひとつとして「98%の嘘と2%の真実」とおっしゃっていましたから、ありえないお話でもないかと存じます。

松本さんが作詞したヒット曲の中には、身体が弱く、若くして亡くなった妹さんをしのび、捧げる作品がいくつかあります。ご本人は「君は天然色」をあげていますが、「カナリア諸島にて」「風立ちぬ」などもラブソングというよりもむしろ、天へ旅立った妹さんへの思いが隠されているように思えます。


野尻さんは「第六系統撮影記」を、渋谷駅の描写でしめくくっています。
<引用>

「東横デパート(東急東横店)に出入りする地下鉄の黄色い電車、大きなテントを張ったような東横線のホーム、目白押しに発車を待つ都電の光景、これらが全部渋谷から姿を消してしまう日は来るのだろうかと思われた。」

<引用終了>

都電がバスに変わっても数十年間ほぼ保たれていましたが、近年着手された渋谷駅周辺再開発では、既に東横線ホームが閉鎖されました。
さらに近いうちに、地下鉄のホームを明治通りの上に移設するそうです。
すなわち、暗い車窓がまぶしく変わり、渋谷の街を高々と見下ろすというあの体験がもうできなくなります。
明るくなったと思ったら同時に屋根の下に入り、もうホームドアなのですから。
それではもはや“渋谷”とはいえません。

営団地下鉄の渋谷駅と阪急三宮駅で、古めかしい百貨店ビルの中腹から電車がゆったりと現れる場面は、その街の“顔”でもありました。私が生きている間に両方ともなくなってしまうとは思いもよりませんでした。

野尻さんは、確かに「先見の明」をお持ちでした。