(今尾恵介・監修、新潮社、2009年)
☆都電に関心を持つ人の“必携教科書”
「日本初の正縮尺鉄道地図」をアピールポイントとして、北海道から九州まで、さらにかつての領土・植民地の鉄道に至るまでのデータ掲載を目指した全12号+別巻シリーズの“第5号”です。それまでの鉄道駅・路線データは営業上の路線図や事業者の公表資料に基づくものだけだったため、どんな地域をどのような姿で通っていたのか、わかりづらいものがありました。このシリーズはその不便を解消することを目的として構成されています。
「東京」には、地下鉄と新交通システム、さらに都電に関するデータを収録。旧・国電については電車運転上の案内名称に基づいて記されています。
笹目史郎さんによる、東京市電・都電(明治時代の公営化前も判明している限り収録)の全停留場変遷データは、都電に関する第一級の資料です。さらに、1962年(昭和37年)現在の営業路線を東京の地図上に表示。当時、交通局で制作していた「電車案内図」や、大正時代(1919年ごろ)、昭和初期(1932年ごろ)の路線図写真も添えて読者の理解を助けます。
都電にも、日本国有鉄道線路名称と同じ要領で正式路線名がつけられていたという知識はありましたが、それでは具体的に何線がどこを通っていて、何番の系統が使っていたかについては、ほとんど見当がつきませんでした。それもこの本を見れば一目瞭然です。高度成長期以降は「新橋」「銀座」の地名にまとめられてしまった、三原橋・蓬莱橋・芝口・土橋などについても、位置の把握が可能になりました。土橋は現在でも交差点に表示されています。ニュースでも取り上げられて、交通局が製作した記念文鎮にも刻印されたため正式名称と誤認されやすい「都電銀座線」は通称で、正確には品川線・金杉線・本通線であることもわかります。
「わが街わが都電」の紹介記事で、「小石川地区の住居表示実施による町名変更はもったいないことをした」と申し上げましたが、旧小石川区には「掃除町」という町があったそうです。市電の停留場名にも採用されていて、1911年(明治44年)から1925年までと、ほぼ大正時代に相当します。そのデータも白山線の項目で確認できます。
調べてみたら住居表示制度など想像もつかない段階(1925年=大正14年)に早くも「八千代町」と改称して、その際に停留場名も変更されました。小石川掃除町は1663年に、伝通院などの御廟所掃除役の人たちに幕府が屋敷を与えたことに由来する町名といいます。明暦大火(1657年)から6年後で、街の復興に寄与させる意味合いもあったでしょうか。
しかし幕府がなくなり近代化の時代を迎えると地元でも、他所の人から笑われやすいという意見が出たのでしょうか。今ならばすぐに覚えてもらえてかえって歓迎なのでしょうが。ちなみに「洗濯町」はありません。
13系統が通っていた角筈線にも、箪笥町、焼餅坂などの停留場があったことが確認できます。箪笥町は牛込区役所前に改称されて、戦時中の1944年(昭和19年)に廃止。焼餅坂は大正時代のうちに山伏町に改称されて、路線廃止(1970年=昭和45年)まで残りました。牛込地区は町名改定を行わなかったため、箪笥町は現在でも新宿区の公式町名です。「箪笥」は収納家具ではなく、幕府で管理する武器類の総称のことといいます。
牛込地区は昔の細かい町名のままでも支障なく行政が機能しています。ということは他でも無理をして、地元の人に嫌な思いをさせてまで町名を変える必要はなかったのではありませんか。
たとえば「両国」とは武蔵と下総の両方の国という意味で、かつてその境は隅田川(大川)でした。江戸時代は武蔵国である川の西側(現在の中央区)のほうが「両国」で、下総国である東側(現在の墨田区)は「向両国」と称されていましたが、明治以降はいつしか東側のほうが「両国」として知られるようになったため、住居表示では西側を「東日本橋」ということにしてしまいました。これでは後世の人に意味が伝わらないどころか、大きな誤解を招きかねません。
お話が逸れましたが、本書は今後都電に関する歴史的事象について興味関心を持ち、何かしらの考察・発表をする人たちにとっての“必携基本教科書”としても過言ではありません。一般商業誌ならではの制約もあるでしょうが、できれば教科書に準じて、末永く在庫を確保していただきたく存じます。
ただし、現在の道路名との対応(動坂線=不忍通り、富坂線・切通線=春日通りなど)にはふれられていないため、イメージがすぐに把握しづらい感触が若干残ります。戦後全盛期(1962年ごろ)の停留場名五十音表インデックスもあれば便利ですが、それらはこの本の趣旨からやや離れるため、本ブログ筆者がいずれまとめてみたいと考えています。
「わが街わが都電」の紹介記事で、「小石川地区の住居表示実施による町名変更はもったいないことをした」と申し上げましたが、旧小石川区には「掃除町」という町があったそうです。市電の停留場名にも採用されていて、1911年(明治44年)から1925年までと、ほぼ大正時代に相当します。そのデータも白山線の項目で確認できます。
調べてみたら住居表示制度など想像もつかない段階(1925年=大正14年)に早くも「八千代町」と改称して、その際に停留場名も変更されました。小石川掃除町は1663年に、伝通院などの御廟所掃除役の人たちに幕府が屋敷を与えたことに由来する町名といいます。明暦大火(1657年)から6年後で、街の復興に寄与させる意味合いもあったでしょうか。
しかし幕府がなくなり近代化の時代を迎えると地元でも、他所の人から笑われやすいという意見が出たのでしょうか。今ならばすぐに覚えてもらえてかえって歓迎なのでしょうが。ちなみに「洗濯町」はありません。
13系統が通っていた角筈線にも、箪笥町、焼餅坂などの停留場があったことが確認できます。箪笥町は牛込区役所前に改称されて、戦時中の1944年(昭和19年)に廃止。焼餅坂は大正時代のうちに山伏町に改称されて、路線廃止(1970年=昭和45年)まで残りました。牛込地区は町名改定を行わなかったため、箪笥町は現在でも新宿区の公式町名です。「箪笥」は収納家具ではなく、幕府で管理する武器類の総称のことといいます。
牛込地区は昔の細かい町名のままでも支障なく行政が機能しています。ということは他でも無理をして、地元の人に嫌な思いをさせてまで町名を変える必要はなかったのではありませんか。
たとえば「両国」とは武蔵と下総の両方の国という意味で、かつてその境は隅田川(大川)でした。江戸時代は武蔵国である川の西側(現在の中央区)のほうが「両国」で、下総国である東側(現在の墨田区)は「向両国」と称されていましたが、明治以降はいつしか東側のほうが「両国」として知られるようになったため、住居表示では西側を「東日本橋」ということにしてしまいました。これでは後世の人に意味が伝わらないどころか、大きな誤解を招きかねません。
お話が逸れましたが、本書は今後都電に関する歴史的事象について興味関心を持ち、何かしらの考察・発表をする人たちにとっての“必携基本教科書”としても過言ではありません。一般商業誌ならではの制約もあるでしょうが、できれば教科書に準じて、末永く在庫を確保していただきたく存じます。
ただし、現在の道路名との対応(動坂線=不忍通り、富坂線・切通線=春日通りなど)にはふれられていないため、イメージがすぐに把握しづらい感触が若干残ります。戦後全盛期(1962年ごろ)の停留場名五十音表インデックスもあれば便利ですが、それらはこの本の趣旨からやや離れるため、本ブログ筆者がいずれまとめてみたいと考えています。
この本では、路線を代表して運転されていた電車類の正面からの形状をデジタルアイコン化して、シンボルマークのように使われています。こげ茶色の旧型国電(73系など)も作っていたことには笑いました。
その一方、国鉄赤羽線について“埼京線”の案内が始まった1985年(昭和60年)9月以降の車両変遷しか掲載されていないため、旧型国電の72系からCanary Colorの101系に置き換えられた年代が調べられず、そこは残念な仕上がりでした。1981年(昭和56年)に出版された「東京の国電」(ジェー・アール・アール編)によれば、1967年(昭和42年)4月からとされています。すなわち志村線運転時代、陸橋下を通る国電は旧型のこげ茶色73系8両編成でした。